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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 10年1月20日 (11年1月3日 分離独立)
タイトル はるか戦場から離れて
追記 10年1月20日配信の「最後の一線」から分離独立いたしました。(11年1月3日)
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。
主体性を持って、そして、覚悟を持ってことにあたるという発想そのものを持っていない。
安全圏から、人のやっていることノンビリ眺めているだけ。
単に眺めているだけならともかく、最前線の人に対して安全圏からお説教をしようとする。

しかし、安全圏は安全圏の論理があるように、最前線には最前線の論理があるでしょ?
最前線では生きるか死ぬかの戦いをしているんだから、それ相応の厳しさがありますよ。
しかし、部外者意識がないダメダメ人間は、安全圏からご高説を垂れようとすることになる。そして、そんな人が愛用する言葉があったりするもの。
そのようなお説教の言葉は、最前線の人に「配慮」したものというよりも、「かっこうがよく」そして「反論されない」あるいは、「説明する必要がない」という安全圏にいる側を向いた言葉なんですね。
逆に言うと、その手の「反論されにくい」言葉があれば、その言葉を発した人間のキャラクターも見えてくるわけです。

そんな現実無視の美辞麗句の代表が「平和」という言葉です。
この「平和という言葉」については、以前に配信しております。
ダメダメな人間は、「平和という言葉」をムダに使いたがる。そしてそんな言葉が通用する領域に行きたがる。だから平和運動のようなものに参加したがる。

それこそ「教え子を戦場に送るな!」なんて、教員の団体が叫んでいたりしますよね?
「第二次大戦中に、教員のOBが行ったことを繰り返してはならない。」
まあ、御説ごもっとも。
しかし、その戦場って何?
彼らが言うには、国同士の戦争が起こって鉄砲を持ってドンパチやる場所ということなんでしょう。しかし、20世紀以降は、戦争は、そんな絵に描いた戦場だけでやるわけでもないし、戦争で死ぬのだって、そんな戦場だけではないでしょ?上から原子爆弾が降ってきたらドンパチの現場でなくても、死んじゃいますよ。

何かの主張を展開するなり、運動をするにせよ、「何が問題なのか?」「じゃあ、自分はどうしたいのか?」「どんな人に対して何を分かって欲しいのか?」そんなことを自分で十分に自覚した上で、自分の主張を展開しないと意味がないでしょ?
しかし、ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。そもそも自分が本当に実現したいことそれ自体が存在していない。
おまけにダメダメ家庭の人間は、会話の能力がない。
自分の考えを相手に分かりやすく伝え、相手の言葉を真摯に聞く・・・そんな習慣を持っていない。むしろ相手から突っ込まれるのが怖い。だからこそ、ご立派で、とおりがよく、反論されにくい正論を言いたがる。

「自分で説明したくない!」
「反論されたくない!」
内心ではそのように怯えている。

「教え子を戦場に送るな!」「平和の大切さを学ぶ。」
なんて正論も、そんなダメダメな心情の方が大きいんですね。
本来なら、
「たとえ『諍い』があっても、できるだけ会話で解決していきましょう。」
「そのために、会話の精神や能力を習得していきましょう。」
「現在直面している問題を、考え解決するのに有効な方法論を習得しましょう。」

そんな感じのアピールの方がいいんじゃないの?
話し合いで解決できるのなら、何も武力を使う必要なんてありませんよ。
逆に言うと、問答無用の正論を叫ぶ人間は、それだけ会話の精神から遠いということでしょ?だからスグに逆切れして、過激な手段に訴えたりするもの。
「教え子を戦場に送るな!」なんて正論を叫ぶような人は、それだけ武力に訴える可能性が高いわけです。
なにも屁理屈を申し上げているのではなく、そんな正論を繰り返すような教員は、じゃあ、生徒の話を聞いたのか?と言うと、聞かなかったでしょ?それだけ会話の精神から遠く、自分で考えることが怖い。だからこそ、言葉も軽い。
立派な言葉を語ることは、その言葉を信奉しているのではなく、「自分をいい子ちゃんだと主張したい。」とか、むしろ「相手から反論されることが怖い。」という心理から見た方が、その手の人の言動を理解しやすいわけです。

「教え子を戦場に送るな!」と本気で思っているのなら、子供たちに会話の能力や現状認識の手法を習得してもらうことが重要でしょ?時の政府にいやがらせをして、満足するなんて、それこそが戦争の精神ですよ。「教え子を戦場に送るな!」なんて主張は主張でいいわけですが、それを本気で実現するためには、まさに「戦場」にいるような必死さが必要になるもの。
まあ、何事も「死ぬ」気でやらないと、何も達成できないなんて、当然のことでしょ?

鉄砲でドンパチやるばかりが戦場ではないでしょ?
命がけの必死さが必要になる場所・・・それは戦場と言えるのでは?

それこそ、子育てだって、それくらいの覚悟がないと子供もメチャクチャになってしまいますよ。あるいは、仕事だってそうでしょ?あるいは、一人のオトコを別のオンナと取り合ったケースとか・・・やっぱり、必死さが必要になるもの。それって一種の戦場ですよ。
あるいは、映画などの作品を作るような場合だって、あるいは、このメールマガジンの文章を作り上げるのも、一種の戦場のようなもの。
生半可な気持ちではできませんよ。
「自分が明日死ぬとなると、じゃあ、何を残すのか?」そんな思考も必要になってくる。
ナチの強制収容所の壁にだって、文章は残せますし、後になってその詩に音楽を付ける人もいる。

ただ、何も、四六時中そんな状況である必要もないでしょう。
しかし、必要に応じて、戦いに赴かなくてはならない時がある・・・これは確かでしょ?
何も国を守るための戦いと言うことではなく、家族を守るための戦いだって、実際に存在するもの。
その時に、自分はどうするのか?
そんな発想を持っていないとね。

心の平和もいいけど、そのためには戦いも避けられない。
何も哲学的なことを言っているわけではなく、トラブルが発生したら、それを真摯に見つめ、関係者の合意を取らないといけないでしょ?
その合意のためには、「平和という言葉」を唱えているだけでは片付きませんよ。
「平和!平和!」と言っている人は、トラブルを見たくないだけ
それこそ自衛隊の行進やアメリカ軍基地を見たくないという心理であって、「じゃあ、どうするのか?」という現実的な発想がない。
ただ現状認識から逃避して、それによって得られるかりそめの平衡を平和と言っているだけ。

そして、事態がより悪くなると「ワタシは悪くない!」と弁解するばかり。
たしかに、その人は何もタッチしていないから、論理的に見て、悪くはない。そんな人の心の中では「見たくないのに、見せられてしまって、ワタシって、なんてかわいそうなんだ?!」という被害者意識になっている。そして、そんな弁明を受け入れる人間もやっぱり被害者意識が強い自己逃避人間。
だから、そんな人と一緒になると、やっぱりトラブルになってしまう。
「見たくない!」という逃避的な心理で意気投合しても、何も解決せず、結局はトラブルが大きくなるだけなんて、本来は小学生でもわかること。

小さなトラブルでも、大きなトラブルでも、解決するためには、平和だけでは片付かない。
議論ですら、激論になってしまう。
そんな激論を回避していたら、見ないという対処しかできなくなる。結局は、その場をトンズラすることに。
ダメダメ人間は、当事者意識がない。トラブルを本気で解決しようなんて思っていない。だから、いざとなったら、スグに逃げてしまう。相手や状況から逃げるだけでなく、自分自身から逃避してしまう。
そんな人は、様々なシチュエーションで戦っている人を見ても、「じゃあ、自分が戦う場面になったらどうしようか?」なんて考えない。「バカなことをやっているなぁ・・・」と安全圏から見るだけ。だから、いざ自分がそんな状況になったら、そそくさと逃げ出してしまう。

本来なら、最前線で必死で戦っている人の姿を見て、その人なりに参考にすればいいじゃないの?
しかし、当事者意識のない人は、どうしても達成したいものがなく、だからこそ自分自身が戦うことを想定もできない。それゆえに、「上からの立場」で、訳知りのコメントを出して勝手に満足することになる。

インターネットの掲示板やコメント欄でお気軽に意見とやらを言える技術的な発展はいいとして、だからと言って、お気軽に意見を言う「義務」があるわけではないでしょ?
文章を発表するにせよ、もうちょっと自分なりに詰めて考えた上で文章にしてもいいのでは?
どうして、そんなに無理にコメントするの?
そのコメントの言葉に命を懸けられるの?
コメントする際の、その人の尊厳ってないの?
逆に言うと、その尊厳がないがゆえに、「てきとう」な場所で「てきとう」な表現でコメントしてしまう。
尊厳がないがゆえに、評価者然としたコメントを発し、そして、不都合なことになると、逆上したりトンズラしたりする。

以前にも書きましたが、映画や文章に対してでも、インターネット上には、そんな訳知りのコメントがあったりしますよね?
ものを作り上げるという戦いの場の人間を、安全圏にいる人間が御高説で評価し裁く・・・
そんな姿が高貴なの?
そんな姿を自分の子供に見せたいの?

「見せたいの?」も何も、実際に見せているのがダメダメ家庭というもの。そんな家庭で育った人間が、親譲りの訳知りのコメントで、最前線で戦っている人間を論評して大喜び!
しかし、そんな人は、自分の子供だって守れませんよ。

以前に日本で首相をされた小泉さんは、大学教授だった竹中氏を誘う際に、「凄惨な戦いになるだろう。私と一緒に戦場に出よう!」と口説いたそうです。
小泉さんの政策に賛同するかどうかはともかく、その覚悟は必要であることには賛同するでしょ?死ぬ気でやらないと何も達成できなし、一緒に戦う人間にもそれを求める必要がありますよ。
一緒に戦ってくれると思っていたら、その人は、いざとなったらスグに逃げる人だった・・・
そんな事態になったら、イヤでしょ?
そんな事態にならないためには、普段から、そんな戦場の発想で人を見ておけばそんな事態にはなりませんよ。訳知りのコメントで盛り上がるような人間は、いざとなったら、逃げ出す人間なんですね。

戦場というと、まるで「あってはならない存在」のように言われることもありますが、そのようなクリティカルな状況は、いわゆる戦争以外にも常に発生しているもの
そして、その場は、クリティカルであるがゆえに、厳しい判断が要求される。
それこそ、「片足を失うのか?命を失うのか?」そんな判断も必要になる場合もある。
あるいは、作品を制作するような戦場においても、「自分の寿命を伸ばすのか?それとも、後世に残る作品を通じて自らを語っていくのか?」そんなシビアーな選択も現実に発生する。
あるいは、子育てにおいて、「子供の命を守るのか?親である自分の命を守るのか?」
そんな選択の場に遭遇する人も現実にいるでしょ?

その選択の場こそが、戦場というもの。
だからこそ、選択から逃避し、判断から逃避する抑圧的なダメダメ人間は、シチュエーションとしての戦場から逃避しようとするわけです。
だからこそ、選択という荒波とは無縁の状態と言える「平和」を主張したがる。

抑圧的な人間にしてみれば、平和というご立派な言葉も、ただ「自分が問題を見たくないため」「シビアーな選択をしなくて済むため」の方法論にすぎない。
だから、平和愛好家はオカルト志向があったりする。
平和もオカルトも、現実の困難を見ないための、いい方法でしょ?

逆に言うと、その平和愛好家とオカルト愛好家の2つが重なっていたら、重症のダメダメ家庭の出身者と見て間違いがないでしょう。
そんな人が言う「平和」は、死ぬのがイヤというよりも、「命を懸けてやりたいものがない」「選択することが怖い」という抑圧的な心理を指し示しているわけです。

戦争におけるドンパチの現場の近くにいる必要はありませんが、「命を懸けてまでやりたいこと」「命を懸けて守りたいこと」について常に頭に入れておくことは、発想としては戦場の発想でしょ?
距離的にはともかく、心理的には戦場にいる覚悟がないと、その人も流れてしまう。
そんな「流れる」生き方を「ふつう」と称揚するのは勝手ですが、そんな人が子供を持って親になってしまったら、子供は守れないのは当然のことでしょ?
 この文章と近い内容の文章として「05年4月4日 配信の 覚悟を持たない 」という文章があります。