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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神 |
配信日 | 09年9月14日 (11年1月13日 分離独立,11年1月21日,11年2月3日 記述を追加) |
タイトル | 信念 |
追記 | 「相性」という文章から分離独立 (11年1月13日) |
このメールマガジンでは、たびたび「似て非なるもの」ということを、取り上げております。それこそ「会話とおしゃべり」は違うとか、「同情と配慮」は違うとか・・・ 同じように「理念と信念」も違うもの。 ダメダメ家庭の人間は、理念はあっても、信念はない。 「自分でこれを成し遂げるんだ!」 「自分はこの方針で生きていく!」 なんて全然思っていない。 自分自身のディシプリンを持っていないわけです。 自分自身のディシプリンはなくても、自分とは無関係に存在する、一般論的な価値基準と言える理念は持っている。 そして、その理念を何かと持ち出すことになる。 ダメダメ家庭の人間が理念的であることは、別のところで文章をまとめております。 理念と言うことは、一般論であって、だからこそ、周囲の人間に向かって、その理念を元に「こうすべき!」なんて言うわけでしょ?一般論と言うものは、論理的には自分自身もその対象に含みますが、実際的には他者に向かって適用することが多いもの。 だって、自分自身を中心的な対象としていれば、わざわざ他人に対して言いませんよ。わざわざ他人に対して一般論を語るということは、実際問題として、その「一般論」の範疇に自分自身が入っていないということなんですね。一般論的な理念はそれだけ自己逃避と関係しているわけです。それに対し、信念というものは、純粋に自分自身の問題になります。 そもそも、「自分自身がどうしたいのか?」という当事者意識がないと、信念なんて持ちようがない。自己逃避であれば、信念とは無縁となってしまうのは誰でも分かること。 逆に言えば、信念ではなく、理念を持ち出してくるのは、自己逃避と関わりが深いと言えます。そんな人が、人とのやり取りにおいて、理念を持ち出し、周囲に向かって、「こうすべき!」「ああすべき!」とお説教するのは良いとして、『じゃあ、アンタ自身としては、結局は、どうしたいの?』なんて言われると、逆上してしまう。 高邁な理念を「べき論」で語る人って、一見、「よく考えている。」「よく勉強している。」ように見られてしまうものですが、理念を語る分だけ、自分自身の信念を語らないで済んでいるわけです。実際にそんなものでしょ? それこそ、インターネットの掲示板でご高説を得意気に書き込んでいる人もいますが、そんな人は、理念はあっても、信念があるとは言えない。 そんな場で出てくる善意の言葉も一般論的な理念どまりであって、その人の実感を伴う信念にはなってはいない。 理念どまりなので、人とのやり取りにおいても、誰かの行動を「アイツはケシカラン!」と否定しているだけ。インターネットの掲示板に否定コメントを書き込むだけではなく、それこそ、電話などを使って抗議したりする。しかし、そんな抗議をして、事態がよくなるわけでもないでしょ?その抗議が、その人にとって、そんなに切実な問題なの?抗議の電話ができないのなら、もう死んだ方がマシというくらいに切実な気持ちで抗議しているの? その抗議に対して、抗議先の相手から反論が返ってきたら、その反論に対して丁寧に説明できるの? 現実ではそうではないでしょ? はっきり言ってしまうと、その人にとって実感性がなく、必要性がないがゆえに、そんな抗議行動をしているわけでしょ? 自分以外の人間に対して否定的な対応をしても、「困りごとがあったら、このワタシに相談してください。」というスタンスは取らない。 その人が語る善意が信念となっているのなら、人からの相談を受けるものでしょ? それこそ、10年に起こった大阪ネグレクト事件のようなものの発生を防ぎたかったら、「困った時には、こんな事態になる前に、こちらに連絡や相談してほしい。」と、呼びかけるのがスジじゃないの? 相手からの困りごとを受けるのではなく、一方的に善意を語るのは、たとえば、カルト団体などもそのパターンでしょ? 「ワタシたちは幸せだから、アナタもこうすべきだ!」そんな物言いが彼らのオハコでしょ? カルトな宗教団体も、カルトな政治団体も、一般論的で理念的な善意を主張するけど、「じゃあ、ワタシが困った時には、アナタのところに相談に行ってもいいですか?」と聞いたら拒否してしまう。 カルト団体も、掲示板常駐者も、個別の相談を受け付けるという発想はない。 一般論的で理念的な善意を一方的に主張するだけ。 その手の人たちは、自分自身とは無関係に存在する第3者的な体系に依存することで、自己逃避しているわけです 自分自身から逃避していて、「で、結局は、アンタはどうしたいの?」という問いには答えられないので、プラグマティズムもない。だから、なおのこと一般論的な理念に逃げ込んでしまう。 当事者意識を持って現実を見て考えれば、色々と個別に困難な点も見えてくるでしょ? 「理想論はこうだけど・・・この点は・・・簡単には行かないなぁ・・・」なんてことがよくあったりするもの。 しかし、理念を語るだけだったら、そんな現実的な問題点も見えてこない。むしろ、「本来は、こうあるべきなのに・・・現実は、そうなっていない・・・世の中は間違っている!ああ、こんな間違った世の中にいるオレって、なんてかわいそうな人間なんだ!」と被害者意識に浸るだけ。 たとえば、このサイトで取り上げております「寛容」という問題ですが、理念的なスタイルであれば、「人は他者に対して寛容であるべきだ!」と主張するだけでいい。 しかし、信念としての寛容となると、そうはいかないでしょ? 今現在がその寛容という面においてどの程度達成されていて、あるいは問題点がどんなところなのか?そんな現状認識が必要になってくるでしょ? そして、その問題点に実際に対処する必要があるでしょ? それこそが、自分の信念というものですよ。 しかし、自己逃避のダメダメ人間は、「人は他者に対して寛容であるべきだ!」と高邁な理想を語るだけで、現実を見ようとしない。そして、「不寛容」な人を攻撃するだけ。 ああ!なんて寛容な人たちなんだろう! 逆に言うと、現実を見なくても済むような高邁な理想を掲げて、「どうして、こうならないんだ?」と被害者意識に浸るだけ。 あるいは、たとえば、自己責任というのも、理念的に捉えるだけになってしまう。 「アイツには自己責任がない。」と誰かを非難するのに使っても、自身では責任感をもって行動をしない。それこそ、「こんにゃくゼリー」での自己には自己責任という理念を適用して、テレビ局による虚偽には大騒ぎする。しかし、テレビ番組も、「こんにゃくゼリー」と同じように見なければいいだけ。それこそが自己責任というものでしょ? 自己責任という考えが信念となっていれば、虚偽のテレビ番組によって騙された視聴者に対しても、自己責任という言葉を投げてオシマイにすればいいだけですよ。 しかし、ダメダメ人間は、自分が被害者としての立ち位置を得るために、理念を持ち出しているだけなので、一貫した態度は持っていない。 そうして、被害者意識に浸ったら、その後にすることと言ったら、犯人探しや報復行為。 「悪いのは全部○○のせいだ!」「アイツのせいで、オレはこんな目に・・・」「だから、アイツをやっつけてやるんだ!」 このような流れは、インターネットの掲示板や、カルトの人たちには、おなじみのものでしょ? 自分以外の人に対して、規範を課しても、自分自身に対して、規範を課すことはない。 そんなダメダメ人間と一緒にいたいと思うマトモな人間がいるわけもなく・・・ そんなダメダメ人間同士で、やっぱり集まってしまうことになる。 片や、信念を持った人間同士が集まって、自分たちの目標達成のために協力し合う集団があれば、片や、理念的で、「ああすべき!」「こうすべき!」と、「べき論」ばかり言う人間が集まって、「どうして、こうならないんだろう!ああ!オレたちはかわいそうな被害者だ!」とグチ大会をする集団が形成される。 何もインターネットの掲示板のようなものばかりではなく、ご近所の井戸端連中でも、そんな感じで分かれてしまいますよね? 「信念から逃避するために、通りのいい理念にすがる。」 倫理と言うものは、自己逃避の大義名分として利用されることが多いことは、このサイトで頻繁に言及しております。第3者的な体系によって、自分自身を埋没させてしまうわけです。それなりにアタマが働くダメダメ人間には、そんなところもあったりするんですね。 しかし、言葉の上では立派な倫理なり理念を語っているので、それによって自己逃避しているとは、当人自身だけでなく周囲の人間も気が付きにくい。 だから、そのまま突っ走ってしまう。 理念的な善意は、当人の実感性がもともとないがゆえに暴走しやすい。 そもそも自分自身なり相手を見たくないがゆえに、持ち出している善意なんですからね。 だからこそ、善意という大義名分を守るためなら、相手の存在もどうでもよくなってしまう。 そんな心理だからこそ、ストーカー事件も起こってしまう。 まさに「オレだけがアイツのことを分かってあげられるんだ!」と自分の善意が暴走してしまい、そして、善意という名目であるがゆえに、歯止めなどがありようもなく、行くところまで行ってしまうことになる。 あるいは、相手を見ないままで一般論的な善意で暴走するとなると、市民運動の連中がその代表でしょ? その手の人も、一般論的な理念を掲げることで、自身の信念から逃避している。つまり、自分自身から逃避している。自分自身が見えていないんだから、相手も見えていない。 だから、相手と合意を積み重ねながらやり取りをしていくことはできず、「断固糾弾せよ!」と言いながら、相手をつるし上げることしかできない。 そんな姿は、市民運動だけでなく、前に言及したインターネットの掲示板もまさに同じでしょ? そもそも、インターネットの掲示板での書き込みなんて、「どうしても言いたいこと」ではないでしょ?だって、本来は「どうしても言いたいこと」は、「どうしても分かって欲しい」こととつながっていますよ。「どうしても分って欲しい」ことなら、それ相応の分りやすい文章にするでしょ?あるいは、そんな表現ができる場に自分の文章をおくようにするでしょ? それこそ、昨今たまに騒動になったりする、ブログの炎上とか、ツィッターでの騒動も、そんなことを書き込みのはいいとして、それをどうしても言いたいの? それこそ、11年において騒動になりましたが、「ラブホテルに○○と△△が来た・・・」と書き込むのはいいとして、その文章をどうしても分って欲しいの? どんな人に対して、どんなことを分って欲しいの? どうしても分って欲しいことなら、それ相応のリスクを取って、覚悟を持って、つまり自分の信念に従ってやればいいだけ。 逆に言うと、自分にとってどうでもいいようなことについて、アチコチに手をつけているということは、その人に信念がないんですね。 もし、信念があるのなら、自分の信念を語る場に、他人の下ネタなどは書き込まないでしょ? 他人の下ネタも、高邁な理念も、自分にとっての切実な信念ではないという点においては、共通しているもの。 倫理的な理念をそれっぽく語ることができる人を見て、「あの人は正義感がある。」と誤解し、その手の人たちに近づいていく人もいるようですが、そんな人は結局はつるし上げられるだけ。 一般論的な倫理を連呼する人は、たとえ誰かとやり取りするに当たっても、相手をつるし上げ、自分の支配下に置きたいというサディズム的な心理となっている。そうやって、相手を見ることで自己逃避してしまう。 相手を支配下においても、自分自身の目標が達成されないことは誰でも分かること。 しかし、自己逃避のダメダメ人間は、自分の目標自体が存在しない。 だからこそ、安心して、人を攻撃することに明け暮れることになる。 そして、「そんなことをするのはいいとして、アンタ自身はどうしたいの?」という質問を受けると、やっぱり逆上して、その質問者も攻撃する。 そんなことを繰り返しているもの。 そんな人は、第3者的な高邁な理念については一生懸命に語ることができても、自身の信念をシンプルに語ることはできない。 信念を持ってことにあたることができないがゆえに、理念的になっている・・・ ダメダメ人間の自己逃避を考えるにあたって、そんな視点で見てみると、理解できることも多いんですね。 |
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R.11/1/21 |