トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る | 韓国・北朝鮮問題のトピックス(その3) |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ | |
カテゴリー | ダメダメ家庭にないもの | |
配信日 | 09年10月16日 (10年9月23日 記述を追加,11年1月26日 一部部を分離独立) | |
タイトル | 生データーの不在 | |
追記 | 元の文章から「で、実際のところは」を分離独立 (11年1月26日) | |
ダメダメ家庭の人間は、主観と客観の区別がつかない。 このことについては、以前(09年7月)に配信した長大なシリーズの中の文章において記述しております。 そもそも、他者というものを心理的に認識することができないんだから、他者の存在に依存する客観というものも、国語辞典的には分かっても、心理的には実感がない状態となってしまう。 客観となると、客観的データー、あるいは「生データー」とか言われたりするものがあります。 それこそ、国だったら、「○○年の統計において、人口が、男性△△人、女性が□□人・・・あるいは、GNPは・・・」とか、様々なデーターがあるでしょ?その生データーを集め、データーを処理し、判断の材料にしていく・・・そんなもの。 実は、ダメダメ人間とやり取りすると、その手の「生データー」がなかなか出てこない。 それこそ、以前に取り上げた韓国の高校歴史教科書は、そんな統計データーとか年号とかあるいは、史料名とか、具体的な組織名とかがほとんど出てこない教科書でした。 韓国の歴史教科書は、まさに魯迅が「狂人日記」の中で書くように「年号がないのに、仁義道徳の文字がくねくねと躍っている。」歴史書の典型となっています。 主観と客観の区別がつかない韓国社会では、執筆者の主観が書いてあるだけで、客観的な事実は歴史書には書いていない。 文明国においては、歴史の研究も客観という制約を受けるわけです。歴史学は人文科学であって、フィクションではない。司馬遼太郎の歴史物がおもしろくても、それが歴史的な事実を記述しているというものではないし、その必要もない。だって、あれは芸術作品なんですからね。しかし、歴史学であれば、主観の排除が必要となる。しかし、韓国においては歴史は人文科学ではなく、神話に類するものなんですね。客観性を前提としないわけです。 歴史を考えるに際し、本で書かれた記述を疑問に思ったら、もっとも基本的な、別の言い方をすると、客観的で疑いようがない生データーに戻って、自分なりの調べてみる。そして、自分なりに判断する。 教科書の書き手も、あるいは、そんな教科書を受け入れる一般の韓国人も、そんな発想を持っていない。 「信じるか?信じないか?」 そんな信仰心の問題になってしまっている。 逆に言うと、そんな信仰心の問題にしてしまうことにより、自分で調べ、考えることから逃避できることになる。 あるいは、「従うか?従わないか?」という、序列関係や支配・被支配の構図に基づいた命令の流れの問題になってしまっている。 だから、客観的な検討のために、データーを取るという発想それ自体が存在しない。 あるいは、議論がかみ合わなくなった際に、元々のデーターに戻って議論をやり直すという発想もない。議論がかみ合わなくなったら、議論を打ち切り、後は支配・被支配の関係によって、支配者が被支配者に命令するだけ。逆に言うと、それで済んでしまう社会なんだから、客観的データーにも意味はない。 データーを扱う際にも、加工されていない素材をそのまま出せばいいだけなのに、客観という発想そのものが理解できないので、色々と主観的に加工する。人とのやり取りなどを伝える際にも、やり取りの言葉をそのままの形で、記述することができない。判断とか、配慮とか、倫理とか、民族意識という名目のヴェールが掛かっている。 常に、なにがしかの主観的な評価が絡んでしまっている状態で、「生」ではない。 生データーの価値も分からないし、生データーの扱い方が分からない。 何も韓国人だけの問題なら大したことではありませんが、自分自身から逃避し、思考を抑圧し、判断から逃避するダメダメ人間は、そのような生データーの扱い方ができていないわけです。 たとえば、このメールマガジンで、他者の文芸作品なり映像作品を取り上げたりすることもありますが、たぶん、私の視点は、一般人とはかなり違っているでしょう。 そんな私の記述に対して、疑問に思ったら、購読者ご自身で、その作品を調べてみればいいだけでしょ?購読者ご自身の目で見て、「こんな指摘は参考になるなぁ・・・」とか、あるいは「この発想はちょっと極端すぎる視点なのでは?」とでも、色々と考えればいいだけ。 まずは、ご自身でその資料なり作品に接した方がいいわけでしょ? まあ、私の文章を、そのまま参考にするくらいなら別にいいわけですが、もし、反論したいのなら、ご自身で調べてみることが第一ですよ。 ところが、ダメダメ人間は、往々にして、自身でその作品にあたりもせずに、逆上したりするもの。「このメールマガジンの文章は、ワタシのことをバカにしたのかっ!!」そんな調子でクレームをつけてくる。 何も特定の人間をバカにするために、わざわざ文章を書きませんよ。 ただ、そんな逆上メールをいただくと、『コイツはバカだなぁ・・・』『この怒り方は、以前のあの文章に書いてあるとおりだよ。』と思うだけ。 せっかく「生データー」を分かるようにしているわけだから、ご自身でそれにあたり、私の視点とは別の視点で検討してみたり、もっと意味ある視点で文章をまとめればいいだけですよ。 しかし、普段から自分で考えていない人は、そんな生データーの扱い方が分からない。 判断から逃避するダメダメ人間が求めるのは、「評価」であって、自分が思考し判断するための材料には価値も見いだせない。 誰かにクレームを付けるのはいいとして「じゃあ、アナタはどう考えるの?」と聞かれると、何も言えなくなってしまう。 そうなってしまうと、『覚えてなさいよ!』と、捨てセリフを投げつけてトンズラするばかり。 そんなやり取りばかりしているので、自信がつかない。 意を決して誰かとやり取りを始めても、「アナタ自身ではどう考えるの?」という質問に何も答えることができず、相手から避けられたり、怒られて、また別の人とやり取りを始めて、その人からも怒られる・・・そんなことの繰り返し。 自信がないからこそ、やり取りにおいては、逃げ場所を確保するようになる。 相手から怒られたら、スグにトンズラできるように逃げ口を準備する。 逃げ口を意識して人とのやり取りをする人は、どうしても「人づての話」ばかりになってしまうものです。 だって、「人づての話」だったら、相手から怒られても、「えーとぉ・・・これはあの○○さんが言っていたことだから、ワタシも詳しくは分からないけど・・・」「ワタシが言っているんじゃないわよ!あの○○という人が言っているだけ。」とかの言葉で逃げを打てるでしょ?とりあえずは、その場は収まりますよ。 そんな逃げで成功体験を得てしまうので、ますます人づての話ばかりになってしまう。 「テレビで言っていたけど、あの事件は○○が原因なんだって・・・」 「御近所の人が言っていたけど、政府の方針はこのように決めるんだって・・・」 あるいは最近では、 「インターネットに書いてあったけど、あれは、実は△△なんだって・・・」 古典的なスタイルだと、 「本に書いてあったけど、あれはこれが黒幕なんだって・・・」 あるいは、その気?がある人なら 「とある陰陽師が言っていたけど、あの人の前世は○○なんだって・・・」とか・・・ このように「人づて」のスタイルばかりなんですね。 と同時に、「御近所」とか「テレビ」とか「本」とか「インターネット」とかの漠然とした表現で、具体的な名前がない。せめて「ご近所の○○さん」とか、「テレビでの△△という番組で・・・」とか、「◇◇という本の中で・・・」とか出典を特定できればいいのでしょうが、そんな具体的なものではない。 だから聞かされた方は、その真偽に疑問を持っても確認のしようがない。 原典の生データーに当たって自分で調べてみるということができないわけです。 だから「真実」と確信することもできないし、「ウソ」と断定することもできない。 そして調べてみることもできない。 つまり、ここで「会話」が終了してしまうわけです。 「ふーん・・・」と回答?して終わりでしょ? 皆様も、たまにしたことがあるでしょ?そんなやり取り。だって、確認のしようがないし、そもそも今現在、目の前にいる人の見解ではないのだから、より詳細を尋ねるわけにもいかない。 実際のところ、皆さんは上記のような言い方をされて、その見解に疑問を持ったら、どういたしますか? どうしようもありませんよね? まあ、「一体全体、どこから聞いたの?その話?」というのが精一杯。 そのように問い掛けも、やっぱり「御近所」とか「テレビ」とか「インターネット」とかの漠然とした言葉なんですね。まあ、「ご近所の○○さん」とか「△△という番組」と特定できるケースもありますが、じゃあ、そのご近所の○○さんや△△という番組では、どこからその情報を仕入れたのかというと、やっぱり漠然として判明しない。結局は出典が分からないまま。 勿論のこと、自分以外の人の意見で共感できる言葉もあったりするでしょう? そのような言葉を相手に伝えたい場合は、もう少し出典の所在を明らかにしないと、つまり生データーも明示できないと、聞かされた方は判断の材料にはなりませんよ。しかし、人づての話であるがゆえに、逃げ場所からは近い。それゆえに心理的に安心できる。しかし、心理的に安心できるとは言っても、相手に何が伝わるの?と言うか、相手に伝えたいものがあるの? 逆に言うと、出典を明示しない形での人づての話ばかりということは、その話を持ち出して来た人が、自分で考えたり、判断する人ではないということなんですね。 つまり、当事者意識がなく、何事も受け身の立ち位置なので、被害者意識が強い人といえます。 自分が判断するための材料という観点で物事を見ていれば、生データーとの扱いも習熟しますよ。 検討するにあたって、適宜、生データーや、人とのやり取りそのものに回帰することなんて、一番簡単なことと思われる方もいらっしゃるでしょう。だって、何も考えずに、そのまま持ち出せばいいだけなんですからね。しかし、判断から逃避する抑圧的な人間は、判断をする習慣がない。むしろ自分が判断しないような「流れ」を作ろうとする。だから、生データーだと不適になる場合も多い。それにその生データーを持ち出そうにも、現実逃避のダメダメ人間は、判断材料そのものを持っていないし、心理的に抑圧しているので、たとえ記憶していても、それを取り出せない。 逆に言うと、漠然とした感情は次々と出てきても、生データーが出てこない・・・そんな人は、重症の抑圧的な人間と言えるでしょう。そんな人は、判断から逃避しているわけだから、あらゆることを被害と捉え、だからこそ周囲の人間を犯人認定し、報復することを考える。 生データーの扱い方を見るだけで、その人がどのように判断してきたのか?そんな抑圧の度合いが見えてくるわけです。 生データーとなると、最初に挙げましたが、国家においては、統計データーや公的記録書類が該当するでしょう。あるいは、個人としては思い出の品としての写真なども、生データーの一種でしょ? ダメダメ家庭では写真を撮らないことは、別のところでまとめております。 家族で共有している時間を肯定的に見ていないし、家族そのものを肯定的に見ていないので、それを記録として残すという発想もない。インプットの段階で不全となっている。 たとえ、たまたま写真を撮ったり、撮ってもらったりしても、その保管がいい加減になっている。だから、記憶と同じように、アウトプットできない状態になってしまう。 そんな姿は、結局は、記録そのものに対する価値のなさを意味しているといえます。 現在においてデーターに基づいた運営をされていないのだから、過去を振り返る際にも、データーに基づいたプラグマティックな考察をしない。 「どっちが悪いのか?」という倫理的な観点のみになってしまう。 家族の写真の扱いがいい加減な家庭ほど、逆に言うと、「どっちが悪いのか?」という犯人認定の「倫理的な」議論ばかりになってしまっている。 逆に言うと、その手の集団では、不適切な事件が発生してしまうと、不適切な管理というプラグマティックな問題というよりも、倫理的な問題として認識されてしまう。 だからこそ、「べき論」を持ち出し、倫理的な観点から対処することになる。 倫理的な観点ばかりだからこそ、生データーはますます軽視され、データーの保管もますますいい加減になってしまう。 トラブルがあった組織だと、後で記録が出てこないことが多いでしょ? それこそ、不祥事があったお役所などは、常にそんな感じでしょ? 現時点でデーターに基づいた運営がされていれば、過去のデーターも尊重する。 現時点で、データーを軽視して運営していれば、過去のデーターも軽視する。 そのようなことは、当然の論理でしょ? 逆に言うと、過去のデーターを軽視している組織であるがゆえに、第3者的な倫理だけでものを見て、現実から逃避して、トラブルとなってしまう。 そんな流れは、韓国の歴代王朝だけでなく、最近では、大阪での厚生労働省の女性官僚への冤罪事件でも顕著だったでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 本文中で、韓国の歴史教科書に言及いたしましたが、明日では、昨今遡上に上っている、中国、韓国との「統一歴史教科書」問題について考えてみます。 政治的な観点から見るわけではありません。心理的なり、文芸的な観点から考えた文章です。 |
||
R.11/1/26 |