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カテゴリー 会話のスタイル(聞き手側)
配信日 09年7月31日 (11年1月30日 一部分を分離独立)
タイトル 語られる被害への食いつき
追記 元の文章から「いい子としての謝罪」を分離独立 (11年1月30日)
ダメダメ家庭は被害者意識が強い。
自分自身で被害者意識を持っているし、その被害者意識を誰かと「語り合いたい」と日頃から思っている。だって、他には話のネタがないんだし。
「ワタシはこんなにかわいそうな人間なのよ!」
『まあ、なんてお気の毒な!ワタシもかわいそうな人間よ!』
そんなやり取りを渇望しているもの。まあ、そうしたいのなら、それで、いいんだけどね。

自分自身の被害を語りたいと思っているので、それが可能になるシチュエーションへの嗅覚は鋭いものがある。「あの人は、ワタシと一緒に被害を語り合える人だ!」と思える人や場所に、引き寄せられる。そんなことだからインターネットの掲示板が盛んになるわけですよ。

基本的に自分自身の被害を語りたいと思っているので、そんな場所の中でも、とりわけ被害に関わる話に反応することになる。
「悪いのは全部○○のせいだ!」
「我々は政府の政策の犠牲者だ!」
「アイツらのせいで・・・」
そんな文句に大喜び。
そして、「そうよ!そうよ!ワタシたちって、何てかわいそうなの?!」と大合唱。

その手の人たちは、「自分たちにはこんな問題があって、その問題を解決していくためには、どんな方法があるのか?」なんてやり取りには参加しない。
一緒になって被害を語ることだけが目的となっている。
当然のこととして、「自分たちが、これこれの理由で、かわいそうな被害者である。」という論理を渇望しているわけです。

「ワタシがかわいそうな被害者であることを、ワタシに代わって説明してほしい!」
このメールマガジンの購読を開始された方の中で、そんな要望を持っていた人は、かなりの確率で存在していたのでは?まあ、そんな人はもう購読解除しちゃったでしょうが・・・
しかし、そのような「被害者としての来歴説明」を求める心情があるがゆえに、それに「応える」人たちも存在し、当然のこととして人気を博すことになる。私としては問題点を明らかにし、顕在化するように文章を書いていますが、被害者である来歴説明には堕さないように気をつけています。どうしても安っぽくなりますし、次につながらないでしょ?しかし、安っぽい人は、そんな安っぽい文章を求めるもの。

家庭の問題を考えるにしても、本来なら、自分自身の問題点の自覚のために、親の問題を認識する必要があるのであって、親に問題があるから、自分は被害者なんだと納得しただけでは、意味ないでしょ?
しかし、ダメダメな人間は「あの○○のせいで → ワタシはこんな目に!」そんなロジックばかりを求めるようになる。

第2次大戦前の、日本のマスコミは、「鬼畜米英」とかの文言で、アメリカからの被害を強調するものばかりだった・・・とか言われていますよね?
「我々日本人は、アメリカやイギリスからの被害者なんだ!だから我々は上手く行かないんだ!」
そんなマスコミは、第2次大戦後になると、「我々『ふ・つ・う』の日本人は、軍国主義の被害者なんだ!」と主張を変える。

言っていることは変わっても、「我々はかわいそうな被害者なんだ!」という大前提は首尾一貫しています。何もこの問題に限らず、「我々は何による被害者なのか?」その説明に終始している文章もあったりするでしょ?
そんな「自分たちはかわいそうな被害者だ」と自認している人は、「だから・・・他の人に迷惑を掛けてもいいんだ!」「自分たちは何も悪くないんだ!」「だから、自分たち自身で何かする必要はないんだ!」となってしまう。
現実って、そうなっているでしょ?

語られた被害には食いつくけど、だからこそ、自分たちが食いつけるように、被害を生み出す状況を残そうとする。それこそボランティアの連中も、その典型ですよね?
そんな人たちは、自力で、必死に努力している人を放っておいて、「ああ!上手く行かない!」ってグチっているだけの人間に食いつくものでしょ?

被害話への食いつきがいいその手の人が、一番食いつくのは韓国のネタ。
だって、韓国人はグチばかり言っている。自分たち自身では何も努力しない。
逆に言うと、被害話に食いつく傾向が強いダメダメ人間にしてみれば、一緒にグチを言って、「ああ!オレたちって、なんてかわいそうなの?!」と言える韓国のダメダメな状況を温存しようとする。

アフリカでのボランティアでもそうですが、そんなダメダメ状態の温存によって、一番被害を受けるのは、そんな環境で育たなくてはいけない子供の方でしょ?
しかし、子供は、自分の被害を語らない・・・と言うか、語れない。あるいは、イスラムにおける女性への抑圧にしても、その手のボランティアは何も言及しないでしょ?
被害話に食いつくダメダメ人間は、被害を語れない人間は無視してしまう。どんなに困っていても知らん振り。だって、ダメダメ人間が、トラブルが発生している状況に寄っていく目的は「自分の被害」を語ることであって、困難な状況を改善することではないわけです。

たとえば、食料援助するような状況においては、子供を作らないように指導する必要があるでしょ?
確かにどんな状況でも、子供を作る権利はあるでしょう。しかし、そんな状況の元で育たなくてはいけない子供の権利はどうなるの?
ボランティアの連中は、語られる被害には食いついても、現実に発生していても語られていない被害や、将来において発生するような被害には、実に鈍感なもの。

その手の人間は、語られない被害への食いつきは実に弱い。だから、逆に言うと、「語らせなければそれでいい。」となってしまう。どんなにダメダメな状況でも、「語らせなければ」それでいいとなってしまう。北朝鮮って、まさにそんな感じでしょ?
あるいは、「ワタシは幸せよ!」と相手方に言わせるようにする。
そんな言葉を「語らせる」ことにより、被害を語らせないようにするわけです。
これは以前に言及いたしましたが、洗脳技法の一つなんですね。

語られた被害へ食いつきは、自分も被害を語らなければ無視されてしまうという恐怖感とつながっている。いわば「必死になって自分の被害を語り、それを誰かと比較する」被害者競争をする発想につながっていくことになる。
実際に、目を輝かせて、そして、我先にと被害話に食いつく人っているでしょ?
そんな人は「ワタシは誰による被害者なのか?」そんなことばかり言っているでしょ?
じゃあ、「その問題を改善するために、どうすればいいのか?」そんな議論にはなりませんよね?
結局は、最後には「悪いのは全部○○のせいだ!」でオシマイとなってしまい、思考停止状態となる。

しかし、抑圧的なダメダメ人間にしてみれば、そんな思考停止状態こそが安心できる。しかし、抑圧的であり、自分の感情を抑圧しているので、他人の気持ちも分からない。何回も書きますが、語られる被害への食いつきの強さは、語られない感情への食いつきの弱さを意味しているもの。別の言い方をすれば、「人の気持ちが分からない」がゆえに、「語られた被害」「言葉として顕在化された被害」には、異常に食いつくことになってしまう。
そうして、語られた被害に食いついて一緒に嘆くことになる。

しっかし、どうして、嘆きばかりの環境に自らを置くの?
つまり、その人の本当の希望が、「被害を語ること」「クレームを言うこと」、それ自体だからですね。
クレームを言うことによって、「ああ!○○って、なんてヒドイ!オレって、なんてかわいそうなんだ!」とグチりたい。そのためには、自分がいる環境はヒドイ環境でないとマズイ。

しかし、本来は、自分が被害を受けるような環境からは離れた方がいいのでは?
しかし、自分の身近なところが悪ならば、自分を被害者として認定しやすい。

ちなみに、韓国人は、日本の悪口ばかり言っていますが、おもしろいことに、外国に出ると自分たちの国の韓国の悪口を言い出すんだそう。
「ああ!韓国って、なんてヒドイ国なんだ!」
そんな感じで語るんだそう。
しかし、そのような自分たちの国のヒドさを語ることによって、自らが「悪い政治」による被害者だと主張できるでしょ?韓国という国がダメな状態だと、韓国人は安心して嘆くことができ、自分たちを被害者とすることができてしまう。
まあ、そんなことだから、前任の大統領を刑務所送りにするわけですよ。
自分の身近なものを犯人認定することによって、自分自身が「かわいそうな被害者だ!」と主張する。そんなグチに対して「アナタもタイヘンねぇ・・・」なんて同調が得られたらさあ大変!

このように「身近を犯人認定する」発想で、頻繁に見られるのは子供の比較です。
「まあ、アナタのお子さんはいい子でいいわねぇ・・・それに比べてウチの○○ときたら・・・」よくあったりしますよね?そんなグチ。そうやって、出来の悪い子供を育てる面倒を背負わされた自分という被害を語るわけです。そして、自分の身近なものの出来の悪さによって、自分の被害者意識を満足させてくれたわけだから、その被害にさらに磨きをかけるようになる。つまり、自分の子供をより出来が悪いようにしてしまう。そして、その出来の悪さをますます周囲に主張する。

国だろうが、時代だろうが、自分の子供だろうが、自分の身近なものへの不満ばかり口にする人は、自分の周囲のあらゆるものを犯人認定するようになってしまう。
自分の子供の出来の悪さは、親としての自分にとっての幸福。
この手の人はそんな感じになっているわけです。このことはかなり以前に配信しております。
あるいは、そんな心理を理解していると、代理ミュンヒハウゼン症候群の人の心理も理解しやすいでしょ?

しかし、自分の子供の出来の悪さが、親の幸福なんて事態は、一般の人にはなかなか理解できない。だから、周囲の人は、「出来の悪い子供を持つという被害を受けた親」という主張に素朴に同情してしまう。それに、当人自身がそうであるように、ダメダメな地域においては、「語られた被害に対して食いつき」が強いもの。子供の出来の悪さを語っていれば、周囲からの同情が得られてしまう。
しかし、その同情によって、犠牲になるのは子供なんですね。
貧困地帯への援助によって、不幸な境遇の子供がどんどんと作られてしまうのと同じ。

語られた被害に食いついて、実際の被害を見ない。
抑圧的な人間にしてみれば、「語られた」ことよりも、「語られない」ことに意味がある。このことについては、このメールマガジンで頻繁に触れておりますが、被害がこれ見よがしに語られる場もその典型といえるわけです。

(終了)
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発信後記

この「語られる被害への食いつき」に関しては、以前に日本のニュースキャスターをなさっておられた白髪の人のイメージが入っています。
語られた被害には異常に食いつきがいいのに、インタビューをしていて、その相手が不快な表情をしていても、我関せずで、傍若無人の振る舞い。
それこそ、脚を組んで、椅子にデーンとふんぞり返って、相手に質問している。
そして「ああ!なんてヒドイ時代なんだ?!」と嘆いているだけ。

まあ、その人は、自分では良識があると思っていたのかもしれませんが、目の前にいる人の気持ちに配慮できないのに、良識も何もないでしょ?
そんな人の良識なんて、ボンクラな「凡sens」ですよ。
しかし、人の気持ちがわからないが故に、困っている人を前にして、問答無用のご正論を平気でぶっこくこともできたりする。

ご存じのように、キリストは「汝の隣人を愛せよ!」と言いました。
隣人は、簡単には愛されてくれない。
しかし、遠くの人は、恵んでやれば、愛されてくれるわけ。
隣人を愛するのは、見たこともない遠くの人を愛するよりも難しいわけ。
困っている隣人を無視して、遠くに善意を振りまく人が、まさにダメダメ家庭を作っているものでしょ?
R.11/1/30