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カテゴリー ダメダメ家庭にないもの
配信日 09年9月4日 (11年1月5日 分離独立)
タイトル 話のネタ 
追記 元の文章から「子供ネタへの依存」を分離独立 (11年1月5日)
ダメダメ家庭出身の人間は、好奇心がないことが多い。
このことは、以前にこのメールマガジンで配信しております。

そもそもダメダメ家庭の親には好奇心がない。そんな親が作った家庭なんだから、その子供も好奇心を持つことが難しい。それだけではありません。子供が好奇心から親に質問しても、親は「うるさいっ!」と言うだけ。
と言うことで、子供はもともと持っていた好奇心を抑圧するようになってしまう。

自身の好奇心を抑えていた日々だったんだから、人と話をしていても、ネタがない。
ダメダメ家庭の人間は、話のネタが実に少ない人たちなんですね。

好奇心そのものの問題だけではありません。ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。当事者意識がないんだから、何も達成したことがない。
自分で達成したことがあるのなら、それが話のネタになるでしょ?
「この時に、このようなことをしたら、このような結果が得られた。」
そのようなことは立派な話のネタですよ。

しかし、何も達成したことのないダメダメ人間は、そんなことも言えない。
じゃあ、話をする際に何を語るの?

と言うか、話の機会そのものが少ない。
そもそも知識があるわけでもないし、何か実績があるわけでもない人と、話をしたいとは思わないでしょ?単にネタがないというだけではなく、話のスタイルもヘタ。
相手の言っていることを聞かずに、一方的に言い放つだけ。これではやり取りしていても不快ですよ。

話の機会が少ないので、ますます話のネタが増えない。まだ、人との会話が上手だったら、「あの人からこんな話を聞いたよ。」とかの又聞きの話もできるでしょ?
しかし、会話の機会そのものが少ないと、そんなこともできない。

結局は、そんな人が語るネタは、「自分がかわいそうな被害者である。」ということだけ。
「あの時、こんなイヤな目にあった!」
「あの人から、迷惑を受けた!」
まあ、そんな話もたまにすることもありますよね?しかし、ダメダメ家庭の人間は、「それしかない」わけです。そうして、自分の被害を滔々と語った挙句、「ワタシをかわいそうな被害者と認めてほしい!」と要求することになる。
人間は生きていれば、不快なこともあるでしょう。誰かから被害を受けることもありますよね?だから、それを語りたい・・・そんな心情も当然のこととしてあるわけです。
ダメダメ人間は、そんな心情を持っている・・・というよりも、人と話をする際に、それ以外のネタはないわけです。

世の中には、同じネタを何回も使いまわす人もいますよね?
話を聞かされると「ああ!このネタ・・・また、言っている・・・もう、10回目かな?」なんて思わされる人もいるでしょ?当然のこととして、そうなると、何回も聞かされる側は「ああ!しょーもない!」なんて表情になってしまう。

それに対し、被害を語れば、いきなり「しょーもない!」という表情はされない。語り方がヘタでも、あるいは、前にも聞かされた話であっても、とりあえずは聞いてくれたりする。
被害というネタは、おいしいネタなんですね。
だからこそ、その被害ネタを増やそうとする。
まさに、被害を受ける状況を自分で求めてしまう。
このことはこのメールマガジンで「不幸への憧れ」というお題で触れております。
自分の不幸を語って、やり取りの相手から構ってもらったという成功体験から、その不幸にもっともっと磨きをかけるようになってしまう。

好奇心のないダメダメ人間も、自分の不幸には関心がある。
何も達成したことがないダメダメ人間が、唯一達成したのが、不幸な境遇。
唯一の自慢である自分の不幸こそ、まさに話のネタになる。

ギャグを書いていると思われる方も多いでしょうね。
しかし、自分の不幸をうれしそうに語る人って結構いるでしょ?
このようなことは以前に「不幸自慢、苦労自慢」として配信しております。
ダメダメ人間には、実にポピュラーな傾向と言えます。まあ、それを書籍にして生業にしている人もいるようですね。
そんな人は、それ以外のネタって、実に貧弱でしょ?
そんな人と関わると、聞いている側の人が、不幸話の登場人物・・・もっと端的に言うと犯人認定される可能性だってあるわけです。

どの道、自分の不幸を喜んで語る人と話をしたいなんて思う人は少ないでしょう。しかし、同類のダメダメ人間には、そんな人の方が親近感がある。だってお互いで不幸話をしていればいいだけなんですからね。しかし、お義理に付き合っているうちに、いつのまにか同類になったり、犯人認定されてしまう。

ダメダメ人間は、被害話しか語るものがない。
だから、被害という形で語れるネタを探し求めているもの。だから、執拗にあら探しをしたり、お金を出してまで、グチのネタを求めたりする。つまり、そこにビジネスチャンスがあったりする。しかし、あまりそれに応えすぎていると、応えた側の尊厳がなくなってしまう。

何でも、日本の有力新聞である朝日新聞に対する読者からの信頼度が落ちたという調査が、以前にあったそうです。
朝日新聞こそ、「グチを言うことを求める読者」に対して、上質のネタを提供している新聞でしょ?そもそもそんな読者は、「ああ!オレがかわいそうであるという理由が知りたい!」と念願しているもの。以前に配信した文章に「高雅で感傷的なグチ」という文章がありますが、まさに、そのような高雅なグチを求める要求に応えているものなんですね。

もちろん、ビジネスとして割り切って、グチのネタを提供していればいいわけですが、そうはいかない。そもそも、グチを求めてやまない読者は、「もっとグチらせてほしい!」「こんな程度のグチのネタでは、オレは満足できない!」と、それこそグチり出す始末。

だからこそ、もっともっと、グチのネタのレヴェルが上がってしまう。
しかし、だからこそ、周囲の人からは呆れられてしまうことになる。

ちなみに、新聞となると、
朝日新聞は、グチのネタ。
読売新聞は、オシャベリのネタ。
日経新聞は、仕事のネタ。
毎日新聞その他は、近所付き合いのためのネタ。

そんな感じでしょ?
思想信条の問題はともかく、それぞれの新聞って、そんな感じなのでは?
電車に乗っていると、乗客の顔を見れば、購読している新聞が判ったりするもの。
鞄の中から朝日新聞を取り出す人は、取り出す前からだいたい判るもの。
まあ、例外なく、グチっぽい顔をしている。かと言って、「オレは『赤旗』を読むような偏った人間ではないんだ!」なんて微妙な自意識を漂わせている。

ちなみに、新聞については、その時その時の流れで購読している新聞を変えている人も結構いるでしょう。新聞そのものよりも景品が目当てというパターンと言えるのかな?まあ、新聞の選択がおかしくでも、たかが新聞ですよ。
要は、「そこから何を考えるのか?」それが重要でしょ?
ダメダメ人間は、思考はしない。するのは詮索はだけ。

ちょっとした話のネタにそんな姿勢が現れていたりするもの。
好奇心がいっぱいあって、面白おかしいネタが次々出てくるのか?
あるいは、当人自身とは直接に関係のない、いわば詮索に類する情報なのか?
問題意識を持って、物事を見ている人がつむぎだす新鮮な視点から見えてくる情報なのか?
もちろん、日頃から勉強していて、深い洞察に裏付けられた話のパターンもある。
あるいは、「ワタシをかわいそうな被害者だと認めてほしい!」と念願している人がしている日頃からのあら探しの成果としてのネタなのか?

政治であれば、経済であれ、映画のような表現の分野に関するネタであれ、情報に向き合う方向性は、その人の日頃の方向性に沿ったものとなる。
分野の問題でのヴァリエーションはあるにせよ、ちょっとした話のネタでその人の日常も見えてくるものなんですね。

(終了)
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発信後記

今週は、やり取りにおける「伝える気持」の弱さに関する文章を集中的に配信いたしました。
抑圧的なダメダメ人間は、「どんなことを」「どんな人に」わかってほしいのか?
それを考えることから逃避しているわけ。

伝える気持が弱いので、「あ〜でもない、こ〜でもない。」の「な〜んとなく」の言葉になってしまう。そんな人が熱く語るのは反論の時。
相手から自分の考えや行動の問題点を指摘されると、途端に燃え上がってしまう。
被害者意識が刺激されることから反論するということもありますが、反論以外には、「伝えたいもの」を持っていないという状況もあるわけ。

反論が反論を呼ぶという状況はダメダメな人とのやり取りでは、まさにお約束。
逆に言うと、熱く反論する人は、強い精神的な抑圧があるわけ。
本来なら、自分の問題点を指摘されて、その指摘に合意できないのなら、追加説明をすればいいだけ。それによって相手が納得すればそれでいいし、納得しなかったら、サヨナラ!でオシマイですよ。

しかし、抑圧的な人は、距離を取るという対応をせず、反論に燃え上がってしまうもの。個人レヴェルのケースもありますが、いわゆるカルト集団もそんな感じでしょ?
R.11/1/5