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カテゴリー やり取りと距離感
配信日 09年12月2日 (11年1月24日 分離独立)
タイトル 排除されるからすがりつく
 追記 09年12月2日配信の「吹き溜まりスパイラル」から分離独立 (11年1月24日)
このメールマガジンでは、頻繁に家庭内暴力(DV)の問題について触れることもあります。本来なら、妻を殴っても、何も解決しないでしょ?そんな「できの悪い」オンナなんて、さっさと離婚すればいいだけ。殴っても妻が利口になるわけもないでしょ?
しかし、そんなオトコだからこそ、周囲のマトモな人からは相手にされない。いわば排除されている状態となっている。そんな排除されているオトコが唯一相手になってくれるのは、自分の妻だけ。そのような面は、殴られる妻の側も同じ。
そもそも、そんな「人を見る目」がないようなオンナだからこそ、そんな出来の悪いオトコと結婚したわけでしょ?

暴力夫にしても、妻と話をしたいから、妻に絡んでいるわけではなくて、周囲の人が相手にしてくれないから、妻に付きまとっているだけ。
妻に付きまとうと言っても、それは二重否定なのであって、決して肯定ではないんですね。
周囲から相手に去れず、排除されるもの同士が結びついているだけ。しかし、こんな状態では上手くいくわけもありませんよ。

あるいは、これも家庭内暴力といえる児童虐待ですが、そんなに自分の子供の出来が悪いのなら、あるいは懐かないのなら、さっさと養子に出したり、施設なりポストにでも入れればいいじゃないの?
ところが、そうは行かない。自分の子供を殴るような人間の相手になってくれるのは、自分の子供だけ。子供と一緒にいるのが楽しいから、子供に構っているのではなく、マトモな人間から排除されているから、自分の子供しか相手になってくれないというだけ。
だからこそ、虐待の疑いで施設に保護された自分の子供を必死に取り返そうとする。そして、取り返して、やっぱり虐待する。

あるいは、以前にイラクでつかまったボランティアがいましたが、あんな人間たちと一緒にいたいと思うマトモな人はいませんよ。結局は、日本のマトモな人たちから排除されて、イラクに逃げ出すことになる。そうしてお金をばら撒いて、チヤホヤされていい気になっている始末。
あのようなボランティアも善意があるからというわけではなく、マトモな人間から排除されているから、イラクの人間くらいしか相手になってくれないと見た方が自然でしょ?

ただ、一般の人は、そんな二重否定なり二重排除と、肯定の区別がつきにくい。
ボランティアや市民運動の活動家が語る通りのいい言葉に接して、その人たちは肯定的な精神を持っていると誤解してしまう。
しかし、現実的に見ると、ボランティアや市民運動は敵についての話題には熱心だけど、味方についての話題ができる人ではないでしょ?敵をたたく・・・そんな二重否定的な人たちでしょ?しかし、二重否定と肯定は、一見は似ていたりするもの。ただ、その中身は大きく違っているわけです。

その事例として、日本の捕鯨の問題があります。
ある人から、日本の捕鯨について、質問があって、その問題を考えるには、この二重否定と肯定の違いに注意する必要がある・・・私はそのように説明いたしました。
一般の日本人は、捕鯨などには関心がない。しかし、グリーンピースがやっているような、「過激な捕鯨反対運動」には反対である・・・そんなものでしょ?
捕鯨反対運動には反対であっても、「捕鯨に賛成しているか?」というと全く別問題ですよ。
そもそも鯨の肉なんて、ここ20年以内で食べたことのある人なんて、0.1%以下ですよ。
捕鯨については、二重否定であっても、決して肯定ではない。
このように説明されると、二重否定と肯定には大きな違いがあることが分かるでしょ?
しかし、こんなに親切に?説明してくれる人ばかりではないんだから、多くのケースで誤解してしまう。

しかし、否定形が充満しているダメダメ家庭の周囲は、対象と関わる姿勢を見ると、ほとんどが二重否定的なものであり、その結び付きは二重排除となっている。それに着目し注意し警戒しなければ、結局はドッカーンとなってしまう。それこそ児童虐待なんて、そんな事例ばかりでしょ?

周囲から排除されているから、自分の意向が通用する対象にすがっているだけで、相手のキャラクターを肯定しているわけではない。当人がそんな人間なので、周囲の人間も、「他に相手になってくれない」同類の人間が吹き溜まってしまう。
家庭内暴力が起こっている状況において、「そもそも、どうして、そんな人間と結婚したの?」と質問しないようなレヴェルの人間が集まって結婚するから、実際に修羅場になってしまう。そして、そんなダメダメな環境から脱出しようとする人がいると、「ここから出て行くと、よくないことが起るぞ!」と二重否定の物言いで妨害する。
ダメダメな人間は、周囲のマトモな人から排除されているが故に、目の前にあるものにすがりついてしまうわけです。

よく似た例だと、長野県のリニア新幹線の蛇行問題があって、長野県がJRにイチャモンを付けていたことがあります。そのリニア新幹線の問題はともかく、そんなイチャモンばかりの長野県に工場を建てようと考える経営者はいないし、そんなところで子供を育てようとするマトモな親はいませんよ。周囲から排除されるから、目の前のJRにますますしがみついてしまう。そんな姿が、周囲から嘲笑や警戒を受けるから、被害者意識が燃え上がり、ますます意固地になってしまう。

あるいは、以前に日教組が、ホテルの使用の問題で裁判をしてしましたが、裁判以外の方法で対処する能力のない集団と今後やり取りをしていこうとするマトモなところはありませんよ。
そうやって排除されるから、ますます目の前のものにすがりついてしまう。

そんな長野県や日教組の姿は、ドメスティック・ヴァイオレンスだけでなく、ストーカーにも見られるものでしょ?ダメダメ家庭においても、まさにそんな感じになっているわけです。
そして、「自分たちは周囲から理解されない。」という感情・・・いわば疎外感が増大していくことになる。
そのような疎外感自体は、しょうがないでしょう。
実際にダメダメ家庭は、周囲のマトモ家庭とは違っているんですからね。
それを認めるしかない。

周囲からの疎外感を自覚したのなら、逆に言うと、周囲の人に期待する前に、自分自身に立ち返ればいいわけでしょ?
周囲の人に対して「これだけは分かってほしい!」と考えていることは何だろうか?
とか、
「自分の存在意義は何だろうか?」
「自分としては、結局は、どうしたいのか?」
そのような問いかけに対する回答は、自分自身にしかないわけでしょ?

あるいは、「自分の疎外感そのものを表現したい!」と思うことだってあるでしょう。
それこそフランツ・カフカのように文学作品にするのもいいんじゃないの?
まあ、カフカのように後世に残る作品にすることは誰だってできるとは言えないでしょう。しかし、疎外感そのものを自覚して、自分を考え直してみる・・・それくらいは誰だってできるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、何よりも自分自身から逃避している。
何よりも、自分自身からの疎外の状態にいる。
自分自身から疎外の状況なので、自分自身が持つ疎外感が自覚できない。

結局は、自分と同じような「感覚」を持っている人間と、なんとなく一緒に行動することになる。このようなことは、以前に「疎外感の共有」というお題で配信しております。
その折にも書きましたが、「疎外感の共有」という言葉は、まずもって言語自体が矛盾でしょ?感覚が共有できれば、それは疎外ではない。
しかし、ダメダメ人間は、そんなことくらいしか共有できるものがない。
しかし、疎外感の共有という状態が、言語的に矛盾であるように、そもそもそんな状態は、やっぱり矛盾している。
だから、そんな不安定な状態を超えて、ダメダメがスピードアップしてスパイラル進行することになる。

単なる疎外感を超えて、もっと強い感情・・・いわば敵対心に進化してしまう。
周囲の人間とコミュニケートできない親なんだから、当然のこととして、子供にすがることになる。自分の子供以外の人間は自分の相手になってくれない。
自分の相手となってくれる自分の子供が、周囲と上手にコミュニケートしたら、ダメダメな親なんて相手にはしないでしょ?だから、そんな親は、自分の子供が周囲に敵対心を持つように育てる。

周囲の人間に対して敵対心なんて持っていたら、子供だって、自然にコミュニケートすることなんて出来ませんよ。だから、そんな家庭で育った子供も、親譲りの会話不全と敵対心を持つようになってしまう。そうなると、会話不全同士、そして周囲に敵対心を持つもの同士で、「楽しい」家族となる。
ボクシングの亀田親子って、典型的にこのパターンでしょ?
周囲から排除されるので、周囲に対して敵対心を持ち、敵対心を持っているが故に、ますます排除されるという典型的なスパイラル進行となってしまう。

社会を恨んでいるので、その社会の一員に対しては、ただそれだけで、敵対するようになってしまう。不必要に攻撃的になってしまうし、何かをするにせよ、「ごまかし」が多くなる。
「オレたちは被害者なんだから、他の人間には何をやってもいいんだ!」
そのように考えるわけですし、そのような嫌がらせやごまかしをすることによって、自分が被害者であることを自分に確認することになる。
それに、そんなことをする人間の周囲は似たもの同士であることも多く、周囲からアドヴァイスが来ることもない。むしろ、「そうだ!そうだ!オレたちは社会の連中に何をやってもいいんだ!」と盛り上がってしまう。

敵対心だけがアイデンティティで、それだけで結びついているので、敵対心を捨てることはできない。
それこそボクシングの亀田父親に対して「自分の子供をあんなに嫌われ者にして、何が楽しいの?」と思う人も多いでしょうけど、嫌われ者同士で家族で仲良くやりたい・・・そのように考えているわけです。

亀田親子は、東京にいるのに、関西弁ですよね?
いわば「周囲に敵対する自分たち」「周囲から疎外され、排除されている自分たち」というポジションを、関西弁を使うことによって自己確認していると言えるでしょう。こうなると関西弁が、心の汚さの象徴となっている。
敵対心がアイデンティティ化しているので、相手に分かりやすく話そうという意識もない。だから、ますます周囲からの視線も厳しくなる。

普段から敵対心を持っていて、周囲に対する警戒心が強いので、自意識過剰気味になって、「モンスター○○」になったりして、騒動を起こすことになる。
人から道を聞かれただけで、「ストーカーに会った!」と大騒ぎする人は、逆に言うと、マトモなオトコが寄ってくるわけがないでしょ?だからトラブルが実際に発生してしまう。
自意識過剰な人ほど、実際にトラブルになり、ますます被害を主張することになる。

被害ばかりを語っていて、その被害そのものが成果となり、被害者としての立ち位置がアイデンティティとなってしまう。
だからこそ、その被害者としてのアイデンティティを認めない人間とはやり取りができない。
しかし、被害者としてのアイデンティティを認め合うことは、所詮は共通の敵による結び付きだったり、傷のなめ合いにすぎないもの。
そんな気色悪いことをやっているので、周囲のマトモな人は、そんな人たちをますます避けるようになってしまう。
避けられるので、目の前のなめ合いにますますすがりつく。
だからこそ、ドメスティック・ヴァイオレンスにもなるわけですし、児童虐待も起るわけです。

周囲から排除されるのはともかく、その時点で、自身に立ち返ること・・・それができればいいわけですが、まずもって自分自身から逃避しているダメダメ人間は、そのような立ち帰る地点がない。だからこそ、周囲に期待して、「裏切られた!」と大騒ぎして、逆に攻撃的になってしまい、ますます排除されてしまうものなんですね。