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カテゴリー ダメダメ家庭の親のキャラクター
配信日 09年12月4日 (10年8月10日 記述を追加,11年2月7日 一部分を分離))
タイトル 身近逃避
追記 元の文章から「外弁慶」という部分を分離独立 (11年2月7日)
ダメダメな人間は自分自身から逃避している。
このことは、特に最近になって頻繁に書いております。
そして、自分自身から目を逸らすために、積極的に行動したりすることになる。

それこそ、ボランティア活動に入れ込み、困難を抱えている人に接することによって、「ああ!下には下があるものだ!」「まったく・・・困った時代だなぁ・・・」「こんな不幸な人たちがいるのは、あの○○のせいだ!」と、訳知り顔で語り合うことになる。

それはいいとして、当人自身は何も問題を抱えていないの?まずは、自分自身が抱えている問題に取り組まなくてもいいの?
逆に言うと、自分自身の問題から逃避するために、他人の問題に首を突っ込むわけです。
しかし、自分自身の問題に真摯に取り組む意欲や覚悟のない人間が、他者の問題を解決できるわけがないでしょ?
しかし、自分自身の問題は「ああ!もうメンドウだ!や〜めた!」などと放り投げることができないがゆえに、取り組むことが怖い。だから、都合が悪くなったら、いつだって逃げることができる、遠くのものに関心を持ち、そこに手をつけることになる。

そのような自己逃避の人間は、自分自身からだけでなく、その延長として身近なものからの逃避もやっているものなんですね。
自分自身からちょっと離れた遠くのものに配慮して、身近なものに配慮しない自分をごまかす。

以前に、メールマガジンにおいて、このパターンとは、形の上では、まったく逆の事例を取り上げたことがあります。
「遠くに甘え、近くにはいい子」というお題です。
ダメダメな人は、減点法の精神であって、減点のない「いい子ちゃん」になりたがる。だから、近くの人間に対して本音を言うことができない。近くの人間には「よそ行き」の「いい子ちゃん」のスタイルで、遠くに対しては、「困った!困った!」とグチグチと本音を言うことになる。

今回の文章で考える「身近逃避」は、その「遠くに甘え、近くにはいい子」状態とは見かけの上では違っている面もあります。今回の「身近逃避」においては、身近なものを放っておいて、遠くのものに配慮するんだから、この場合には、遠くの存在にグチグチというわけではない。
しかし、見かけの上では違っていても、自分にとって最も身近な問題である自分自身から逃避して、そして身近な人とのやり取りから逃避していることは共通なんですね。
「で、結局は、自分はどうしたいのか?」そんな一番根源的で、一番簡単な質問に答えられない。そんな人は、自分との関わりが存在しない、つまり「やり取りをしなくても済む」、別の言い方をすると、相手からの反応が返ってこない遠くの存在に目を向けることになる。
しかし、身近な存在を放っておいて、遠くの存在に真っ先に配慮するような浮ついた精神では、その「遠くの存在」の方々にしてみても、迷惑ですよ。しかし、それこそボランティアなんて、そんな感じになっているでしょ?

あまりに一般論だと分かりにくいので、ここで具体例を挙げてみましょう。
このメールマガジンの購読者は、基本的には日本人でしょう。
だったら、日本人としての、基本的な常識やマナーはある程度は必要でしょ?

日本人は、食事する時には、お箸を使いますよね?
ダメダメ家庭の子供は、お箸を上手に使えないケースが多い。このことはかなり以前に書いております。
「お箸が上手に使えなくても、フランス料理のテーブルマナーが完璧にできるからいいんだ!」
もし、そのような主張があったとしたら?

その主張がフランス在住のフランス人だったら分かりますよ。しかし、日本在住の日本人がそんなことを言ったらヘンでしょ?
もうすぐフランスに移住する予定だから・・・と言うのなら、そんな考えもあるでしょう。
しかし、日本在住の日本人が、「お箸よりも、ナイフとフォーク」と言うわけには行きませんよね?自分の子供に対して、そんな教育をした親について考えるものでしょ?
「ナイフとフォークが上手に使えなくても、お箸が完璧に使える。」方がずっとマトモですよ。そんなことはヨーロッパ人でも考えること。「テーブルマナーができない日本人と、お箸を使えない日本人とで、どっちをマトモと思うのか?」ヨーロッパ人に聞いてみなさいな。
しかし、お箸の使い方は親が教える必要がある。しかし、ナイフとフォークだったら、親が教えなくてもいい。だからこそ、ダメダメな親は、ナイフとフォークの問題を持ち出してくることになる。

言語でもそうでしょ?
将来移住するつもりがあるのなら、日本語よりも、外国語を重視するのならありでしょう。
しかし、母国語での会話ができない人が、外国語の会話ができるわけがありませんよ。だって、言語における文法なりボキャブラリーは何とかなっても、「相手の話を真摯に聞き」「自分の考えを相手にわかりやすく伝える」・・・そんな精神や態度がないと会話になりませんよ。
しかし、自分自身から逃避してしまうと、もっとも得意な言語で会話を成立させることから逃避してしまう。あえてアチコチに手を出して、「今は・・・まだ勉強の途中だから・・・」と逃げを打つ。

得意な言語で、身近な人とやり取りができるようになったら、次に2番目に得意な言語で、もうちょっと遠くの人とやり取りをすればいいだけでしょ?
言葉は「学ぶ」ことができても、会話は実際の体験を経て習得していくものでしょ?
つまり、頻繁に会話できる身近な言語での会話のレヴェルが低ければ、その他の言語が話せても、それはテストの点でいい点をとることができるというだけで、コミュニケーションの道具としては機能していませんよ。
「外国に済むあの○○さんとやり取りをしたいから・・・」という希望はいいとして、最初から遠くの存在にターゲットを向けても、会話になりませんよ。
しかし、母国語だったら、親が子供に教える必要がある。しかし、外国語だったら教員の仕事になってしまう。だからダメダメな親には、外国語の方がありがたい。
しかし、そんな人は、そのターゲットとしている外国の人でも困ってしまうのでは?

身近な日本人よりも、遠くの外国人に目を向けるとなると、名前の問題もありますよね?この問題については、たまに取り上げたりしております。
将来、外国の人にも覚えやすいように・・・などと言う理由で外国風の名前をつける親がいたりしますが・・・
「じゃあ、身近な日本人に奇異に思われてもいいの?」
そんな疑問が出てくるでしょ?
外国ではヘンテコな意味になってしまうから、その面で配慮した・・・まあ、それくらいなら分かりますが、最初から外国にターゲットを向けた名前の子供が、ちゃんと会話できる子供である例って、皆さんは知っていますか?

そんなにその外国がいいのなら、さっさと移住すればいいだけ。
しかし、身近なものから逃避する精神なんだから、その外国を身近な存在にする発想はない。
名前だと、「あと20年後には、こんな名前も『ふつう』になっているのでは・・・」などの時代先取り的な観点で、遠くを重視するパターンの意見もあったりしますが、まずは現在の時代を考える必要があるでしょ?
身近なものを放っておいて、遠くの時代に目を向ける人の子供なんて、たとえ、実際にその名前が20年後にポピュラーになっていたとしても、マトモには育っていませんよ。

あるいは、名前だと、名前に使われる文字の問題もそんな感じでしょ?
普段使っている身近な漢字を使うのか?それとも、普段使わないような漢字を使うのか?
たとえば、名前に使う漢字だったら、先祖伝来の漢字があるパターンだったら、一般的には身近ではなくても、その人にとっては身近と言えるでしょう。しかし、一般的にも、あるいはその人自身にとっても、「えっ?こんな漢字を普段も使っているの?」と思わされる漢字を使った名前ってあったりするでしょ?

そんな「なじみのない」漢字を使う人は、結局は、身近なものから逃避している精神なんですね。まさに自己逃避であり、そのまま身近逃避となっているわけです。
だから、そんな漢字を名前に使われてしまった側の子供から、「ねぇ?ボクの名前に使っている○という漢字は、どんな意味なの?」などと聞かれても、何も答えられない。

ダメダメ家庭の人間は、自分の周囲については、「知れば知るほどイヤになる。」という原体験をしてきている。それこそ、自分の名前の由来を親に聞いても、まさに「て・き・と・うに付けた。」と言われるだけ。そんな親の話なんて『ああ!聞かなきゃよかった!』と思わされるだけ。
だから自分の精神を安定させるためには、「知らない」ことが一番となる。
何かに関心を持つにせよ、自分に実感がない分野に関心を持ったりするもの。
それこそトルストイ描くアンナ・カレーニナなんて、その典型と言えます。

そんな身近逃避の人は、何かトラブルがあっても、その原因を外に求めるようになる。
そして、配慮していたはずの、その『遠くの存在』を犯人認定するようになる。
それこそ「あ〜あ、悪い時代だなぁ・・・」とグチっているだけ。
逆に言えば、遠くのものを犯人認定しておけば、自分では何も対処できないわけだから、恨んでいればいいだけなので、精神的にラクと言える。それこそ、悪い時代をどうすれいいの?一人の人間として何もしようがないでしょ?結局は、当人として何も対処せず、だからこそダメダメが進行する一方。

それこそイエスさんだって言っているじゃないですか?
「汝の隣人を愛せよ!」ってね。
身近な存在を愛せない人間が、遠くの存在を愛せるわけがないでしょ?

ダメダメな親は、身近な問題から目をそらす。
自分の横で自分の子供が困っていても知らん顔。
子供が困っていても、子供の話を聞かずに、権威者の見解だけをありがたがる。
子供が困っていても、子供の話を聞かずに、学校の側の話ばかりを聞く。

母国語で十分な会話ができないのに、外国に目を向ける。
自分自身について考えることから逃避して、外国に「自分探し」に出かける。
日本人の話を聞かないのに、外国人からの評価ばかりを気にする。
自分や自分の子供を助ける能力がないのに、ボランティアをして人助け。
そして、集団を組織して、「仕切ろう」としたりするが、自分自身としてはしたいことがない。

そんな人は、自分自身で考えたり、相手とのやり取りが心理的に怖い。一方通行のやり取りで済ませたいと思っている。自分で考えたくないので、「正しい考えを学ぶ。」というスタイルになったりする。、だから、遠くの人の意向は、意外にもすんなり聞いてしまう。
遠くの人からの意向を実現させるために、身近な人の意向を平気で無視する。
そうやって、自分を「いい子」と見せようとする。
しかし、そのひずみは、当然のこととして、その人の身近な存在が背負うことになる。

それこそ政治の世界で、日本政府のことはまったく信じないのに、北朝鮮のいうことは疑いもなく信じてしまう人もいたりしますよね?「拉致問題は日本政府のデッチ上げだ!」などと真顔で主張したりした人もいました。日本政府に多大の問題があることは確かでしょうが、あんなマスゲームをやって喜んでいる北朝鮮の連中と比較して、どっちがマトモなのかなんて議論の余地はないでしょ?
しかし、自分自身の問題や、相手とのやり取りから逃避したい抑圧的な人間は、自分と関わりのない遠くのものへの配慮という形を使って、自分の身近なものへの配慮から逃避してしまう。

表層としてはヴァリエーションがありますが、自分自身なり自分に身近なものからの逃避という深層は共通しているんですね。
そういう人は、そういう名前を持ち、そのように行動しているものなんですよ。

そんな人は、トラブルになって相談という場を持っても、まさに逃避の精神で相談してくるもの。

質問なり、相談なりをして、返ってくる回答のレヴェルは、質問者や相談者が、内心では求めていたレヴェルになってしまいます。
「ああ!アナタって、なんてかわいそうなの?!」という同情を求めて相談を持ちかければ、そのような相談の表現やスタイルを取るもの。
質問の言葉に不適切な表現があるとかの問題ではありません。
そもそも相談を持ちかける相手を選択する際に、ダメダメな人は、「自分に対し厳しいことを言わない人」という選択基準であることが多かったりする。

相談によって、事態を解決するのではなく、ただ、自分が被害者と認定されればそれでいい。そんな人は、まさに逃避の精神で、どうでもいいことに手を出したり、背伸びした目標を語ったりするもの。
アンナ・カレーニナがするように、それが達成できなくても、自分の身が痛まない・・・そんなものばかりに手をつける。しかし、心が痛むものに取り組まないと、何も得られないでしょ?
そして、自分の心が痛むものは、自分自身の目の前にあるものなんですよ。
身近なものから逃避するダメダメ人間は、その心の痛みから、サッサと逃げてしまう。
だからこそ、その人の身近の人間が、心痛む思いをすることになってしまうわけです。

(終了)
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発信後記

以前にチャレンジ精神についての文章において、チャレンジを阻害する要因として、「やってもムダだ!」という単純否定のパターン以外に、「やらなくてもすばらしい!」という超肯定のパターンがあることについて書きました。

周囲の人間への配慮においても、うーんと遠くのものに配慮するという超配慮のパターンを取ることで、近くのものへの配慮から逃避するわけです。形の上では配慮していることになるので、そんな人は「いい人」と言われたりするものですが、結局は、「やり取りが発生してしまう」身近なものから逃避しているわけです。

1年後を無視して、100年後を語ったり、
隣の人を無視して、別の国の人に配慮したりすることになる。

もうちょっとスケールが小さくなると、
自分の子供は無視しているのに、ボランティアをやったりする例もポピュラーでしょ?

様々なパターンはありますが、「やり取りが発生」する相手に対して配慮することが、心理的に難しいわけ。

ちなみに、現在の日本の首相の鳩山さんが、まさに絵に描いたようにこのパターンですが・・・
今回の文章は、そのドラフトが1年半以上前に、もう上がっていましたので、鳩山さんの事例を説明するためのものではありません。
ただ、ダメダメというのは、共通性が高いわけです。だって現実逃避なんだから、その現実によってのヴァリエーションは起こってきませんから、実に似ているものなんですよ。
実際に、鳩山さんの流れは、トルストイ描くアンナ・カレーニナとそっくりですからね。
最後も同じになるのかは・・・ちょっとわかりませんが・・・
R.11/2/7