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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 10年1月20日 (11年1月3日 一部分を分離独立)
タイトル 最後の一線
追記  メールマガジン配信時の文章から「はるか戦場を離れて」を分離 (11年1月3日)
このメールマガジンで、たびたび「逆上メール」について触れたりしております。
まあ、実際にいただけるんだから、ネタとして活用しないとね。
しかし、そんな逆上メールを、この私に送りつけたところで、送った当人が安っぽくなるだけでしょ?
私の文章を読んで逆上するくらいならアリでしょう。
その逆上を踏まえて、自分なりに判断すればいいだけ。
購読解除をするにせよ、あるいは、緻密な反論の文章をまとめて、この私の文章の問題点を指摘するのもいいでしょう。

しかし、ダメダメ人間は自己逃避であって、自分で考えることから逃避している。
そして、自分のアタマの中で、その課題を持ち続けるのはイヤ。と言うことで、逆上メールを送りつけて、「これで解決!」と勝手に認定して、結局はサッパリと忘れてしまう。

逆上することが問題なのではなく、逆上メールを「送ってオシマイ」という安直な解決が問題であるわけ。もし、その文章に対して異論があるのなら、もっと的確な文章を書いて意見を述べればいいだけでしょ?
しかし、考えることがイヤな人間にしてみれば、そんなことはしたくない。
だから一番安っぽい方法になってしまう。

このメールマガジンを現在購読されておられる方で、読んでいて腹が立ったことも、やっぱりおありでしょう。そして、一回くらいは購読解除なさった方もおられるのでは?
やっぱり購読しよう・・・と、出戻り?された方もいらっしゃるかも?それはその人の判断ですよ。
それはメールマガジン購読者の正当な権利なので、その権利をどのように行使してもいいでしょう。それに相手があるわけでもないし・・・購読を解除するも継続するも当人だけの問題ですよ。

ダメダメな人は、逆上メールという形で、相手に対して被害感情をぶつけ、自分自身の判断の問題ではなく、相手からの被害という形で収束させようとする。
まさに、ダメダメにお約束の「ワタシは悪くない!」「アンタのせいで!アンタのせいで!」となっている。まあ、私の文章に対してそれをやるくらいならまだしも、そんな人は当然のこととして、自分の子供にもやっていますよ。これでは児童虐待にもなりますよ。
逆上メールは、そんなサインとして、実に有効なものなんですね。

そんな逆上メールを「出してしまう」こと。
そんな人の「最後の一線」って、何だろう?
その点が、実に不思議なんですよ。そして、その一線の不在にダメダメが見えてきたりするものなんですね。

「最後の一線」なんて言うと、それこそ男女間の問題で存在するでしょう。
あるいは、国と国の戦争においても、最終防衛ラインのようなものも存在するでしょ?
その一線が崩れると、抑えが効かなくて、「行くところまで行ってしまう」ことになる。
国と国の戦争における最後の一線は、それを崩すことを目的に相手も攻めてくるものだから、結果的に崩されても致し方がない。
それに対し、男女間の最後の一線は、抵抗することが可能でしょ?もちろん、当人が十分に考えた上で一線を越えるのは当人の判断ですよ。お互いの合意の元で何をしようと当人の勝手ですよ。
逆上メールの場合は、送り前にどんなことを考えたの?そもそも逆上メールを送っても、送りつけられた側・・・つまりこの私はそんなメールの文章を失笑して、ネタにするだけなんですからね。

しかし、ダメダメな人は、いとも簡単に一線を越えてしまう。
そもそも、そんな最終防衛ラインとも言えるような最後の一線が存在しない。
だって、そんなスグに一線を越える人って、「自分にとって何が得なのか?」「何が重要なのか?」について考えたりはしないわけ。あるいは、自分の尊厳について考えないし、配慮しない人と言えるでしょう。
前回の配信の文章にも書きましたが、自分の立場には配慮しても、尊厳には配慮しない・・・そんな人がダメダメな人。

実際に逆上メールを送ってきた方のその後をウォッチしたことがありますが、ダメダメな症状が悪くなっている一方なんですね。今のところは、かろうじて正気が残っている面もある・・・それくらいのレヴェル。以前に話題になった落語家の林家三平さんの次女の海老名泰葉さんと実に似ているレヴェル。ホントに、その物言いも実に似ているものなんですよ。
だって、最後の一線がない・・・つまり自分の尊厳に配慮しない人なんだから、精神的に向上するわけもありませんよ。まさに自分を騙す方法が進化して「行くところまで行く」だけ。
向上するのは、「ワタシは悪くない!」「アンタのせいで!アンタのせいで!」という物言いの強さだけ。

そんな人は、尊厳がないので、ますます「自分はかわいそうな被害者」ということが唯一のアイデンティティになり、かわいそうな被害者なんだから・・・と、ますます尊厳に配慮しなくなり、ますます最後の一線が無くなってしまう。
この一線を越えたら、後戻りできない・・・そんな地点で、十分に考えてみる・・・そんな発想から遠くなるばかり。

そんな人は、実に簡単に子供を作ることになる。
だって、最後の一線とは無縁の人間なんだから、色々な意味で・・・子供はできるでしょうよ。一線を前に、考えたり、判断したりはしないんですからね。
そして、そんな親に育てられた子供がどうなるの?
そんな速成栽培の子供が、自分でじっくりと考え、判断するようになるわけもないでしょ?

そんな子供は、実に簡単に一線を越えて、犯罪行為を起こしてしまう。
そして、そんな事件の後になって、その親は「どうして、こんなことに?!」と嘆き、そして「オマエのせいで!」と子供に対して被害感情をぶつけるだけ。
どうしても、何も・・・子は親の鏡ですよ。

どんな分野でも、最後の一線のようなものがあったりしますよね?
最後の一線そのものは、色々なシチュエーションがあるけど、その最後の一線をどう扱うのか?その点は、その人の明確な傾向があるもの。
最後の一線とは、その人にとっての尊厳に直結しているもの。
最後の一線を軽く扱う人は、その人の尊厳も軽い。

最初に「最後の一線」ということで書いておりますが、尊厳のない人間は、最後の一線もなく、スグにトンズラしてしまうもの。戦う最前線もないし、踏ん張る後方の一線もない。まさにダラぁ〜とそこにいるだけ。
逃げ出して、別の場所にたどりついて、「ああ!ここだと安らげるわぁ・・・」としばらく居ついていても、また、トラブルになると、「やっぱり、ここじゃない!」とプイと逃げ出す。

その場所だったら死んでもいい・・・そう思える場所が、その人の居場所。
自ら赴いた戦場こそが、居場所じゃないの?本当の居場所とは、死に場所と同じ場所といえるのでは?
たとえば、芭蕉は、旅が死に場所であり、創作の戦場であったわけでしょ?
たとえば新約聖書を読む際にも、キリストもいわば戦友・・・ともに生き、ともに死ぬくらいの人としてみれば、その言葉の意味もよくわかりますよ。

居場所探しをしたり、自分探しをしたり、自分の役割探しでボランティアをするのは勝手ですが、そんな安全圏にいるうちは、本当の居場所には到達しないのでは?
「これだけはやり遂げたい!「これだけは守りたい!」
そんな自分にとっての最後の一線を自分自身で自覚すること・・・それができれば、それで居場所も分かって来ますよ。

(終了)
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発信後記

今週は、尊厳に関する文章を集中的に配信しております。
その分、内容もちょっと小難しくなっております。
まあ、色々と書いていますが、「何事も覚悟を持って、死ぬ気でやる必要がある。」というだけ。

本文中で「平和という言葉」について疑義を呈しておりますが、私が呈しているのは「平和という言葉」であって、「平和そのもの」ではありません。
「平和という言葉」を叫んでいれば、問題が解決するわけもなく、事態が悪くなる一方でしょ?平和な状態を守るためにも、現状を厳しく認識し、問題が発生したら、しっかりとした対処をする必要があるもの。そのためには「みんな仲良く」なんて美辞麗句で片付くものではありませんよ。
R.11/1/3