トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | ダメダメ家庭が持っていない発想 |
配信日 | 09年9月14日 (11年1月13日 一部分を分離) |
タイトル | 相性 |
追記 | 元の文章から「信念」という部分を分離独立 (11年1月13日) |
ダメダメ家庭の人間は、自分で考えることから逃避している。だから、権威筋認定のありがたいご高説が大好き。そうして、そんなご高説を、もっともらしく語る自分自身に陶酔したりしている。「こんな立派なことを言えるなんて!ああ!ワタシって、何てスゴイ人なの?!」 かと言って、そのご高説が、どうして正しいのか?あるいは有益なのか?そんなことは、自分で考えない。 「権威ある○○先生が言っているんだから、黙って従え!」 そんな調子になってしまう。 その手の人は、自分で考えなくても済むように、権威筋認定の言説に従おうとするわけですが、その他にも、衆目の一致するような「絶対悪、絶対善」があるような領域に行きたがるものです。 そのようなことの例として、以前に「平和」という言葉を取り上げました。 自分で考えることから逃避し、そして会話の能力の欠如したダメダメ人間は、「平和」という言葉を使いたがるし、そんなレッテルをムダに付けたがることが多い。以前に集中的に取り上げましたが、抑圧的なダメダメ人間は、反応というものに対してのセンシビリティがない。自分のアクションに対して、相手から反応されたら、困ってしまう。「平和」というレッテルをつけておけば、反論はされないでしょ? 「平和」なんて、本当にいいことなの? 「平和」よりも、戦争の方が有益だ! そんな反論は、現実的には、まあ、存在しない。抑圧的な人間は、反論されないことが判りきっているから、何も考えずに、平和という言葉を使うわけです。 「平和」という言葉は、まさに思考なり議論を封殺するための言葉なんですね。まあ、思考や議論を封殺すれば、確かに平和になるでしょうよ。しかし、まさにオペラの文句のように「墓場の平和」そのもの。思考や議論を封殺するために持ち出されるご立派な言葉としては、「人権」とか、あるいは「セクハラ」とかの用語も同じ。会話から逃避する抑圧的な人間は、相手から反論をされにくい言葉を使いたがるもの。 それこそ、会話の能力の低い人ほど、スグに「○○ハラスメントだ!」とか大騒ぎするものでしょ?そんな大騒ぎによって、相手の話を聞くこととか、説明することから逃げようとするわけです。 「平和」は、まあ、否定しようがない善と言えますが、逆に、否定しようがない悪に対してわざわざ接近するケースもあります。 それこそ、このメールマガジンではドメスティック・ヴァイオレンスの問題を取り上げたりしていますが、自分の妻に対して暴力を振るうような男性は、弁護のしようがない。 だから、そんな「弁護しようがない」事件の元にわざわざ出かけて行って、加害者を糾弾して喜ぶわけです。 そのような糾弾をしても、まさか、反論されないでしょ?反論されないから、自分なりの考えを説明する必要がないし、会話の能力の必要もない。 否定しようがないほどに善なり、悪の領域ばかりに行きたがるので、その活動領域も、どんどんと現実世界から遊離してくる。だって、現実なんて、ほとんどは絶対善も絶対悪もないグレーゾーンですよ。各々が「自分のやりたいことを、周囲の迷惑にならないように」やるだけ。何か不都合なことがあったら、お互いに配慮しながら、会話で調整していけばいいだけ。 しかし、ダメダメ人間はそれができない。 だから、グレーゾーンの現実世界に、強引に絶対善、絶対悪を持ち込んで、理念的な問題にしてしまう。問題が理念的になってしまうので、現実的な解決から遠くなってしまう。 自分自身で考えることをしないので、「あの人のやることは絶対に正しい!」「あいつは絶対に間違っている!」なんて考えてしまう。 そして、そんな絶対悪、絶対善の観点から事態を見ることになる。 ましてや、二項対立で物事を考える人だから、すぐに「敵vs味方」の対立構図を持ち込む。 それこそ、 日本はすべて悪い。北朝鮮はすべていい。 オトコは全部悪い、オンナはすべていい。 中小企業はすべていい。大企業はすべてダメ。 そうやって、話し合いで対処してもらえる人間すらも、強引に敵認定し、「悪いのは全部○○のせいだ!」と言うばかり。 結局は、どんどんと敵が増えるだけ。 結局は、周囲から孤立して、「アイツのせいで・・・アイツのせいで・・・」と恨みの念が増幅し、ドッカーンとなってしまう。まさに通り魔殺人事件なども起こってしまうことになる。あるいは、別のところで取り上げております、ビートルズのポール・マッカートニー夫人だったヘザー・ミルズさんのように、つるし上げ行為ができるクレーマー系の活動に入れ込んでしまう。 こうなると、最後には「自分以外は全部が敵だ。」なんてことになってしまう。それこそ上記のヘザー・ミルズさんだけでなく、現実にも、そんなことを言う人がいたりするでしょ? 自分以外の何かを敵認定をして、「うまく行かないのは○○のせいだ。」と自分で納得するのはいいとして、『じゃあ、アンタはどうしたいの?』なんて聞いても、「どうして、そんなイジワルなことを聞くのよっ?!」と逆上する始末。逆上するどころか、まさに敵認定されてしまうだけ。 善も悪も、自分なりに考えた結果として登場するのならともかく、ダメダメ家庭の人間は、最初からそんな絶対悪なり絶対善の二項対立からしか物事を考えられない。と言うよりも、自分で考えないために、「善vs悪」の構図が必要とされるわけです。 絶対善を言う人は、その裏返しとして絶対悪の認定もやったりするものです。発想が極端な人なんだから、そんな人に気軽に近づいていって、最初のうちはグチで盛り上がっても、うまく行かなくなった際には、いつのまにか犯人認定されて、絶対悪にされてしまう。 いったん絶対悪と認定されてしまったら、暴力もやむをえない・・・なんてことになって、シャレにはならないことになってしまう。 絶対善も絶対悪も、思考から逃避する人がすがるもの。そんな人には何を言ってもダメ。ヘタに近づかない方がマトモなんですね。 徹底的に考えること自体は、結構なこと。だからと言って、徹底的に考えるための視点として二項対立的な視点しか持たないのなら、大した結論にはならないでしょ?二項対立的な視点というのは、視点が単一になっている。だから、その思考とやらも、言葉の割には徹底されていない。多くの視点から対象を考える・・・それが徹底的に考えることでしょ? ここで、ちょっとムダ話になりますが・・・ 徹底的に考えるとなると、ユダヤ民族がそんな感じ。 彼らは突き詰めて考えようとする。まあ、だから学者さんが輩出したりするんでしょうね。あるいは、芸術の分野でも、業績を上げたユダヤ人も多い。 しかし、政治の分野で、すばらしい業績を上げたユダヤ人は、あまり聞かないでしょ?アメリカのキッシンジャーさんくらいじゃないの? 政治の分野だと、突き詰めて考えても、うまくはいかない。だって相手があることですからね。相手の話を聞いて、自分の考えを丁寧に伝える・・・それが基本でしょ?それに、善悪も相対的なもの。 現在のイスラエルが第2次大戦後に建国された際には、初代の大統領として、有名な物理学者のアルバート・アインシュタインが候補にあがりました。まあ、イスラエルにおいては大統領は名誉職。この点は日本の天皇と同じ。しかし、アインシュタインは、その要請を断りました。 「オレは、物理学はそれなりに分かっているけど・・・政治はなぁ・・・」と言うわけ。 まあ、そうなんですけど、まさに相対性の大家で、平和運動にも熱心だったアインシュタインが大統領になっていたら、今のイスラエルも、もうちょっとうまくやっていたのでは? 今のイスラエルは、あまりに「敵vs味方」の構図が強すぎるでしょ? まあ、閑話休題。 考え方なり視点においても、相性のようなものがあるわけです。 学問に向いた考え方もあれば、政治に向いた考え方もある。 政治においては、人の話を聞くことが必要ですが、学問や芸術においては、人の話なんて聞く必要もないし、聞き過ぎるとブレるだけ。 人とのやり取りでトラブルになるのは、往々にして相性のファクターが大きいもの。しかし、相性を考えることは難しい。だって、自分自身が分かっていて、相手について分かっていて、その上での判断によって相性を判断できるわけでしょ? それこそ、「こんにゃくゼリー」は、お年寄りや子供と相性が悪いというだけですよ。しかし、自己逃避で抑圧的な人は、相性という観点から見ずに、「諸悪の根源」とかの文言を持ち出し絶対視するようになる。 そして絶対悪認定して、その対象を攻撃するようになる。 それこそ、以前に言及いたしましたが、夫を愛人に寝取られた中国の妻が、愛人を攻撃するようなもの。「夫は悪くない・・・ダマした愛人が全部悪いんだ!」と言うわけです。そして「愛人が全部悪く、つまり夫は悪くないんだから、そんな夫と結婚したワタシも悪くない。」となってしまって、自分自身については思考停止になってしまう。 このようなことは、ドメスティック・ヴァイオレンスにおいて、暴力オトコを絶対悪認定し、その男性をつるし上げることで、そんな男性と結婚してしまった自分自身について考えることから逃避する行動と心理的には同じ。 心理的に抑圧されていると、「で、結局、自分はどうしたいのか?」という当事者たちの希望の問題だったのが、善悪の問題になってしまう。 このように、絶対悪認定によって、自己逃避や現実逃避をするわけです。 絶対悪だけでなく、絶対善認定も、方向が違うだけで、自己逃避という点においては全く同じなんですね。 何かを絶対善と認定し、いわば偶像視する。 偶像視と言っても、「アイドルの○○ちゃんは、トイレに行かない!」なんて本気で思っているくらいなら、若気の至りというか、単なるオバカで済む話と言えます。そもそもアイドルなんて現実ではないんだから、どのように妄想してもOKですよ。しかし、もうちょっと現実的なものを偶像視すると、厄介な事態になったりする。マルクスを絶対視したり、身近にいる立派な人を絶対視したり、特定の政党を絶対視したりする。そうなると、それ以外の主張は、絶対悪となってしまうでしょ? つまり攻撃対象となってしまう。 善とか悪とかではなく、尊敬するくらいならいいわけです。たとえば、特定の芸術家を尊敬するくらいならいいのでは? ただし、その作品が重要なのであって、その作家の日頃の行為が重要というわけではないでしょ?シェークスピアがトイレに行こうか、行くまいが、その作品の真価には関係ありませんよ。と言うか、シェークスピアの作品中の名文句の数々は、トイレで着想されたものも多いのでは?アイデアと言うものは、ちょっと雰囲気を変えた時にわき上がってくるもの。それこそお風呂に入った時とか、部屋を出る時にドアを開けた時とか・・・ 机に向かっている時は、そのアイデアを整理している時間であって、アイデアがわき上がってくるのは、ちょっとした変化があった時なんですよ。 と、また閑話休題。 敬意を持つ作品なり創作者についても、その作品がどのように傑出しているのか?それが自分自身にどのようにインパクトがあるのか?その点を自分で自覚していて、必要に応じ、他者に説明できればいいだけ。 そして、その尊敬できる業績を上げた人を手本に、自分も手がけてみればいいだけ。そうすれば、現実的で具体的に参考になるでしょ? しかし、ダメダメな人は、現実から逃避するための、絶対善なり絶対悪認定をするので、その手の人の話には、具体的な「尊敬している人物」などは登場しないもの。 そんな人は往々にして、実に理念的なんですね。 ダメダメ人間が持つ理念的なキャラクターについては、以前に配信しております。 理念や正義からは相性という発想は生まれない。 と言うよりも、理念や正義を掲げることにより、相性の問題を考えることから逃避するわけです。周囲に文句ばかり言っている人からは、相性という言葉が出てこないでしょ? 逆に言うと、相性というものを意識している人は、それなりの当事者意識があることが想定できるわけです。 自分というものを分かっていて、今現在考えているものが分かっていれば、それを評価するのは相性の問題から見た方が現実的でしょ? 自分の目標が現実として見えていれば、そのように考えていけますが、ダメダメ人間は目標自体が存在しない。 だから、第3者的な正義なり倫理がどうしても必要となってしまう。 そして、そのような第3者的な価値基準によって、どんどんと自己逃避してしまうわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 今週は、いわゆる「正義」に関した文章を集中的に配信いたします。 正義の裏面というか心理面を考えてみたいと思っております。 正義というものも、その裏面から見ると、意外にも見通しよく見えたりするもの。 まさにエミリー・ディキンソンがいうように、「Experience is the Angled Road」というわけ。 ちなみに、金曜日は、とある文芸作品を取り上げます。まあ、皆さんもタイトルくらいはご存じでしょう。ノーベル賞作家ですしね。 その中で、登場人物がショパンのピアノ曲を弾くシーンが出てきます。 以前にもちょっと書きましたが、芸術作品で、他の芸術作品が引用されるのは、それ相応の意図があってのこと。 ショパンの曲が弾かれるというのはどういう意味なの? ショパンの曲を引用する際には、その文脈において色々なパターンがあります。 それこそ「革命」なんて曲を気迫を込めて演奏すれば、演奏している人の反抗心の発露となる。あるいは、有名な「別れの曲」の場合だったら、ある時代の終わりとか、関係の終わりを象徴することになる。 これくらいは、実に簡単。 ちょっと凝った例だと、たとえば有名なナボコフの「ロリータ」という小説を、スタンリー・キューブリック監督が映画化しましたが、原作にないシーンとして、ショパンのピアノ曲を、譜面も見ずに、そして「てきとう」に歌詞を付けて演奏するシーンがありました。それは、その人の教養と才気の象徴といえます。いかにアタマの中に色々と入っていて、それを縦横無尽に引き出せ、使いこなせるか?そんな意味となっているわけ。 あるいは、以前に取り上げたマルグリット・デュラスの「ラ・マン」では、郷愁の象徴としてのショパンのピアノ曲でした。外国生まれで、現在はフランス在住でありながら、故郷への思いを持ち続けている・・・そんな人間の象徴としてのショパンなんですね。 金曜日に取り上げるその作品においては、南方で生まれ育った人がショパンを弾くことで、その人の故郷である南方の特徴である、放埒と怠惰と、そして官能への疼きを表現しているわけ。 ショパンのピアノ曲を弾くことで、その人の教養を表現する場合もありますし、その人の怠惰を表現する場合もあるんですよ。 表現においては、それぞれの要素に絶対の意味などはなく、組み合わせによって、意味が違うわけです。 |
|
R.11/1/13 |