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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 09年7月24日 (10年10月5日 記述を追加 ,11年1月28日 一部分を分離独立)
タイトル 別腹思考
 追記  元の文章から「はじめに義務ありき」を分離独立 (11年1月28日)
食べ物に関する『格言?』で名高いのがコレ。
「甘いものは、別腹に入るから、いくらでも食べられる!」
その格調高い格言を自分で言った人もいるでしょうし、言われた側の人もいるでしょう。
「あ〜あ、ワタシ・・・もうお腹いっぱい!もう入らないワ!」と言った舌先も乾かないうちに、甘いものが登場すると、うれしそうに食べだす人が、そんな格言を語るものですよね?
その生物学上の真偽は別として、楽しい格言であることは確か。そんな言葉で笑いも生まれ、場も和みますよ。まあ、笑った後になって泣いても知りませんが・・・

じゃあ、その別腹って何?
ウシや羊のように胃が沢山あるの?
そう言うものではありませんよね?

おいしそうなものを見たら、食欲がまた沸き起こってくる・・・だから、まだ食べられる・・・と言うか、もっと食べたくなる・・・そんなものでしょ?
ここで、重要なのは、「おいしそうなものを見たら。」という点です。
別腹が稼動するためには、実際に食べ物を見ないといけない。食べ物を見ないうちから稼動する別腹は聞いたことがない。
この点は、確かでしょ?

それに対し、メイン?のお腹は、食べ物がなくても、稼動している。それこそ、食べない状態が続くと、「お腹が減った!」なる状態になる。
つまり「お腹」が意識される状態になる。

メインのお腹は、食べない状態になると、その窮状を訴えることになるけど、別腹は、窮状を訴えることはしない。おいしそうなものを見たら、その存在が登場するだけ。
だからこその別腹というネーミングなんでしょうね。

ダメダメ家庭の問題とは直接には関係ない胃袋の話が続いていますが・・・もうちょっと続けましょう。
食べ物に関して、その食欲に関して、2通りのパターンがあります。
どんなにお腹がいっぱいでも、実際の料理とかメニューを見ていると、また食べたくなる・・・そんなパターンの人と、どんなにお腹が空いていても、実際の料理とかメニューの料理名を見ていると、食べる気がなくなってしまう・・・そんな食欲のパターンもあったりします。

「どんなにお腹が空いていても、実際の料理とかメニューの料理名を見ていると、食べる気がなくなってしまう。」・・・なんて書くと、「そんな人間がこの世にいるのか?!」とビックリされる方もいらっしゃるかも?
しかし、結構いたりするんですよ。
食欲はあっても、それが、料理を食べるということには、心理的に結びつかないわけです。
まあ、ダメダメ家庭の方とやり取りをしたりする人だったら、そんなパターンの人を結構ご存知なのでは?あるいは、購読者ご本人がそのパターンのケースもあるかも?

ダメダメ家庭の人間は、発想が減点法であると、このメールマガジンで書いています。
食べ物も減点法的に見ると、そのような、「どんなにお腹が空いていても、実際の料理とかメニューの料理名を見ていると、食べる気がなくなってしまう。」という事態が起こってしまう。それぞれの料理の減点部分に目が行ったり、思い出してしまう。それこそ、味が好みではないとか、その料理にまつわるイヤな思い出があるとか、あるいは、食卓そのものに不快な思い出があるとかの、様々な減点部分が目についてしまう。だから一般論としての食欲はあっても、実際の料理を味わう楽しみはなくなってしまう。

料理名を見ていると、食欲がなくなってくるわけだから、そんな人は、「当たり障り」のない食べ物しか食べられない。「おいしそうだから、この料理を食べてみたい!」なんて思えない。「て・き・と・う」な料理で、「お腹がいっぱいになればそれでいいや!」なんて感覚になってしまう。「食べる意欲」において、「空腹が不快」という二重否定であっても、「この料理を食べたい。」というシンプルな肯定形にはならないわけです。

以前にこのメールマガジンでは、ダメダメ家庭の出身者は、食事や料理に関する話題が貧弱であると書いたことがあります。そもそもダメダメ家庭では楽しい食事風景というわけには行かない。
そんな日々だったので、食べることそれ自体に関心がなくなってしまったりする。
「 食卓 イコール 不快な思い出 」なんだから、食卓で行われる行為といえる食事も、不快な記憶と結び付いている。不快な記憶なんだから、思い出すこともなくなってきますよ。ということで、食事そのものについて関心の枠から外れてしまうわけです。
あるいは、以前にちょっと書きましたが、ダメダメ家庭の人間は、本能が壊れている場合があったりするもの。もっとも基本的な本能である食欲についても、いわば壊れてしまっている場合があるんですよ。

まあ、食べものについては、それこそ「て・き・と・う」に食べていれば、カタストロフになるわけではない。
しかし、そんなスタイルは別の面でも共通することになる。

それこそ、結婚するような段になっても同じ発想になってしまう。
「窮状を訴えているから、とりあえず何かを入れようか・・・」そんなスタイルになっている。メインのお腹のように「お腹が減った」という減点面から意識される状態となっている。
結婚においても、生活に困っているから、とりあえず、誰かと結婚したい・・・そんなパターンであって、別腹に甘いものを入れるパターンのように、「この人と一緒にいたいから、結婚する。」という加点法的な発想が全然ない。
むしろ、実際の料理や料理名を見ると、減点面を思い出し、食べる気がなくなるように、実際の人物を見ると、一緒にいる気がなくなってしまう。

それなら何も無理に一緒になる必要はないわけですが、窮状が意識されるから、まさに「て・き・と・う」に結婚してしまう。逆に言うと、実際の人物を見ると一緒にいる気がなくなる性質を持っているから、そんな人が選んだ人は、「当たり障りのない」人物となってしまう。まさに、ダメダメ家庭の人がよく言う「ふ・つ・う」の人。

そんな「ふ・つ・う」の人は、減点法的には問題なくても、加点法的にも何もない。
そんな選択は、窮状を抑えるという目的は達成できても、「じゃあ、自分自身の楽しみや向上につながるか?」と言うと、そうではないでしょ?

もちろん、結婚の場合は、甘いものを食べるというケースではなく、生活もかかっているんだから、「食べたいものをいくらでも食べる。」というシンプルな発想ですべてを通すわけにはいかない。現実的には、窮状を抑えるという必要性に根差した目的もやっぱり存在しているでしょう。

しかし、そんな「メインのお腹」的な発想だけだと、食べる楽しみとは無縁のままでしょ?食事というものは食欲を満たすというだけではないでしょ?
それだけではなく、常に「窮状を抑える」「マイナス面に対処する」という発想なんだから、逆に言うと、減点が発生しないと何もしない人間になってしまう。

それに、具体的な人物を見ると、マイナス面が意識される状態のままなんだから、そんな人は、実際の人物を見ようとしなくなってしまい、現実逃避の精神が日常化してしまう。
だからこそ、小さな問題が発生しても、それを見ることから逃避して、結果的に何も解決せずに、そのまま積み重なってドッカーンとなってしまう。

「おいしいものを実際に見たら、食べる。」という別腹的な思考がすべてに通じるわけではありませんが、そんな発想も持っていないと、具体的なものから逃避するようになってしまうわけです。そして、必要性なり義務感を持ち出し、自分を納得させるだけになってしまう。

「メインのお腹」は、どちらかというと義務なり必要性を向いていて、「別腹」は、権利というか選択性を向いている。
逆に言うと、必要に迫られたとか、避けることができないというニュアンスであれば、それはメインのお腹的な発想ということ。
もちろん、義務と権利の間の区分けが厳密にできるわけでもありません。個別の事例によるケース・バイ・ケースでしょう。
しかし、言葉の上では、「しなくてもいい」という可能性を示唆していても、その心理として、「追い詰められて」「やらないわけにはいかない」という必要性に迫られたパターンもあるでしょ?

それこそ、通り魔事件などで出てくる「誰でもいいから殺したかった」という言葉からは、「どんな人を殺害するのか?」という選択の可能性が、形の上では語られていると言えるわけですが、「人を殺さざるを得ない。」というところまで「追い詰められた」状態と見ることができるので、実質的には選択の可能性は存在していない。

それこそ、極限の空腹状態になって、「お腹が膨れれば、なんでもいい。とにかく食べ物がほしい。」と言っているようなもの。それだけ、本人が飢餓状態だったと言えるわけです。
通り魔事件で、「どんな理由で、関係ない通行人を殺害したのか?」とトンチンカンな疑問をされる方もいらっしゃいますが、相手が当人に関係あるなしの問題ではなく、当人の飢餓状態こそがその要因なんですね。

同じように、学校などのイジメ事件があった際には、「アイツをイジメると、スカっとする。」なる言葉を語る加害者もいますが、逆に言うと、「スカっと」する前は、「ムシャクシャ」していたわけでしょ?
それは、まさに空腹状態のお腹のようなもの。
相手を選んでいられる状態ではないし、あるいは、「イジメをしないわけにはいかない状態」と言えるわけだから、当人の飢餓状態こそが、その手のイジメを理解するためには、必要になってくるわけです。

たぶん、そんなことをした犯人の親は、生活の必要性から、あるいは、世間的な義務感から「とりあえず」「しょうがなく」結婚しただけなのでは?
相手については、どうでもよかったのでは?
つまり、別腹的な発想ではなく、メインのお腹の発想で家庭を持ってしまったのでは?
しかし、だからこそ、そんな家庭で育った子供が事件を起こすことになってしまうわけです。
トラブルを理解するためには、メインのお腹が発している飢餓状態に目を向けると、実に理解しやすいことが多いものなんですよ。ただ、最初に書きましたが、メインのお腹は順調な時には意識されないもの。しかし、その点に目を向けることも必要になってくるわけです。

別腹的な発想は、選択の可能性につながっており、周囲の人も注目しやすいわけですが、メインのお腹は、語られないことがその役割のようなもの。だから、その不調は、ダメダメに直結しているわけですし、その問題は、やっぱり語られにくく、周囲の人も認識しにくい。
語られるにせよ、語られないにせよ、メインのお腹が前面に出てきている状態は、ダメダメな状態となっていると言えます。それだけ、押し付けられた義務感だけで行動しており、当人の判断が不在となっている。
判断が不在なんだから、結局は認識も不在となってしまう。

まさに、「しなければマズイことになる。」という理屈ですべてを片付け、どんどんと自己逃避してしまう。
マイナスが発生すれば、それに対応するという、義務を向いた発想も、現実問題として必要でしょう。
しかし、それは二重否定的な発想であり、「それだけ」になってしまうと、否定的な精神が進行し、ダメダメが進行するだけなんですね。

(終了)
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発信後記

明日は久しぶりに、土曜日のシリーズを配信いたします。
今回のお題に関係した内容です。
R.11/1/28