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カテゴリー 自己への抑圧
配信日 09年7月24日 (11年1月28日 分離独立)
タイトル はじめに義務ありき (そういうものだ,そうしなければならない)
 追記 09年7月24日配信の「別腹思考」から分離独立 (11年1月28日) 
ダメダメ家庭の人間は、自分自身から逃避している。
自分で事態を見て、自分で判断することはしない。
むしろ、自分の目の前の現実から目を背けようとする。そうやって、判断の必要性を認識すること自体から逃避してしまう。
ただ、周囲の人間に合わせているだけ。それを「ふ・つ・う」と言ったり、権威主義的なスタイルで、「○○先生は、これが正しいと言っているから・・・」と自分を納得させる。

そんな現実逃避の人間は、様々な事態に際し、「そう言うものなんだから・・・」と自分を騙すような形で、何も考えず、何も対処しないままで突き進んでしまう。
義務感を持ち出すことで、自分の選択の可能性を否定するわけです。

自分では何も考えないダメダメな人間も、人とのやり取りをすることもある。人と話をして、「ワタシはこうしようと思う・・・」なんて言うのはいいとして、その考えは自分で考えたわけではない。ただ、人に合わせていたり、誰かの言葉に従っているだけ。
だから、相手から聞かれることになる。

「どうして、そうなの?」

そんな当たり前の質問に、まさに、
『そういうものだから。』と回答?することになる。

皆さんも、そんなやり取りをやった方もいらっしゃるのでは?あるいは、そんな言葉を言われた方もいらっしゃるのでは?あるいは、「そういうものだ。」と言ってしまった方もいらっしゃるのでは?

「そういうものだ。」はいいとして、具体的に、どんな事例があるの?
「あの○○さんが、あの時、このようにして、このような結果を得たから、そうすると効果があるはずだ。だから、そういうものなんですよ!」・・・そのような物言いだったら聞く側も納得もしますよ。しかし、ただ「そういうものだ。」だけだったらねぇ・・・

何の説得力もないでしょ?
聞いた方はどうすればいいの?

たとえば、映画などについての話をしていた際に、「あのシーンはこのような意味で、監督さんはこんな意図があったんだろうねぇ・・・」などと私が言ったりすると、『そんな見方はよくない!』なんて言われたことがあります。
私としては当然のこととして聞くことになる。
「どうして?どうして、よくないの?」
そうすると、まさに、
『だって、そういうものだから・・・』との回答。

そんな言葉を聞かされると、その人の歯並びの悪さをじっと見つめるだけ。

まあ、映画や文章に対する見解は、私は一般人?と随分違っていますからね。私が見る視点は、作り手の視点であって、鑑賞者の視点ではない。多くの人と違うから、「よくない。」とか「不適切だ。」と思うこともあっても当然でしょう。だったら、それを客観的な形で説明すればいいじゃないの?
自分が言いたいことなり、相手に分かってほしいことがあるのなら、がんばって多くの事例を挙げて、説明すればいいだけでしょ?自分の考えを、自分の言葉で伝えればいいだけの話ですよ。たとえ、その内容のレヴェルが低くても、その人が自分でしっかり考えた上でのことだったら、私としてもちゃんと聞きますよ。
しかし、「そういうものなんだ!」で何が伝わるの?と言うか、何を言いたいの?

しかし、「そういうものだ。」と言ってしまうことによって、会話を封印してしまうわけです。会話だけでなく、思考も封印してしまう。
「じゃあ、自分はどう考えるのか?」
「それを、どのように相手に伝えるのか?」
そのようなことを考えることから逃避するためには便利な言葉が、この「そういうものだ。」という言葉。

相手に納得してもらうための言葉というより、自分で納得するための言葉なんですね。
別の言い方をすると、考えることから逃避するための言葉といえます。
あるいは、逃避つながりで言うと、捨てセリフの一種のようなもの。
まあ、映画や文章に対する見解に対する反応で、そんな言葉が出てくるくらいならまだしも、現実では、もっと頻繁に使うようになってしまう。

『アナタは、どうして結婚したの?そもそも、結婚したくはなかったんじゃないの?』という質問に対して、
「だって・・・そういうものじゃないの?」との回答。

『アンタ・・・子供が好きでもないのに、どうして子供を作ったの?』との質問に対して、
「だって、そういうものだから。」という回答。

『お母さん!どうして、ワタシは大学に進学させてくれないの?』という質問があれば、
「だって、そういうものだから。」と回答する。

そう言われちゃってもねぇ・・・
『そういうもの・・・って、具体的にはどんなものなの?』と続けて聞くと、
「そういうものは、そういうものなんだよ!」と回答になるだけ。

まさにダメダメにお約束の名言といえる「ふつうって、ふつうのこと。」の境地となってしまう。
実際に、上記の「そういうものだ。」という言葉は、「それが、ふつうだから。」と置き換えることができるでしょ?結局は、当人としては何も考えていなくて、周囲に合わせているだけなんですね。
と言うか、映画についてのおしゃべりで、「そういうものだ。」と言った人は、その後で「ふつうって、ふつうのこと。」と言ったなぁ・・・
あの人、今どうしているんだろう?
まあ、見当はつくけど・・・

「そういうものだ。」なんて気軽に言ってしまう人間は、それだけ自分で考えてはいないわけです。自分では考えないから相互理解につながる会話もしてしない。
本来なら、そんな人と一緒にいても楽しくはないんだから、それっきりで済むわけですが、自分で考えない人とのやり取りの方がラクな人もやっぱりいる。つまり同類の人たち。
そんな同類同士で結婚したりすると、結婚後はどんなやり取りになるの?
そんな家庭をどう言うの?

「そういうもの」・・・と言うのは、義務感の表明でしょ?だからこそ、当人の楽しみとか選択の可能性とは無縁となる。
「そういうものだ」と言ったりする人は、選択とか楽しみにつながるマターといえるお菓子の話題には弱いもの。
まさに必要性とか義務感だけで生きている。
自分で考えるというよりも、何かに従うというスタイルになっている。
言葉はともかく、発想も行動も、常に受動形なんですね。

だから「そういうものだ!」なんて物言いをしたりする人は、「しなければならない!」なんて独り言のような物言いを、相手に言ったりする。
必要性とか義務感を前面に出すことによって、当人自身の判断から逃避してしまう。
そして、「そんな義務を背負っているワタシ。」という立場をアピールする。
たとえば、子供の教育費ためにバイトなりパートをするにせよ、「あ〜あ、子供のためにパートをしなくてはならないわ!」などと子供の「前で」言うことになる。
子供に対して言うのでも、完全な独り言でもない。子供の前で独り言。

要は、「自分は子供による被害者なんだ!」と言いたいわけです。
子供の教育のため・・・と言葉の上では言いながら、子供のことなど何も考えてはいない。
ただ、「そういうもの」とか「しなくてはならない」・・・という漠然とした、思考停止的な義務感があるだけ。常に受動的であるがゆえに、不都合なことは全部「被害」として認識されてしまう。

「と言っても、『しなければならない』という言葉は、英語でいうと『must』であるから、ダメダメに限らない一般的な言葉じゃないのか?」
皆様が、そのように思われるのは当然です。
一般的な言葉でもありますから、実際に、この「しなければならない」という言葉を使ってマトモな表現を作ることは簡単です。
それこそ、
「ワタシは、○○を達成するために、△△をしなくてはならない。」
そのような端的で能動的な言い回しだったら、ダメダメではありませんよ。

しかし、ダメダメな人とのやり取りでは、そんな端的なスタイルで「しなければならない」という言葉を使わないものなんですね。
「・・・そうなると、△△をしなければいけない・・・のかなぁ・・・」そんな感じになってしまう。
それなりのやり取りの「流れ」があって、漠然とした雰囲気で、「しなければならない」という言葉が登場してくる。漠然とした言葉なので、主語とか目的語が不明のケースが多い。言葉の対象者が明確ではなく、独り言に近い。

そんな曖昧な使い方なので、聞かされた側は、
「しなくてはならない」のは誰が?
「しなくてはならない」のは何を?
本当に「しなくてはならない」とアナタ自身は考えているの?
そうして、「結局は、アンタはどうしたいの?」との、お約束の疑問になってしまう。

これが、『自分としては、○○を達成するために、これをする必要があるんだ!』
という自覚なり決意を語るのなら、マトモでしょう。
しかし、ダメダメ人間の「しなくてはならない」は、じゃあ、何をするのか?それ自体もあいまいだったりするんですね。
英語で言うと、助動詞の「must」はあっても、肝心の動詞がない状態といえるでしょう。

結局は、「しょうがないから、やらなくちゃ・・・」という被害者意識の表明となっている。
「しなくてはならない」から、しょうがなく「してやる」けど・・・ホントウは・・・と、恩着せがましい気持ちを持っている。そんな態度では何も達成できるわけもなく、結局は、トラブルになり「アイツのせいで・・・」と他者を恨むばかり。
人の前で独り言のような形で「しなくてはならない。」と言ったりするのは、まさに「オマエのせいで、このようなことをさせられているんだ!オマエが悪いんだ!」という犯人認定の心理なんですね。

まあ、そんな人って、現実にいたりするでしょ?

そんな人が、実に多くいるのが離婚現場です。
そんな場では、「しなければならない」なんて言葉が頻繁に聞かれるもの。
そもそも、そんな人は、結婚だって、必要性や義務感だけで「しなければならない」からしただけで、その人自身としては、何も考えていないし、特に希望があったわけではない。だからこそ「アイツと結婚してやった。」という、自分の持ち出しだけを意識している。
そんな意識だからこそ、上手く行くわけもなく・・・トラブルが起き、周囲からのアドヴァイスや指摘も入る。
そうなると、そのアドヴァイスを受けて「じゃあ、それをしなければならないんだろうなぁ・・・」と受け身の形で渋々従うばかり。そんなことだから、結局はトラブルが大きくなって、「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、いつものグチ。

そういう意味では首尾一貫しているといえます。

「ワタシは、○○を達成するために、△△をしなくてはならない。」という能動的なパターンなのか?
「・・・そうなると、△△をしなければいけない・・・のかなぁ・・・」という受動的なパターンなのか?
その2つは、日本語的に似ていると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、その心理は大きく違っています。片方は当事者意識につながり、もう一方は被害者意識の発露なんですね。
その違いを聞き取れるようになると、ダメダメな人も見分けが付くようになるものなんですよ。

このような独り言系の、自分自身に確認するような、「しなくてはならない」は、たとえば公務員に多い言葉でしょ?あるいは、歴史的に言うと、ナチによるアウシュビッツ収容所のスタッフがそんなことを言っていたとか。
アウシュビッツのスタッフは、「こんなヤバゲなことをやらされている、かわいそうな被害者」として自分自身を認識することで、当人が直面している人道上の問題から逃避したわけです。
そして、そんな「しなくてはならない。」という言葉は、「ああ!オレって、なんてかわいそうなんだ?!」という被害感情につながっていくわけです。

相手に対して語るのなら、「自分はこのように考えているけど、アンタはどう思う?何か不都合なことが起こってしまうのかな?」という物言いだったら意志疎通につながる会話の言葉と言えるでしょ?
しかし、単に「しなければならない。」というのはグチであり、自己憐憫なんですね。
だからこそ、やり取りの相手の「前で」独り言のように言うことになる。
そして「仕方がなくやらされている。」と自分自身に確認することで、以前に書いた「言い訳の事前準備」としている。

たとえば、約束を破る場合でも、その約束そのものが「しなければならなかった」から、つまり「させられた」だけだから、当人としては無視する権利があると主張することになる。
「させられる」という命令を受ける形が基本なんだから、今度は自分なりに何かをする場合には「してやった」という持ち出しを意識した発想になる。
そして、「わざわざしてやった」んだから、「恩を感じろ!ワタシこそが被害者なんだぞ!」となる。

そして、そのことについて突っ込まれると、「ハイハイ、やればいいんでしょ?」とふて腐れる始末。
ことがうまく運んだら、「やってアゲた」ワタシに感謝しろ!と要求し、うまくいかなくなったら、「アイツのせいでうまくいかない!」そうして「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くだけ。

何かと言うと「してやる!」なんて上からの物言いをする人は、そんなことばかりしているもの。
それこそ、
結婚してやる。
離婚してやる。
家事をしてやる。
子供を育ててやる。
老後の面倒を見てやる。

と、何かと恩着せがましい。
逆に言うと、やり取りの相手としては、自分が恩を着せられるような低レヴェルの相手を選ぶ必要がある。だからこそ、ますますトラブルが発生することになる。

「アンタと結婚してあげる。」なんて発想の人は、結局は離婚する傾向が強いものでしょ?
そんな段になっても「離婚してあげる」とやっぱり上からの物言い。
以前に取り上げた、元ビートルズのポール・マッカトニーの奥さんのヘザー・ミルズさんなんて、その典型でしたよね?

常に、自分の持ち出しを意識しているので、休日に、遊園地で子供を遊ばせるようなことでも、「しなければならない」「しょうがない」そんな押し付けられた義務感がありあり。そして「子供を遊ばしてやっている。」と恩着せがましい。それを子供が感じ取る。だから子供が感情を抑圧し、「人の気持ちが分からない」人間になったり、思考停止の抑圧的な人間になってしまう。結局は、子供の側も、親と同じように、義務感を掲げることにより、自分の判断から逃避するのが習慣化してしまう。

そして、「そういうものだから」ということで義務感から結婚し、「そういうものだから」と子供を持ってしまう。
当人としては義務に従っただけなので、何かトラブルがあっても、「ワタシは悪くない!」と言えてしまう。逆に言うと、後になって「ワタシは悪くない!」と言うような人は、義務感だけで生きている人なんですね。