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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない情報,スキル
配信日 09年7月18日 (10年12月27日 記述を追加)
タイトル 幸福の心理的ベース
先週から、「他者を認識する能力」に関する文章を、集中的に配信しております。今週は、その「他者を認識する能力」があるがゆえに持つことができる様々な心理的ベースについての文章を配信しております。そして今回の配信が12回連続シリーズの最終回です。
今まで散々書いてきましたが、ダメダメ家庭においては、マトモ家庭出身者が当然のこととして持っている心理的なベースを持っていない。

たとえば、会話を作り上げるためには、まずは会話を生み出す土壌を作り上げる必要があるもの。お互いが受け入れ可能な言語とか考え方とかを調整した上で、別の言い方をすると、客観というものを確認した上でやり取りをしないとトンチンカンなものになるだけ。あるいは、人との間に信頼関係を構築するためには、信頼に関する心理的なベースを作るのが先。

しかし、ダメダメ家庭においては、そもそもが他者というものを心理的に認識していない。
だから他者との関係において成立する、会話とか信頼というものを構築することが難しくなる。構築以前にその前提となる土壌が出来ていない状態。

本来は、まずはベースというか土壌から固めていく必要があるわけですが、現実的には、何も固まっていないユルユルの土壌の上に立派な大伽藍を作ろうと無理をして、結果的にドッカーンとなってしまう。
それに、心理的なベースというものは、本人の努力ではどうにもならないもの。

それこそ、産まれた時に盲目だった赤ちゃんが、1年後に角膜移植をして、目の機能が使えるようになっても、生まれながらの健常者と同じレヴェルには、視覚機能が使えない。
赤ちゃんの頃からの、体験とか訓練とか反応の積み重ねによって、情報を処理する枠組みが作られるわけです。その枠組みの上で、個別の判断がなされることになる。枠組みそのものが不全の状態だったら、個々の判断の的確性の問題ではなく、判断そのものができなくなってしまう。

視覚情報の処理の場合と同じように、他者というものを心理的に認識するためには、他者とのやり取りの積み重ねが要求されるわけです。前にも書きましたが、人工的に作った縦線ばかりの世界で育った猫は、成長した後で、横線を認識できなくなってしまう。視覚情報の処理のシステムというかベースができなくなってしまうわけです。
人の気持ちを認識するに当たっても、自身の感情を抑圧し、反応が欠如し、心理的な存在感のない人とのやり取りを積み重ねてしまうと、他者の心情が理解できなくなるのは当然でしょ?

さて、抑圧的なダメダメ家庭においては、他者というものを心理的に認識できなくなってしまう。以前にも書きましたが、抑圧的なダメダメ家庭の人間が見えている世界は、明瞭な感覚が、断片化され、コラージュ的に飛び交っているだけ。
そんなコラージュが飛び交っている状態というか、反応がないマネキンに囲まれている状態だったら、当然のこととして、幸福とはいかないでしょう。

会話の心理的ベースの構築のためには、相互に反応がある良質の会話を積み重ねる必要がある。言葉を垂れ流しているだけの反応がない環境では会話の能力が付きはしない。それと同じように、幸福とは無縁の日々を積み重ねると、幸福の心理的なベースも形成されなくなるわけです。
そもそも、抑圧的環境にある子供は、他者を心理的に認識できず、その結果として、会話の心理的なベースもできず、そして信頼の心理的なベースもできていない。だからこそ、思いやりの心理的なベースもない状態。会話不全で、信頼とは無縁で、思いやりのない関係において幸福を感じるわけがないでしょ?

おまけに、ダメダメな親は被害者意識が強く、常に犯人探しをしている。だから子供が気を緩めると、子供自身が犯人として認定され、報復されてしまう。だから常に親の目をうかがう必要がある。そんな状態なんだから、とてもじゃないけど、精神的な安定とは行かないでしょ?精神的な安定とは無縁なんだから、幸福とも無縁ですよ。

つまり、ダメダメ家庭においては、幸福の原体験ができないわけ。
「どんな状態が幸福な状態なのか?」それを分かっていないし、実際に自身では幸福感というものを感じたことがない。
だから、このように周囲に語ることになる。
「ワタシは幸福なんて求めていないわ!ただ、『ふ・つ・う』の生活がしたいだけ!」

そんな言葉は、以前に取り上げたことがありますし、購読者の皆さんも、実際に聞いたことがあるのでは?実際に言った側の人は、もう、購読解除しているでしょうね。
そのような発言は発言でいいとして、実際には「幸福を求めていない」のではなく、「幸福というものがどんなものなのかわからない」し、だからこそ「幸福の求め方を知らない」わけです。それを、言葉の上では「求めていない!」などと謙譲がかった物言いで言ったりしますが、現実は「求めることができない」のが正確な表現なんですね。

そして、そんな人が語る「『ふ・つ・う』の生活」という言葉の意味としては、今回の一連の文章で集中的に言及しております、他者が発する視覚情報なり聴覚情報に、「当人の判断なしに合わせる」ことと同義なのはスグに分かるでしょ?

あるいは、その「ふつう」というものは、「不幸ではない」「不幸を感じない」状態とも言えます。だからと言って、幸福かというと、それは別のもの。逆に言うと「不幸を感じない」状態を求めているわけだから、そもそも何も感じないことで、あるいは、あらゆる感情を抑圧することで「不幸を感じない」ようにしてしまう。まさに「うつろな人」になることで、不幸を認識することから逃避してしまう。何回も書きますが、二重否定と肯定の間には大きな差があるわけです。その点に注意しないとダメダメの問題は理解できない。
抑圧的な人間は、「不幸ではない」という二重否定であっても、幸福を感じるという肯定形の体験をしていない。

幸福の原体験がなく、つまり当人にとっての幸福の原点がない。
そして、それ以降も、幸福な思いをしてない。だから幸福を認識する枠組みというか、幸福を記述する座標軸がまったくない。

心理的な枠組みというか、状況を認識し記述する座標軸があるから、当人としても周囲を認識し、それを踏まえ、当人なりの判断なり、アクションをするわけでしょ?幸福の枠組みがなければ、「それが自分の幸福にとって、どのように役に立つのか?」そんな判断もできませんよ。「どのように位置づけるのか?」そのような問題ではなく、枠組みがないので位置づけそのものができないわけ。

だから、どんどんと幸福とは無縁の日々になってしまう。
そして、そんな幸福とは無縁な自分を「ワタシは幸福な生活は求めていない!」と説明することになる。単に幸福を求めないだけでなく、現実においては、不幸の方向に心理的なベースが出来上がってしまう。

そもそも、ダメダメ家庭というものは、不快な思い出は山ほどある。だから不幸の原体験には事欠かない。
それだけではなく、ダメダメ家庭の日々で、どんどんと不快な体験が積み重なり、その豊富な不幸体験によって、不幸の枠組みが形成されるわけ。

そんなことをすると、こんな不快な目にあう!
あのようなことを言うと、こんなイヤなことになる。

そのように、不幸については、実に見通しがよくなってしまう。 そして、それぞれの不快な観点を元に座標軸なり枠組みが形成されるので、どんなことでも、不幸の要素と認識し、当人の不幸を増進する方向に作用することになる。

それこそ、スポーツなどでトレーニングする際にも、幸福の枠組みができていれば、「このようなトレーニングによって、自分ではこのようなことができるようになるし、体力も付く。」そのようにプラス方向に認識できることになる。しかし、不幸の枠組みができていると、「自分ではやりたくないのに、こんなツライことをさせられて・・・ああ!イヤだ!」そうなってしまう。
同じトレーニングをしても、受け取り方は違うわけ。その受け取り方の違いによって、当人の幸福が増進されたり、不幸が増進されたりする。不幸という形でしか認識し記述できない人にしてみれば、結果も不幸の要素としてしか、認識できなくなる。

それこそ、以前に韓国の歴史教科書を取り上げた際にも触れましたが、日本の統治によって行った貨幣の統一だって、韓国人にしてみれば、被害になっているわけ。「ああ!それまで色々な貨幣制度があったのに、日本によって貨幣制度が統一化されてしまった!ああ!オレたちって、何て不幸なんだ!」と嘆くだけ。もし、幸福についての心理的ベースがあれば、「今まで出来なかった貨幣制度の統一が、日本の外圧で達成することができた。まあ、この点はラッキーだな。」そのように思えるでしょ?

それこそ、「自分で認識し、判断し、行動する」ことだって、幸福の心理ベースがあれば、「自分自身で自分の責任でもって行動することが出来る。」と認識することになる。しかし、不幸の心理的ベースが存在していると「自分で考えなくてはならない!ああ!面倒だ!それに後でトラブったら周囲から責められるんだろうなぁ・・・イヤだなぁ・・・」というスタイルで心理的に受け取ることになる。そんな「受け取り方」の違いがどんな結果の違いにつながるのか?そんなことは誰でもわかること。

同じことをしても、同じ状態であっても、受け取り方は、心理的なベースによって異なるわけです。同じ場所でも、碁盤目座標で記述することもできるし、極座標で記述することもできる。人間は場所そのものではなく、記述された座標で認識するわけです。前回配信の文章でも書きましたが、不幸の心理的ベースがあれば、何事も不幸の要素と認識し、自分がこうむった被害と認識するから、次には報復することを考え、「相手を不幸にする」「相手に被害を与える」というその計画や行動によって、ますます不幸の心理的ベースが強化されてしまう。そんなことだから、周囲の人から受けることもある「自身で認識し、考え、行動する」サジェストだって、ヘタをすれば、被害と捉え、そんなことを要求した周囲の人に対し、報復するようなことになってしまう。

そもそも信頼の心理的ベースがないので、人とのやり取りにおいては、必要以上の警戒心を持ったりする。そして、自分の身は自分で守る必要があると切羽詰っている。そんな警戒感があるがゆえに、もって回った言い回しをして、「アンタは、結局は、何が言いたいの?」と相手から怒られてしまったり、実際にトラブルになり、ますます不幸体験となってしまう。そうやって、何をやっても、不幸と感じ、それが積み重なる。

よく、「若い頃の苦労は買ってでもしろ!」なんて物言いがありますが、幸福の心理的なベースがあれば、若い頃の苦労も将来において役に立つでしょうし、不幸の心理的なベースがあれば、より不幸が進むだけ。まずは、自分自身の心理的なベースの特徴を知ることが最初に必要になるわけです。

不幸の心理的なベースが強固に存在する場合には、それを自覚し、解きほぐす必要があるわけです。とは言え、何度も書きますが、動物として生理的早産といえる人間にとっては、劇的な改善は、いわば生物的に無理なこと。角膜移植をして目の機能は完全になっても、視覚認識機能は完全にならないようなもの。

心理的枠組みが出来上がった段階での様々な微調整は、当人の努力で是正することも可能でしょう。右方向に10ポイントずらして、上方向に5ポイントずらす・・・そんな記述で微調整するだけ。しかし不幸の枠組みが形成されると、親に迷惑を掛けない方向に10ポイントずらして、○○さんに怒られないように5ポイントずらす・・・そんな心理的な修正になってしまう。枠組みそのものが不幸を記述するようにできてしまっているわけです。それをポイントの数値的な調整によって対処しても、所詮は、不幸を生み出す枠組みの中での微調整となっているだけ。つまり不幸の記述が若干変わってくるだけ。まずは枠組みの問題ですし、そして枠組みそのものの是正は、当人では難しく、現実的には無理なんですね。

何回も書きますが、幸福の心理的ベースがないので、何事も不幸の要素にしかならないし、
不幸や被害の形でしか記述できないわけです。だって座標軸が不幸の方向にできているんですからね。
それを自覚して、自分の心理的ベースを見つめなおすなら、それ以上の悪化は避けることができるでしょうが、現実的には、親譲りの自己逃避で、自覚から逃避する。

いわば、自身の不幸の心理的ベースを使わないように、現状を見ないという方式を取ることになる。
いわば「オレは酔っていないぞ!」という臨界点突破のパターン 。いわば、妄想の世界だけに生きる場所を求めてしまう。目の前の現実を自分の座標軸を通じて認識するのではなく、どんなものに接しても、認識のパターンを決めてしまう。「ワタシは幸福よ!幸福だってば!」と何があっても主張する。
確かにそうすれば、自分の中にある不幸の心理的なベースは作動しなくて済みますからね。
いわば、自分を騙すわけ。かと言って、自分の中にある不幸の心理的ベースは、とりあえずは作動していないというだけで、心の奥底で息を潜めている。

認識の心理的ベースを稼働させないんだから、そのまま何も考えずに、結婚し、子供を作る。いわば家庭を作るという事業に立ち向かう。しかし、不幸の枠組みが潜在的に存在するままで、そんな大伽藍を打ち立てると、さらに不幸の方向に進んでいくだけ。
そうして、新たなる不幸が増え、「どうしてこんなことに?!」と嘆くことになる。
そして、「生きていても、いいことなんて何もない!」と子供の前で嘆くことに。

そんな嘆きを語る人は、「いいことなんて何もなかった。」と実際に認識しているわけですから、その発言は論理的には実に正確と言えるでしょう。しかし、もし、その人に、「幸福の心理的ベース」があれば、同じ体験をしても、「いいこと」と思えたりするわけです。それこそ幸福の心理的ベースがあるからこそ、子育ても、それなりに意義ある体験と受け取ることができるわけですが、不幸の心理的ベースがあれば、子育てを語る際にも、「自分の時間がなくなった。」「お金を使わされた」そのような不幸を語るスタイルでしか語れないことになってしまう。不幸としてしか語れないからこそ、まさに不幸体験として認識し、その認識によって、ますます不幸の枠組みが強化されることになる。
その強化された不幸の枠組みが、また新たなる不幸を呼び込んで・・・とスパイラル的に続くことになる。

幸福の枠組みがない場合には、幸福なものは、そもそも認識しない。あるいは、幸福としては認識しない。そんな人の生の実感は、不幸なものばかり。
それこそバルザックの「谷間のゆり」のアンリエットが言うように「幸福には限りがありますわ。不幸には限りがありませんが・・・」なんてことになってしまう。
そんな精神状況は、幸福というものを認識する心理的な枠組みがないということなんですね。幸福を認識することができないがゆえに、「生の実感」を求めて、どんどんと不幸に突進してしまう。

幸福の心理的ベースがなく、幸福というものを実感できないので、そんな人は写真がないことが多い。だって、幸福ではない、つまらない今の瞬間を、どうして、後々まで残す必要があるの?
実際に昔に撮った写真を見たりしても、「ふーん・・・」となってしまうだけ。だって「幸福」というものを認識できないんだから、昔のことを思い出しても、それは「純然たる過去の記録」であって、「楽しい思い出」ではないわけです。

そんな人は、友人たちと一緒に昔の写真を見ても、妙に居心地の悪い状態になってしまう。
いわば、思い出との付き合い方がわからない状態であり、そんな人は「記録写真」と「楽しいポートレイト」の違いが心理的に認識できない。

普段から感覚情報がコラージュ化されたように認識しているダメダメ家庭出身者は、実体としての人間的な感情が消失し、それゆえに、時間についても断片化されている。逆説的になりますが、感覚が断片化され、時間が断片化されているがゆえに、そんな人が認識する日常は、写真の集積のようなもの。だからこそ、わざわざ写真を撮ろうとも思わないし、写真を見て喜ぶ人たちの気持ちがわからない。

何回も書きますが、心理的なベースは、産まれた直後の養育者とのやり取りによって形成されるもの。
それは当人が後になって修正しようがない。

それに、幸福の心理的ベースというものは、会話の枠組みができて、信頼の枠組みがあって、思いやりの枠組みがあるからこそ、形成されるもの。
だから、当人の努力で幸福の枠組みを形成しようとしても無理ですし、無理に形成しようとして、まさに視覚情報や聴覚情報などの感覚情報だけを頼りに、幸福の形だけをまねることで対処して、実質的により悪くなってしまい、結局は不幸の心理的ベースを強化してしまう。

幸福の心理的のベースを持っていなくて、不幸の心理的ベースを持っているがゆえに、そんな人の語る言葉は、不幸や被害の話ばかり。だって、事物をそのように認識する体系が出来上がっているわけですからね。
そんな人は、幸福の心理ベースを持っている人とやり取りをしようとしても、まさに「話が合わない」ことになってしまう。
「あの人・・・いったい何を言っているの?」
そうなってしまう。

前に心理的ベースとか枠組みは、パソコンにおけるOS(基本ソフト)のようなものと書きましたが、Windowsのパソコンとマックの間では、直接的にはやり取りはできないでしょ?
それを自覚して、それなりのインターフェースを使えばやり取りも可能になるわけですが、自覚から逃避する抑圧的な人間は、そんなことはしない。
「ミンナはワタシのことをわかってくれない!」「あ〜あ、誰かワタシと一緒にいてくれないかなぁ・・・」と周囲を見回すことに。

不幸の心理的ベースというか、被害の心理的ベースを持っている人との間で、話が合う人となると、結局は同類しかいない。そもそも座標軸の体系が似ているんだから、やり取りもスムーズに進む。
と言っても、そのような被害の座標軸で認識し、記述すると、結局は被害の話ばかりになってしまう。だって、お互いが、幸福を認識する心理的ベースを持っていないわけですからね。

まさに、似た心理的枠組みを持つもの同士で、共鳴が起こることになる。
共鳴が起こってしまうがゆえに、ますます不幸の心理的ベース,被害の心理的ベースの働きは活性化され、機能は強化されてしまう。

不幸の心理的ベースを持ってしまっているのは、当人では回避できないこと。
何度も書きますが、新生児の頃からの、養育者とのやり取りの積み重ねによって、そのような枠組みが形成されるわけですからね。しかし、それを自覚しないと、同類に寄って来られてしまい、共鳴によって、被害に対して食いつく機能が強化されてしまう。その共鳴による強化は、当人の自覚さえあれば避けることもできるわけです。

このメールマガジンでは、ボランティアの連中のことを好意的に書いておりませんが、ボランティアの連中こそ、不幸や被害の心理的ベースを持っている人々と言えるでしょ?
彼らが認識するのは、不幸だけ。彼らが対象とするのは、被害だけ。そして、誰かに被害を与え、不幸にするという報復行為で、その状況を解決しようとする。
そうして、「アイツをやっつけたぞ!メデタシ!メデタシ!」と大共鳴。
共鳴現象によって、普段以上の実感を得るだけでなく、不幸の枠組みも活性化されてしまう。そして、もっともっと、共鳴現象を求めてしまう。
ダメダメ家庭出身者は、そんなことを繰り返しやっているものでしょ?

自分の心理的枠組みがどんな時に共鳴するのか?
ダメダメ人間は、不幸な状況の時にしか共鳴しない。だからこそ、幸福への嗅覚を持っていない。そんな人は、以前に書いた「不幸への憧れ」を持っているもの。
不幸の心理的ベースがある人は、自分が不幸になるか?敵である相手を不幸にするか ?そんな点からしか物事を認識できない。
だからこそ、ますます不幸になるわけです。

自分がトラブル状態にある時に、真っ先に駆け寄ってくる人は、それだけ被害への感応性があるわけ。そんな人は「自分はどうしたいのか?」という方向の座標軸を持っていない。ただ、被害話に共鳴するだけ。逆に言うと「自分はどうしたいのか?」という方向に座標軸がある人同士が共鳴すれば、それはいわゆる協力関係でしょ?幸福への嗅覚を持つもの同士が共鳴すれば、事態も改善していきますよ。

よくモンキリのご正論で、「重要なことは、気の持ちようだ!」などと言った言葉があります。まさにその通りなんですが、その「気の持ちよう」の基本形は、幼少期にできあがってしまって、まさに前回配信の文章で引用した心理学者のボウルビィが言うように可塑性が低いわけです。
そもそもが、事態の認識段階で、不幸を認識するようにできてしまっているので、その後で「気の持ちよう」で調整しても、やっぱり限界がありますよ。あまり無理をすると、自分を騙すようになるだけ。結局は、不幸がますます進行してしまう。

あるいは、「従来からの自分の枠組みだと、どうも、うまくいかないことばかりだ・・・」そんな人は、自分が持っている枠組みとは別の枠組みに従う方法を取ることもあります。
それこそ、宗教団体への入信のパターンです。
その宗教団体なりの、考え方、ものの見方に「従う」ことで、自分が持っている不幸に導く枠組みを稼働させないようにするわけです。
その手の団体だったら、信者に命令してくれるでしょ?
「このような時は、このようにみなすべきだ!」
「このような際には。このような行動をすべきだ!」

まさに、自分の枠組みを稼働させないために、宗教団体がお題目として掲げる「こうすれば、オマエは幸せになれるぞ!」という枠組みを受け入れるわけです。
認識や行動まで決められてしまえば、逆に言うと、当人としては、自分が持っている不幸の枠組みを使わないで済むでしょ?
しかし、じゃあ、どうして、その教団に惹かれてしまったの?
どうして、その考え方に関心を持ったの?
どうして、そんなにそれがいいと思ったの?

それって、当人が持っていた不幸の枠組みにフィットしたからでしょ?
自分が持っている枠組みにフィットしなかったら、目の前にあっても、素通りしてしまっていますよ。不幸の枠組みにフィットしたからこそ、その教団に惹かれてしまったわけでしょ?
だから、そんな教団が提供する枠組みは、不幸の枠組みの形をちょっと変えただけなんですね。相似性が高いからこそ、当人の枠組みと共鳴したわけです。
本来は、自分の持っている不幸の枠組みが共鳴している時点で、その相手とは、ちょっと距離を置く必要があるもの。
その手の教団がよく言ったりする、「このようにしさえすれば、誰でも幸福になれる!」そんな言説は、幸福の枠組みから導かれるものではないことは、ちょっと考えれば分かることですよ。だって、個別の幸福体験が記述できないんだから、結局は幸福の座標軸ができていないわけです。「悪いのは全部あの○○のせいだ!」「アナタは悪くない!」という言葉は、幸福を具体的に記述したものではないでしょ?むしろ、被害を語る座標系から導かれるものでしょ?

不幸の枠組みを持っている場合には、自分の心理的枠組みのパターンを自覚するとともに、心理的枠組みをいきなり全面的に修正しようとするのではなく、ちょっとした小さな成功体験を積み重ねて、幸福を認識する新たなる座標を付け加えるようなパターンの方が現実的なんですね。既存の枠組みを直接的に修正しようとしても、それは心理学的に無理。自分の心理的ベースの正体について、認識し、分かった上で、あまり稼働させない・・・そんな配慮が現実的に必要になってくる。
つまり、自分との距離感の問題が重要になってくるわけです。

自分の心理的ベースを見ないという方法は、そんな距離感の問題からも逃避してしまう。
あるいは、別の枠組みに従うという方法でも、自分の心理的ベースの問題は自覚はされていない。だからこそ、いざというときに、自分自身との適切な距離感を持つことができない。そして、実際にトラブルになったりすると、結局は、自分が持っている不幸の心理的ベースが、全面的に稼働し、そして周囲の人が持っている不幸の心理的ベースと一緒に大共鳴してしまう。
その結果がどうなるの?

その結果については、実際にごらんになった方も多いでしょ?

(終了)
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発信後記

長〜いシリーズもこれで終了です。
ホント、プリントアウトして読んでくださいな。
メールマガジンでの配信では、1行は36文字で改行しておりますが、バックナンバーのサイトは、改行は行っておりません。
ですからプリントアウトする際には、バックナンバーのサイトから文章をコピー&ペーストして、1ページに詰め込んで、あと、余白の少ない印刷設定にすれば、紙の消費も少なくなるはずです。

来週から、また通常の配信スケジュールに戻りますので、よろしくお願いいたします。
R.10/12/27