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カテゴリー ダメダメ家庭はいつも否定形
配信日 09年12月25日 (11年1月2日 一部分を分離)
タイトル 超肯定による否定
 追記  メールマガジン配信時の文章から「雰囲気への依存」を分離独立。(11年1月2日)
ちょっと前にチャレンジ精神というお題の文章を配信いたしました。その文章において、かなり以前に配信した文章である「人間は生きているだけですばらしい。」なる言葉にも言及しております。

ダメダメ家庭の親は、「生きているだけですばらしい。」という美辞麗句を掲げることで、子供のチャレンジ精神を否定してしまう。だって、何もせず、ボケーと生きているだけですばらしいんだから、あえてチャレンジする必要もありませんし、子供がチャレンジして失敗したら、「余計なことをして、親に面倒をかける。」ことになるでしょ?
だから、そんな美辞麗句を堂々と言い放つ親の子供は登校拒否になってしまったりする。

「チャレンジなんてしなくていい!」
そんな直接的な否定の物言いもあるわけですが、問答無用の立派な大原則を掲げたり、もっと遠くのものを超肯定することで、眼前の現実を否定するパターンもあるわけです。

そんなパターンの伝統的な例だと、これも以前にこのメールマガジンで取り上げておりますが、過剰な信心深さのパターンです。
目の前の子供がいくら困っていていても、神様一筋に徹してしまう。子供が親に話しかけても無視。
すべては神の思し召し・・・
ああ!神様!このワタシに平安を!
・・・そんな親の後姿を見守る子供・・・それがダメダメ家庭の信心深さ。
神様を絶対的に肯定することで、自分の子供の現実の困りごとを否定するわけです。

あるいは、神様ではなく、ホトケ様のパターンもありますよね?
死後の幸福のために、信女とか居士とかの称号を買うのは熱心だけど、子供の話は聞かないような信心深い人。いわば、死後の幸福を超肯定することで、眼前の現実を否定してしまっている。
自分自身との対話の一助として、宗教心を持つのもいいでしょう。
しかし、目の前の現実を無視したり、逃避するための方法論として、宗教が活用されてしまうのも、ダメダメ家庭の現実なんですね。

そんな人は、はるか遠くのものに自分の善意を向け、周囲に対しそれを語ることになる。
それこそ、「自分たちだけが幸せになっていいのか?みんなが幸せになることを考えよう!」そんなご立派な主張をすることになる。
「アフリカでは、食べるものも食べられない子供もいるんだぞ!」

まあ、一応は食べることができている、目の前の子供としては、そう言われてしまうと、何も言い返せない。しかし、そんな「反論しない」子供は、そんなに幸せなの?「自分たち『だけ』が幸せになっていいのか?」という問いかけはともかく、目の前の子供はそんなに幸せなの?しかし、ダメダメな親は「オマエは自分は幸せと思え!」と子供に厳命するだけで、子供の意向などは無視。そんな状態なんだから子供だって幸福のわけがないじゃないの?目の前の子供を幸せにできない親が、アフリカの子供を幸せにできるの?そんなにアフリカの子供の食料が心配だったら、自分自身は子供なんて作らずに、その養育費をアフリカの子供たちに回した方がマトモですよ。そんなことは、まさに目の前の子供がそう思っているんですからね。

そんな親は、アフリカの子供たちの存在を超肯定することで、自分の目の前にいる現実の子供の存在を無視している。直接的に「オマエなんか生きている価値がない!」と自分の子供に対して言い放つと「なんてヒドイ親なんだ!」になってしまう。しかし、見てもいないアフリカの子供への配慮という形で、目の前の子供を無視すれば、周囲の人から「なんて博愛精神にあふれた人なんだ!」「すばらしい友愛精神だ!」と絶賛されたりするでしょ?しかし、その心理としては同じなんですね。

この手の「見えないものを超肯定」というスタイルは、それこそ100年後の未来ばかりを語って、明日のことを無視するという形の、時間軸でのパターンもあります。
あるいは、神様の親戚?で、オカルト掛かって守護霊とかの存在?が出てくるパターンもあるでしょ?
『守護霊のせいで、うんたらかんたら・・・』そんな話は一生懸命に語る。
『だから、今のウチの家庭はうまくいかないのかなぁ・・・』

そんな話を聞くと、「守護霊の話を聞くよりも、まずは自分の子供の話を聞きなさいよ!」「自分の子供の話も聞かないで、『守護霊のせいで、ウチの家庭はうまく行っていない・・・』も何もないじゃん?」とビックリしてしまう。

何も近視眼になる必要はないわけですが、目の前の現実を無視する人は、100年後の現実もどのみち無視しているもの。往々にして、そんな人は、眼前の存在に対しては、べき論で問答無用で説教するだけ・・・そんなものでしょ?人間の現実なんて、100年後も今も変わりませんよ。実際に、古典文学で描写されている昔の人々の姿と現在の我々の姿なんて、ほとんど一緒でしょ?

以前にも書きましたが、身近なものへの配慮だったら、会話などのやり取りが発生する。身近な存在だったら、相手の意向も現実的に聞くことができる。逆に言うと、聞かないといけない。それに対し、100年後の人やアフリカの子供の意向なんて、聞きたくても聞けないし、だから聞く必要がないので一方通行でいい。守護霊さんとか神様だったら、もっと一方通行でしょ?

逆に言うと、人とのやり取りが怖い抑圧的な人間は、一方通行で済むスタイルに逃げこんでしまう。権威者の話を「学ぶ」というスタイルを求め、当事者の話を聞くというスタイルから逃避してしまう。当事者の話を聞き、それを踏まえて、自分で考えることが怖い。
本来なら、当事者の話を聞いて、自分なりに考え、対処をする・・・そして、それぞれ、自分でチェックして、自分のアタマの中で検証していく・・・そんなものでしょ?それは家庭問題に限らず、経済でも、科学でも同じですよ。

しかし、当事者の話を聞き、自分で考えることが怖い人間は、検証できない領域に逃げ込んでしまう。検証できないんだから、逆に言うと、自分で考えなくていい。
だから、「学ぶ」とか「信じる」の領域を求めることになる。
そんなことだから、新興宗教に頼ってしまう。新興宗教だったら、「学ぶ」と「信じる」だけしていればよくて、つまり、自分の目で見て、自分のアタマで「考える」ことから解放されるでしょ?

以前のオウム真理教事件で、信者に高学歴者が多かったことは話題になりましたね?
「あんなに頭のいい人が、何故にオウムなんかに・・・」と話題になったでしょ?
しかし、ダメダメ家庭の頭のいい子供は、あのような新興宗教に入信する事例が多くあります。
だって、頭のいい人間は記憶力もいいし、論理展開力も優れているからなんです。
だからオウムのような新興宗教に惹かれてしまう。

「えっ?逆じゃないの?」と思われるでしょ?

しかし、頭がよくて、記憶力がよくて、論理の筋道を的確に追うことができる人間だけが、見出す矛盾と言うものがあるものですよ。オウム真理教にはそのような矛盾がないわけです。

例えば記憶力がいいと、このようなことが発生します。
親「あ〜あ・・・おじいさんの遺産は、ほとんど貰えそうにないわ!」
子供『えっ?だって、お母さん・・・おじいさんの遺産なんていらない、って、10年前は言っていて、親戚の人にもそう言っていたじゃないの?』
親「ワタシ・・・そんなこと言ってた?」
子供『あの時は、ボクが小学校1年だから10年前、あの居間でそのように言っていたよ。たしか夏のことだった。』
親「そうかなぁ・・・覚えてないなぁ・・・」

このような会話があると、子供は親を信用しなくなりますよね?
まあ、たまたまの親の度忘れもあるでしょうが、同じようなことが何回もあると、子供は親を全く当てにしなくなりますよね?
これが子供の記憶力が親と同じレヴェルであれば全く問題ない。双方ボンクラ同士で、問題なくやれる。しかし、一方だけ記憶力がいいと、うまく行かない。
子供としてはヘタに親を追及すると、逆に「そんな昔のこと、いい加減なことを言うな!」などと言われてしまい、どうしてもストレスが溜まることになる。
このように、子供の記憶力がいいと、親のいい加減さとか、能力のなさが分かってしまうことになる。その分、子供の側が家庭内で気を使うことになるわけです。

あるいは、記憶力とは違った話で、論理や心理の整合性の面でも同じようなことが生じます。

前の晩に、父親と母親が子供の前で言い争いをしていて、次の朝、何もなかったように夫婦で楽しく会話していると、ちょっと混乱しますよね?
夫婦同格でのケンカならいざ知らず、夫が一方的に罵倒していたような場合もあります。そのような後でも、母親が平然とした表情をしていたりする。
例えば、こんな流れを想定していただければ結構です。
夫「全くこのバカ女は・・・オマエの頭は小学生なみだなぁ・・・」
妻『・・・』
そして次の朝、妻は夫に・・・『あらっ、おはようございます。』と型どおりの笑顔。

そのようなシーンをいつも見ていたら、「人間の心の痛みの分からない」人間になるのは明白ですよ。子供としては自分の前に実際にいる親から、「人間の心の痛み」の感覚を習得するわけでしょ?しかし、目の前の人間が、心がカラッポの、まさにマネキンのような人間なんだから、人の心なんて、習得できませんよ。

頭のいい人間や繊細な人間は、矛盾を、より多く感じてしまうわけです。
ダメダメ家庭と言っても、「犬やフェレットにとっては問題のない家庭であるかもしれませんが、人間を育てるには問題がある。」と言ったレヴェルもありますよね?
ですから、人間においても、平均的なレヴェルの子供を育てるには問題がない家庭でも、頭のいい子供を育てるには問題がある場合もあるわけです。
頭のいい子供には、それ相応の家庭環境も必要なんですね。
その水準に達しないと、その子供にとってはやっぱり機能不全なダメダメ家庭となってしまう。機能不全と言っても、「その子供」にとっての機能不全というパターンもあるわけです。

だからこそ「オウム真理教」が有効になってしまう。
オウム真理教で「解脱するぞ!」と言った掛け声とか「訳分からない座禅?」とか・・・
色々とあったようですが・・・
しかし「解脱するぞ!」と、ただ単純に修行している場合には、論理に矛盾が生じることはありませんよね?
だって論理そのものがないんですから。
実に単純なモットーの繰り返しであるだけでしょ?
あの麻原氏の御説・・・論理に矛盾はないでしょ?
だって、論理そのものがないんだから、矛盾も発生しようがない。

ゆえに、様々な矛盾と向かい合うことが多かった、頭のいい、そして「論理的思考力の高い」ダメダメ家庭出身者には、ある意味において「安心」できる世界となる。自分なりに色々と考えれば、不都合な点も見つかるでしょうが、考えなくてもいい、考えようがない、ただ従っていればいい・・・そんな状況だと、自分で考え出すと、矛盾が見つかってしまい、精神的なストレスに直面するという原体験を持っているものからすると安心できることになる。
これがその宗教に、ヘタに教義があったりすると、その教義の論理矛盾や現実との齟齬と向かい合わなければならなくなる。バカみたいな繰り返しだからこそ安心できるわけです。

「オウムのようなバカみたいな集団に、あんな頭のいい人が何故に?」
このような疑問はある意味もっともなことですが、バカに徹してくれる集団が作り出す安心感というものもあるわけです。自分で考えると矛盾と直面してスグにストレスを感じてしまう・・・そんな原体験から解放してくれるわけです。
頭のいいダメダメ家庭出身者は、そのような「矛盾なき単純な世界」への憧れが強い。
身近なものを見ることから逃避したり、考えることから逃避するためには、単純な教説に逃げ込むのも効果的となる。単純な教義を超肯定することで、目の前の現実から目をそらすわけです。

サスガにオウム真理教くらいまでのレヴェルに行ってしまうとシャレにならない。
しかし、そこまで行かないレヴェルのオカルトもあるでしょ?
それこそ前に書いた守護霊とか、あるいは前世からの因縁とか・・・
ネタでやっているんだったらともかく、マジメに言っている人もいるでしょ?

前世も守護霊もいいわけですし、私としては特に否定しているわけではありませんよ。ただ、まずは目の前の自分の子供を見て、話をするのが先でしょ?しかし、現実逃避的なダメダメ人間は、前世とか守護霊を持ち出すことで、目の前の子供は無視してしまう。

現実を直視しないで済む状態を求め、考えなくても済む状態を求める。
現実に即した思考をするのではなく、「な〜んとなく」「それっぽい」の雰囲気が重視されるので、そんな人は、背伸びした目標を掲げることになる。
それこそ、受験する学校も「ありえない」学校だったりする。
背伸びした目標を掲げることで、現実逃避するわけです。
「ボクはこんな学校には進学するのはイヤだ!」というスタイルの物言いだと、直接的な否定形といえますが、岡山駅の突き落とし事件のように「ボクは京都大学の医学部に進学するんだ!」という形なら、文法的には肯定形の物言いでしょ?しかし、心理的には否定形になっているわけです。高らかな目標を語ることで、ちっぽけな自分自身や、自分の眼前にある現実を直視することを否定しているわけです。

その手の人は、現実離れした背伸びという形で現実逃避する。そんなパターンだと、「ボクも使命感を持って生きて、理想を持っていきたい!」なんて勇ましいことを言ったりするもの。しかし、そんな高邁な言葉を語る人は、文章を書かせるとメチャクチャだったりする。だから私としては『理想や使命感もいいけど、まずは、ちゃんとした文章を書くようにしましょうね。』と言うしかない。

そんな人は使命という高邁なものを肯定することで、地道な問題から逃避している。
しかし、曲がりなりにも肯定形で語っているだけに、周囲の人はそれが心理的には否定形であることが認識できない。その人の周囲の人間が認識できないのはともかく、当人自身でも認識できていないわけです。と言うよりも、自分自身を騙すために、そんな超肯定のスタイルの物言いとなっている。

形式や文法的には、肯定形となっていても、その肯定の対象が、検証不可能なり実現不可能なものは、心理的には否定形なんですね。不可能なものを肯定することで、可能なものを否定するわけです。そして、その自分自身の否定形の心理を見ないように、反論されにくい高邁な理想なり、あるいは問題点を指摘されにくいあやふやな雰囲気を肯定する。

思考不可能、検証不可能、あるいは達成不可能なものを超肯定する。それもいわば否定形でしょ?
しかし、それが心理的な否定形であることが周囲だけでなく、本人もわからない。
だからこそ、自分自身から逃避したい、あるいは、自分を騙したい抑圧的な人間は、そんなことをよくやっているものなんですよ。

(終了)
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発信後記

ダメダメ人間は、眼前の現実から逃避するために、はるかかなたの問題を議論したがる。
今回の文章のように、遠方の存在を超肯定することによって、眼前の現実を否定するパターン以外にも、自分の家族の問題から逃避して、はるかかなたの存在を敵認定するするパターンもあり、これについては以前に配信しております。

自分の父親の問題を、男性全体の問題にして男性全体を攻撃したり、官僚制に投影して、官僚を攻撃するわけ。官僚制の問題を熱く語ることによって、自分の父親の問題を無視するわけ。しかし、結局は父親のイメージの投影なんだから、感情的な反発をするだけ。
結局はその無理を、劇場的な行為によって、強引に自分に納得させることになる。
厚生省事務次官OBの殺害事件なんて、まさにその典型。

超肯定による否定だったり、超否定による逃避だったり・・・パターンにはヴァリエーションがあっても、結局は現実逃避で、自己逃避なんですね。
R.11/1/2