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カテゴリー | ダメダメ家庭と「いい人」 | |
配信日 | 09年2月9日 (11年1月30日 分離独立) | |
タイトル | いい子としての謝罪 | |
追記 | 09年7月31日配信の「語られる被害への食いつき」から分離独立 (11年1月30日) | |
ダメダメ家庭の親は被害者意識が強い。「親である自分は子育てを押しつけられたかわいそうな被害者」として確信している。 だから、子供に対して、「いったい・・・誰のために・・・こんな苦労をしていると思っているんだ?!」と、常に文句を言っている。 つまり、ダメダメ家庭においては、「親=被害者,子供=加害者」という構図になっているわけです。頻繁に書きますが、児童虐待もその構図を元に発生しているわけです。自分の子供を虐待している親は、被害者の当然の権利として、自分の子供に報復しているという意識になっているわけです。 それを不条理だと言ってもどうしようもない。 それがダメダメ家庭の現実なんですし、そんな人間ができるのは子作りくらい。だから、そんな家庭が実際にできてしまう。 自分の子供を加害者と認定し、自分を被害者と認定しているんだから、被害者である親が、加害者といえる子供をサポートするはずもない。 子供がどんな希望を持っていても、一刀両断するばかり。 それどころか、子供がちょっとでも問題を起こすと、子育てによる被害感情が刺激されて大騒ぎとなってしまう。 そんな家庭なんだから、子供としても、自分の希望を抑圧し、トラブルを起こさないように必死にならざるを得ないでしょ?減点があったら、親から烈火のような弾劾が来るんだから、減点をなくそうと必死になりますよ。 つまり、過分なまでに「いい子ちゃん」になるしかないわけです。 そんな「いい子ちゃん」は、自分の希望を抑圧して、感情を抑圧しているんだから、「人の気持ちが分からない」状態になる。 そもそもダメダメ家庭においては、人間らしい感情なんて持っていたら生きてはいけませんよ。心頭滅却しないと生きていけないんだから、感情そのものを抑圧し、人の気持ちが分からない人間になるのは当然のことでしょ? そんな抑圧的な状況の子供に対し、親なり周囲の大人から「いい子」でいろとの命令がある。それに「いい子」でないと、親の側からの弾劾もある。 だから、なんとかして、「自分はいい子である。」と主張したい。 しかし、前にも書きましたが「人の気持ちが分からない」状況になっているんだから、どうやって「いい子」を証明するの? だって周囲の人の気持ちだって分からないんだから、どうしようもないでしょ?どんなアピールなり説明が、他者に受け入れられやすいの? どんなアピールをすればいい子と認めてくれるの? それに、ダメダメ家庭の人間は、自分に自信がない。 そもそも自分の親に、ありのままの自分を認めてもらえなかったので、自信なんて持ちようがないでしょ?自信がなく、常にビクビクしている状態となっている。 しかし、だからなおのこと、「自分はいい子なんだ!」と言いたい。 だから、ダメダメ家庭出身者は、「自分がいい人なんだ!」であることを過剰なくらいに主張するわけです。 それこそボランティアをしたり、自己弁護に満ちた文章を発表したりする。 しっかし・・・「自分はいい人なんだよ!」と必死になって周囲に主張するなんて、本当の意味で「いい人」のすることではありませんよね? だから、やっぱり、どこか珍妙になったりするわけ。 往々にして、そんな抑圧的な「いい子」は、謝罪の場を活用したりする。 ダメダメ家庭の問題と謝罪行動は、実に結びつきやすい。 そもそも、ダメダメ家庭の親は被害者意識が強い。だから「ごめんなさい!」という謝罪の言葉をもらえると、自分の被害者意識が満足されて、実に心地いい気分になれるわけです。だから、自分の子供に対し「ごめんなさい!」との謝罪の言葉を、親である自分に対し言わせたがるんですね。 子供からの謝罪の言葉を受けて、ダメダメな親は歓喜する。 「ああ!ワタシはやっぱり被害者なんだ!」 「謝罪しているんだから、コイツは自分を加害者だと認めているぞ!」 それに、ダメダメ家庭の人間は、やたら「人に合わせすぎる」傾向があります。そもそもダメダメ家庭という当事者意識が欠落した家庭で育っているので、子供自身も当事者意識がなく抑圧的になってしまう。「自分はこれをしたいんだ!」なんてそもそも思っていない。だからその場の雰囲気を乱さないように、とにもかくにも「人に合わせる」ことになる。 人から要求されると、とりあえず、その人に合わせて、その要求をのんでしまう。 誰かから「謝罪しろ!」なんて言われたりすると、何も考えずに、「とりあえず」謝罪する・・・そんなことをしたりするんですね。 そして、前にも書きましたが、ダメダメ家庭出身の人間は、「自分がいい人」であることを執拗に主張しようとする。自分がいい人であるひとつの具体例として、謝罪が出てくるわけです。 自分が間違ったことをしたら、それを認め、謝罪する。 これは人間関係の基本といえるでしょう。 しかし、ダメダメ家庭出身の人間の発想はちょっと違っているわけです。「ワタシはスグに謝罪するような『いい人』なんだよ!」そのような自己主張がある謝罪になっている。 だから、自分が間違ったことをしたから、迷惑をかけた相手に謝罪する・・・とは、別の謝罪もしたりすることになる。 それこそ、中国、韓国に、かつての日本の「侵略」についての謝罪旅行に出かけるような「若い人」って、たまに報道されたりするでしょ? 謝罪に出かけたその人が、実際に旧日本軍の軍人ならまだ分かりますよ。 あるいは、むかし選挙権があったというなら、まだ理解できる。 しかし、旧日本軍が活動していた当時は、産まれてもいなかったわけでしょ?本来なら謝罪もヘチマもないじゃないの? しかし、「自分はいい人なんだ!」という主張のための謝罪なので、自分が「関わらない」問題について謝罪した方がいい。 「自分にも直接関係しない問題についても謝罪するボクって、なんていい人なんだ?!」 そんな謝罪は、色々な意味で「ワタシは悪くない!」と言えるでしょ? だって「悪くはない」ことについての謝罪なんだから、見事なまでに悪くはないと言えますよ。 まあ、ホントにトンデモなく「いい人」だねぇ・・・ それに、昔の人の活動についての謝罪は、ダメダメ家庭出身者にとっては、非常に意義がある。 だって、昔の軍人・・・つまり「自分の父親の世代が間違っているんだ!」と、間接的に主張していることになるわけでしょ? 自分の父親に対して、面と向かって「アンタは間違っている!」なんて言えない人間が、中国や韓国に出かけて行って、「ワタシたちの父親の世代が悪いことをして申し訳ありませんでした!」とやる。 実際にその人の父親が個別にやった問題なら、まだ分かりますよ。しかし、自分の親に迷惑を掛けてはいけないと強迫的に思っているダメダメ家庭の人間は、自分の父親ではなく、「自分の父親の世代」とカテゴライズするわけです。これだったら、自分の父親当人には迷惑はかからないでしょ? このような流れは、自分の父親の問題はアンタッチャブル状態のままに、自分とは無関係の男性をつるし上げて喜ぶフェミニストの闘士の女性と同じと言えます。実際に、活動している面子は、「かぶっている」し、面子以外にも、顔のつくりも、あるいは服装も似ているでしょ? そんな人たちは、心の奥底では「自分の父親が悪い!」と言いたいわけです。 しかし、まずは、自分の父親に面と向かって言うのが先でしょ?そもそも謝罪旅行に出かけた人は、自分の父親個人の所業をどう考えているの?しかし、「自分の親に迷惑を掛けられない!」と思っているダメダメ家庭出身者は、面と向かっては言わないし、考えない。父親が見ていないところまで出かけて行って、「ワタシたちの父親『たち』のせいで・・・」と謝罪。 その心は・・・ 「ワタシも・・・アナタたちと一緒で・・・昔の日本人による・・・被害者なんだよ!」 「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなんだ?!」 謝罪を言うことによって、「自分はいい人なんだ!」と主張したいダメダメ人間と、謝罪されることによって、『自分は被害者なんだ!』と確認したいダメダメ人間が、意気投合。 そうして「ああ!謝罪もしない日本って、なんてヒドイ国なんだ!」と嘆き合う。 私としては、何も日本人たるものは、母国の日本の問題を指摘してはいけないなんて、国粋的なことを申し上げているわけではありませんよ。 日本より中国のほうがマシと思うのなら、中国に移住すればいいだけ。 日本にいながら、日本の文句ばかり言ってもしょうがないでしょ? もっと自分の才能なり可能性を活かせる環境に移った方がお互いのためですよ。 しかし、自分の可能性について考えること自体を抑圧するようにしてしまうのがダメダメ家庭というもの。 そんな人は、加点法的に考えることができず、とにもかくにも減点法的に考える。 自分の親に迷惑を掛けないようにして、親を弾劾する。 そんな心理を想定すると、あのような珍妙な謝罪も理解できるようになるでしょ? ダメダメ家庭の子供は、抑圧的であり、「親に迷惑をかけないように!」と切羽詰っている。 子育ては親が被った被害と考えている家庭で育ったので、そんな家庭は被害者意識が充満し、その出身者は漠然とした加害者意識を持っている。しかし、抑圧的で自己逃避なので、その加害者感情は漠然としたままとなっている。だから、それっぽい論理で加害者として誘導されると、内心では喜んでしまう。日本はアジアに対しては加害者であるという認定においても、謝罪することによって、自らの漠然とした加害者意識に「形」を与えることができるわけです。 そして謝罪行為によって、言葉にならない加害者感情を鎮めることができる。 人の気持ちが分からないがゆえに、自分が「いい人」と主張する手段は、謝罪だけになってしまう。「謝罪によるいい人主張」に、ますます熱が入るわけです。 謝罪というものは、それこそ「全部ワタシが悪いのね!」そんな宣言になるわけですから、逆に言えば、とりあえず謝罪しておけば、思考から解放されるし、会話からも解放されることになる。 そんな謝罪はいい人としての自分をアピールしているので、ちょっと見には「ああ!あの人はなんていい人なんだ!」と思ってしまう人もいるかもしれませんが、最初に書いたように、本当のいい人は、「いい人アピール」なんてしませんよ。 頼りになる人なり、自身の課題に真摯に取り組んでいる人は、自分から「いい人アピール」なんてしますか? いい人として自分を積極的にアピールする人は、そのアピールが通用しない場合には、逆上することも多い。 まさに「オレは悪くない!」「オマエが悪いんじゃないか!」と、相手側を犯人認定するわけです。そうやって、自分を被害者の側に置き、いい人としての立ち位置を守ろうとする。 そんな姿は、まさに子は親の鏡そのものでしょ? ダメダメ家庭の人間は、信頼と好意の区別がつかない。 相手から信頼を失った状態であっても、相手から好意を失ったとみなしてしまう。 だからこそ、「ワタシは悪くない。」と主張し、「ワタシこそが被害者なんだ!」と主張する。そうやって、失った好意を取り戻そうとする。 そんな人の謝罪は、自分の問題点を見ないし、理解していない。だから謝罪を受けた側は「アイツ・・・今回のことの意味を分かっているのか?」「分かって謝罪しているのか?本当にいい加減なヤツだなぁ。」と怪訝に思ってしまい、ますます信頼をなくしてしまう。 実際にその手の人の謝罪の文句で多いのは、『もし何かアナタの気に障ることを、このワタシがしたのだったら、どうか許してください。』・・・そんなものでしょ? しかし、「何が問題だったのか?」について、当人自身が何も分かっていないのに謝罪も何もないじゃないの? しかし、ダメダメ人間は信頼というものを理解できず、好意という観点からだけ認識することを考慮すれば、上記の謝罪の言葉も理解できるでしょ? 上記の言葉は、別の言い方をすると「ワタシを嫌わないでよ!」という意味であって、「もうこのようなことは、いたしません。」という意味ではありませんよね? そんな謝罪の言葉を受けると、なおのこと、「こりゃ、ダメだ!」と呆れるだけ。 逆に言うと、そのようなトンチンカンな謝罪を見て、好意と信頼の区別がつかない同類が共感し、共鳴する。そんな共感を受けて、自分の謝罪は受け入れられたと早合点。 しかし、結局は、被害話で盛り上がっただけでしょ? トラブルの後で信頼を得るためには、まず「自分は自分の問題点を自覚している」その表明が最初でしょ? 自覚しているから、もう2度としないわけですしね。 このような流れは、謝罪だけでなく相談という場においても、まったく同じ。 抑圧的な人は「自分はどうしたいのか?」そんな当事者意識から来る発想は何もない。 認識から逃避し、自分の希望を抑圧しているダメダメ人間は、謝罪の場においても、相談の場においても、「いい子」と主張する謝罪や、好意を守るための謝罪や相談に堕しているわけです。 それはいいんですが、まさにダメダメのお約束の言葉が登場することになる。 「で、アンタたち・・・いったいどうしたいの?」 ダメダメ人間にとっての謝罪行為は、それを考えることからの逃避なんですね。 その手のダメダメ人間にしてみれば、「悪かった!」と謝罪の言葉を語ることによって、「ワタシは悪くない!」と主張しているわけです。 だからこそ、また同じようなトラブルを繰り返すことになってしまうんですね。 |