トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー ダメダメ家庭の会話の雰囲気
配信日 09年9月4日 (10年8月4日 記述を追加,11年1月5日 分離独立)
タイトル 子供ネタへの依存
追記 09年9月4日 配信の 「話のネタ」という文章から分離独立 (11年1月5日)
ダメダメ家庭の人間は、話のネタが少ないことは別のところで考えております。
そんなダメダメ家庭の人間も、結婚し、親となると、格好の話のネタができることになる。
言うまでもなく、自分の子供についてのネタです。
それまで話のネタがなかったダメダメ人間も、やっとのことで勝ち取ったネタを十分に活用することになる。子供に関する話題も、子供に対して直接言うのならともかく、ご近所の井戸端会議で、とんでもないことを平気で言っていたりするもの。

それこそ、子供の様々な成長なりプライヴァシーを平気でべらべら。
それを間接的に聞いた子供が青ざめる・・・そんな光景って、実際にあったりするもの。

自分の親に語ったことが、ご近所の常識となってしまうのなら、親に対して何も言えないでしょ?そうして、子供は自分のトラブルを自分だけで解決しようと無理をして、結局はドッカーンとなってしまう。
そんなトラブルの後で、「素朴」な親は、「困っていたのなら、どうして親であるワタシに言ってくれなかったのだろう?」などと相変わらず井戸端会議。
・・・と、やっぱり子供ネタで盛り上がることができる。

家族に関したネタしかないような親は、子供の側が注意していないと、とんでもないことを外でしゃべっているもの。しかし、ダメダメな親は、子供ネタしか持っていない。だからそれを使うしかない。そんな親には何を言ってもムダ。ヘタに親に抗議をすれば、そんな抗議こそがご近所のネタになってしまう。
親として子供の成長には関心があるのは当然ですが、ご近所ネタにするには最大限の注意をしないとね。誰だって、直接的に言われるよりも、自分が預かり知らぬ場所でネタにされることの方がイヤでしょ?

以前にアメリカの芸能人のカレン・カーペンターを取り上げたことがあります。1983年に拒食症でお亡くなりになった方です。
そのカレン・カーペンターを描いた映画があって、両親のちょっとした言葉でカレンが傷ついていくシーンが多くありました。

「アンタは太っているわねぇ・・・もっと痩せないと親が笑われるわよ。」と直接的に言うくらいなら笑って済んでしまう可能性もあります。まあ、現実的には、ダメダメ家庭においては、それまでのやりとりの積み重ねがありますので、「笑って済む」ということはありません。ダメダメな親は普段から子育ての苦労を繰り返し強調しているわけですからね。そんな人間からの言葉は、ある種の犯人認定と繋がっているもの。

直接的ならともかく、間接的な言及の場合もあるでしょ?
例えばテレビを見ていて「な〜んだ、あのおデブちゃん・・・ノロノロ走って・・・格好悪い。」とか、太った隣人をネタにして「あのお隣の○○さん・・・太っていて格好悪いわねぇ・・・」と言ったりする。

このように間接的な形で、肥満者に言及することの方が、効果が大きいでしょ?
何と言っても、対象者がいないところでのコメントの方が、見えにくいもの。「テレビでのおデブタレントをバカにした。」ような場合は、そのオデブタレントはその感想を聞けないわけです。だから、どの程度で言われているのかも想定できない。そうなると目の前にいる太り気味の娘にしてみれば、大きなストレスとなるでしょ?

もっと影響が大きい物言いは、「あ〜あ、あんな太った子供をもった親はお気の毒だねぇ・・・」と言うもの。そして、いかにも、その太り気味の自分の娘が不在の時は、そのように両親が嘆いているように匂わせたりする。
そんな繰り返しがあれば、太り気味の子供は「自分が不在時に交わされている自らへの評価」を想像し、大変なプレッシャーとなるでしょ?
このような環境だったら、拒食症にならない方が不思議ですよ。

ご近所の井戸端会議でも、ネタが貧弱だったら、最後に出て来るのは子供ネタ。そして、その場合の配慮なんて何もないのがダメダメな親。子供だって、そんな親には何も言えませんし、親の前では外向けの姿をしていないと怖いでしょ?

ダメダメ家庭では、子供ネタしかないことが多い。それは、子供のことを真剣に考えているというよりも、その他のことを何も知らない、他に何も持っていないという二重否定的な状況からの子供ネタなんですね。

だから、ダメダメ家庭の親ほど「子供を持って自分は変わった!」,「子供を持たない人とは話が合わない!」と、おっしゃったりするもの。あるいは、以前に、ちょっと書きましたが「子供によって『愛』というものを教えてもらった気がする。」とかの格調高い言葉を言ったりする。

例えば「子供によって『愛』を教えられた気がする。」という言葉を考えてみましょう。
別に子供に対して愛情を持つのは当然として・・・そんな言葉を言うということは、それ以前に『愛』を知らなかったというわけでしょ?
親や夫からは『愛』を教えてもらわなかった。
子供を作る際にも『愛』を感じなかった。
子供を持ってはじめて『愛』が実感できた。
もし、そうだとすると、子供が成長して独立の段になったらどのような事態になるかな?
まあ、お約束の修羅場でしょうね?

また、「子供を持たない人とは話が合わない。」という言葉ですが、実際にそのようなことを話す人も、いらっしゃいますよね?
では、そんなに「子供を持っている人と話が合っている。」のでしょうか?
じゃあ、どんな話題で話が合っているの?

以前のメールマガジンで「夫が子育てに非協力的」と語る女性について書いたことがあります。そんな夫は現実的には家事一切に非協力的なのに、「子育てに非協力的」と言い換えることによって、自分自身や周囲の人をごまかす物言いです。
この「子供を持たない人とは話が合わない。」とおっしゃる方も同じなんですね。
ダメダメ家庭はコミュニケーション能力が低い。だから人とのコミュニケーションがうまくできないわけです。より実際に即した言い方ですと、「誰とも話が合わない。」状態なんですね。
ただ、子供を持っている人とは多少はネタが共通する面もある。だからちょっとは話ができるわけです。

と言うわけで、「子供を持たない人とは話が合わない。」という言葉になってしまうんですね。マトモな人なら、「子供を持っていない人」とは、子供ネタ以外の話題で話をすればいいだけでしょ?芸能でも政治でも仕事でも・・・それに話が合わないと思っているのなら、無理にやり取りをする必要はありませんよ。子供を持っている人と、そんなに話が合うのなら、そんな人たちともっと突っ込んだやり取りをすればいいじゃないの?そんなやり取りで何を伝え、何が分かったの?「話が合う合わない」の問題よりも、そっちが重要でしょ?
つまり、「子供を持っていない人とは話が合わない。」とおっしゃる方は、実際には「子供を持っている人とも話が合わない」わけです。子供を持っている人との間では、曲がりなりにも共通のネタがあるので、とりあえず「人に合わせることができている」「やり取りの場を成立させることができている」と言うだけ。

あと「子供を持って自分は全く変わった!」とおっしゃる方もダメダメ家庭に多くいらっしゃいます。そのような言葉はマトモな家庭の人もおっしゃったりするもの。
問題はその「子供を持って自分は全く変わった!」という言葉がどのように使われるかということです。ダメダメ家庭ではその言葉が「子供を持たない人間に対する優越感」として使われるわけです。

なぜって?
これも何回も書いていますが、ダメダメ家庭は「ふつう」ということに拘る。
自分自身の「ふつう」でない部分をなくして行って、やがては完璧な「ふつう」に到達したい!
そのように考えているわけ。
子供を持つことによって、「ふつう度」が1ランク分だけアップしたわけです。
だから、「ふつう度」が低い「子供を持たない人間」は蔑みの対象になっちゃうわけです。

しかし、それって「ふつう」の発想なの?

以前に「少子化問題」のお題のところでも書きましたが、本当にうまく行っている家庭だったら、「子供を持たないなんて・・・こんな楽しいこと何故しないのかしら?」という発想になるわけです。このような言葉も聞くことがありますよね?
何も蔑みの対象とすることにはなりません。はっきり言って、うまく行っている家庭の人は、「子供を持たない人」のことなど本気には考えたりはしない。そんな必要もありませんものね?
わざわざ「子供を持たない人」のことを考え、言及する。そして子供を持っている優越感に浸る・・・そのあたりがダメダメ家庭の親の発想のスタイルと言えるでしょう。

ダメダメな人は兎にも角にも「自分より下」の存在がほしい。
そんな人にとって、子供というのは優越感のネタの一種になっている。
決して自分自身を見直し、向上させようとはしないんですね。
というか、自分の序列をアップさせるためのネタとしての子供になっている。
だからこそ、未婚で結婚する予定もないのに、逆に言うと、それであるがゆえに、「ふつう」を獲得しようと、子供を持ってしまう。まさに子供という存在が「ふつう」になるための唯一の手段となっているわけです。

そして、子供に依存している同士、子供をグチっている同士・・・つまり子供をネタにしているもの同士で盛り上がる。
子供の失敗談で盛り上がり、
「あ〜あ、ヘンな子供を持って・・・ワタシって、なんてかわいそうなの?!」
「子育てって、タイヘンだわ!」
『そうねぇ・・・アナタも、なんてお気の毒な?!』
・・・ダメダメ家庭の周囲は、そんな子供ネタで盛り上がっている。
これでは、子供がいない人とは話が合いませんよ。だって「じゃあ、どうしてアナタは子供を作ったの?」と言われたらどうしようもないでしょ?

盛り上がるためには、子供の立派さでは盛り上がれないでしょ?「アナタのお子さんって、スゴイわねぇ・・・」でおしまいとなってしまう。やっぱり失敗談なり出来の悪さの方が盛り上がれるでしょ?そもそも被害者意識が強いダメダメな環境なんだから、ネタが自分たちの被害に繋がらないものだと、ピンと来ない。だから、当事者意識がないダメダメな人間が食い付ける類のネタに限定されてしまう。
子供による被害をネタにするだけでなく、そんな親は子供に珍妙な名前を付けて、ますますネタにしてしまう。

あるいは、以前にも書きましたが、子供ネタしかない人は、じゃあ、自分の子供とどんな話をするの?
自分の子供と育児の話でもするの?そんなわけないでしょ?
子供がいない人とは話が合わないというのなら、じゃあ、その自分の子供とは話が合っていない・・・論理的にはそうなりますよね?自分の子供に子供ができ、つまり孫ができて初めて、自分の子供と話が合うことができるわけでしょ?まあ、論理的だけではなく、現実的にもそうなっているわけです。
話のネタがダメダメだったら、家庭そのものもダメダメになっているものなんですよ。

あるいは、子供ネタの発展形として、学校ネタも発生してきます。
子供だって、成長し学校に通うことになる。
親として、学校についてのネタは、子供を通じて得ることもできる。

子供が親に学校について語るのはいいとして、じゃあ、親の側は、学校について、自分の子供にどのように語るの?自分の学校時代の思い出を語るの?
ダメダメ家庭を作る親は、学校というものにいい思い出がない。
そもそもコミュニケーション不全であり、周囲のクラスメートとも仲がよかったわけではない。
学校での不満はそれなりに記憶していても、学校で習得して役に立ったことがない。
普段から自分の問題から逃避していて、自分自身なり現状認識を抑圧しているので、そんな自分の不満を意識化もしていない。「な〜んとなく」の漠然とした不満の状態で留まっている。

そんな漠然とした不満の状態に、子供から学校ネタが提供されることになる。
そうなると、まさに「食いつく」ことになる。
学校の問題点だったら、話のネタが少ないダメダメな親にも対処が可能となる。
それに、子供の学校ネタだったら、直接的には自分自身の問題ではないので、心理的なプレッシャーが少ない。逃げ場が近くにありながら、不満を語ることができるという都合がいい距離感を持つネタと言える。
だから、異常なまでに学校ネタにこだわることになる。

学校ネタへのこだわりも、自分の子供への教育的な配慮というよりも、他のネタを知らないという二重否定的な状況から来る方が多いわけです。
だからこそ、学校ネタという、ローカルな論理が通用する領域から出ようとしない。
しかし、学校の論理しか知らないと、社会に出てからのスキルが身に付かないのは当然のこと。
本来は一人前の市民になるために教育なり学校があるのであって、学校そのものが終着点ではないでしょ?つまり、学校ネタに入れ込む人は、社会の問題は見たくはないし、社会の中にいる自分自身についても見たくないわけです。

学校ネタで盛り上がることは、外見的には教育熱心ともいえる。
しかし、社会で必要なスキルを学校で習得するという発想ではなく、単に盛り上がるためのネタになっている。だから、子供のことを考えてのものではない。
それこそ、世の中には教育熱心な地域というものがあります。
それこそ、東北の秋田県は、文部科学省の学力テストで第1位だったとか。
かと言って、その秋田県の出身者で学術的に活躍している人はそんなにいるの?そんなにすばらしい学校生活を子供に提供しているの?
もちろん、もともと人口が少ないから、活躍する人が少なくなってしまうのは論理的に当然のことでしょう。

しかし、教育熱心とされる都道府県は、それこそ秋田県や長野県も、義務教育以降はパっとしないでしょ?というか、学校においてイジメ問題がよく出てくる地域でしょ?
つまり、子供の教育といっても、子供の将来を見据えたものではなく、現時点での話のネタとして重用しているだけなんですね。
別の言い方をすれば、教育ネタ以外のおしゃべりのネタがないからこそ、教育に関心があるだけ。そして、それは関心というよりも、詮索に近い。
子供が自分で何かを成し遂げるようにするための教育ではないわけです。
大人が自分や周囲の人の子供をネタにあら探しをしているだけであり、自分の子供が、周囲からあら探しの対象とならないような警戒心を元にしている。
だから、欠点が見つからないように必死になって、それが、一時的には高成績となる。
しかし、子供なりの意欲に根差したものではないから、大人になってしまうと、勉強することはない。
そして、結果的に知的な関心が薄い話のネタの少ない大人になってしまう。
そして、自分の子供ネタがないと何もネタがない人間になってしまう。

何も現実世界ばかりではなく、漫画とかアニメでも、学校ネタから抜け出せないような作家さんもいたりするでしょ?
そんな作家さんは、まあ、作家としての寿命が短いもの。
だって、他の世界は知らないし、知ろうとしない人なんだから、所詮は一発屋で終わってしまいますよ。

まあ、二流の作家さんがどうなろうとどうでもいいわけですが、子供ネタとか学校ネタしなない人が親になってしまうと、似たような状況になってしまう。
そうなると、早々に寿命が尽きるのは、そんな親によって育てられてしまう子供の側なんですね。