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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神 |
配信日 | 10年1月22日 (11年1月14日に分離独立) |
タイトル | 自分を信じる |
追記 | 「自分の世界」という文章から分離独立 (11年1月10日) |
ダメダメ家庭の人間は、自分に自信がない。 そもそも、当事者意識がなく、だからこそ、達成したい目標自体がないので、実際問題として達成した成果がない。 成果がないんだから、自信も持ちようがないでしょ? そんな人は、自分自身を肯定しているの? あるいは、どうやって肯定するの? 最初に触れた「自信」となると、その言葉を分解して、「自分を信じる。」とかの言葉がありますよね?あるいは、自分自身を肯定する別のパターンとして「自分を好きだ。」という言葉が使われることもあります。 ちょっと前の調査によると、東京在住の子供は、「自分を好き」な子供の割合が小さいんだとか。 しかし、「自分を好き」という言葉の意味は分かりにくい。少なくともこの私には分かりませんよ。そんな質問を受けても途方に暮れるだけですよ。 「自分を信じる。」と言うのなら、まだわかりますが、「ワタシはワタシ自身が大好き!」って、いったいどんな感情なんだろう? それって、むしろキモチ悪いのでは?そもそも、「自分を好き。」なのはいいとして、その自分自身のどんな点が大好きなの? 「ワタシが自分の好きなところは○○で・・・」そのように個別に具体的に言えるのなら、包括的に「ワタシは自分自身が大好き!」とは言わず、最初から「ワタシは自分のこの部分が気に入っている。」とでも言いますよ。 個別に言えないからこそ、包括的な表現にならざるを得ないわけですから、そんな人は本当の意味では自分自身について分かっていないもの。 もし、自分自身について分かっているのなら、むしろ「自分を信じる」という信頼ベースのものになるのでは? それこそ、 「ワタシは今までこんなことをやってきた。」 「過去に、こんな実績がある。」 「この面ではよく知っている。」 「今現在は、こんなことに取り組んでいて、実績を上げつつある。」 そんな自覚があれば、自分を信じることもできるでしょう。 しかし、ダメダメ家庭の人間は、自己逃避であり、まずもって自分自身の問題から逃避している。 そんな人間が、「自分を信じる」ことなんてできませんよ。 自分を好きは自分を知らなくてもできることですが、自分を信じることは、自分を知ることが大前提になるものでしょ? 本来だったら、それこそ、自分なりの努力をして、その努力の結果を積み重ねていけばいいだけですよ。それこそ1日に5km走って体力には自信があるという物言いでもいいわけですし、1日に本を50ページ読んで、この分野には自信がある・・・そんなパターンでもいいわけでしょ? そうなると、その面については、自分を信じられますよ。 しかし、自己逃避のダメダメ人間は、そんなことはしないし、できない。 だからこそ、自分を肯定するには、「自分を好きになる。」という好意に基づいたものしかありえない。 かと言って、やっぱり自己逃避なんだから、好きになると言っても難しい。 そうなると自分のいいところを挙げるのではなく、自分の欠点を主張することで、自分を好きになる方法を取ったりする。 それこそ「またミスしちゃった!キャハ!ワタシって、ドジねぇ!」「けど、こんなドジなワタシが自分でも大好き!」「ああ!ダメダメなところのあるワタシだけど、こんな人間くさいワタシが大好きよ!」 ・・・なんてことを臆面もなく言い放つようになってしまう。 まるで「相田みつを」が巨大化してストーキングしてくるような雰囲気。 ドジはしょうがないわけですが、それは美点ではないでしょ? あるいは、ダメダメ家庭の人間は、信頼よりも好意を向いているので、人からの好意に直結するような行動を取ったりする。 それこそボランティアのような活動に身を投じ、「ああ!人助けをしているワタシって、なんていい人なの?!こんな『いい子ちゃん』なワタシをワタシ自身は大好き!」そんなスタイルになってしまう。 だからと言って、自分自身から逃避している状態は前のまま。と言うか、他者に依存している分、自己逃避が悪化したとも言えるくらい。だからこそ、その『いい子ちゃん』主張がますます問答無用で押し付けがましいものになってしまう。 そして周囲の人に要求する。 「こんな『いい人』のワタシを、アナタたちも大好きになりなさい!」 そうして、そんな命令を下して、「アナタを大好きです!」と強制的に相手に言わせた後で「みんなが大好きなこのワタシなんだから、ワタシ自身も大好き!」などと言う素っ頓狂なロジックで完結してしまう。 ギャグを書いているように思われる方もいらっしゃるでしょうが、程度は別にして、そんな光景は結構ポピュラーなものでしょ? 自分自身を知らないわけだから、結局は、以前に書いた根拠のない自負心にすがることになる。もはや信仰に近くなってしまう。いわば自分を騙すように自分を好きになる。 もうこうなると、自分自身以外の人間は、そんな人に対して好意を持つわけもなく・・・ だからこそ、ますます「自分が大好き!」と、自分に主張しなくてはならなくなってくる。 しかし、その「まなざし」は完全に「いっちゃって」いる状態。 周囲の人は、その表情にますます距離を置くだけ。 何も、自分自身を無理に好きになる必要はないのでは? 自分自身をよく分かっていれば、それでOKでしょ? そして、自分との距離感を上手に取ることができればそれでいいのでは? そして自分を分かっていれば、特定の面では、自分なりに自信を持てるでしょうし、その面では自分を信じることもできるでしょう。 オリンピックなどで活躍したスポーツ選手の方々が、よく、この「自分を信じて・・・」という言葉をおっしゃっていますが、もちろんのこと、それはそのスポーツの分野での話でしょ? 「ワタシは金メダルを取ったくらいにすごいんだから、数学の証明問題も楽勝よ!」とはならないわけでしょ? 自分を信じているからと言って、何でもかんでもできると、「信じて」いるわけではないでしょ? 自分を信じるというのは、もっと個別の具体論ですよ。自分を知った上での判断の結果になるわけです。 ダメダメ人間が言う「自分を好きになる。」という言葉は、それがある種の強迫的な観念になってしまう。「自分を好きになりたい。」、「好きにならなきゃいけないんだ!」と「焦る」わけです。しかし、自分を知らないままなので、包括的なものにならざるを得ない。だから、自分の「どこを好きなのか?」そんなことが言えない。 だから他者に依存して、他者からの好意に乗っかって自分を好きになろうとする。 だから、他者に対しては、自分を好きになってもらいたいと、「強圧的」で問答無用。 他者に対して強圧的に要求するのはいいとして、自分では何も努力しない。自信がないから、何も取り掛かれない。 たとえ、取り掛かっても、「いいものにしなきゃ!」「ひとからケチをつけられないようにしなきゃ!」「人から嫌われないようにしよう!」と過剰に考え、途中で止めてしまう。常に減点法なので、マイナス面ばかりを考えてしまう。 失敗を受け入れる経験なり方法が乏しく、プレッシャーのかかる場面から逃げてばかりなので、ますますプレッシャーに弱くなる。 自分がやりたいことが自分で分かっていれば、失敗もありますよ。要はそれをどのように受け入れ、次の機会に生かすのか?そういう問題でしょ?しかし、ダメダメ家庭というものは、サポートしてくれる環境ではなく、むしろ足をひっぱる環境。だから当人としても失敗を受け入れられない。だから過剰に減点法になってしまう。 そもそも、そんな減点法でやっているので、やっていても面白くない。 やっていて途中で何がなんだか自分でもわからなくなって、途中で止めてしまう。 迷惑をかけてはいけない・・・と常に切羽詰っているので、ボキリと折れやすい。 だからますます自信をなくす。だから何も始められない。 自信のなさがスパイラル状に進行してしまう。 そんな弱い自分自身を見たくないが故に、やたら大言壮語したりするもの。しかし、本当に意味で自信がないので、いざとなったら、スゴスゴと逃げてしまう。 よく言う「弱い犬ほど、よく吠える。」そのもの。 以前より、言及したりしておりますボクシングの亀田親子なんてその典型でしょ? 何回も書きますが、自分を信じるためには、自分を知ることが最初に必要なこと。自分との勝負に勝たなくては、自分を信じることはできませんよ。ダメダメな人間は、自分自身を知ろうとしないのに、と言うか、そこから逃避しているのに、強迫的に自分を好きにならなければいけないと思ってしまっている。だから自分を好きになるということすら、他者に依存することになってしまう。 「自分を好き!」と言い放つ人間は、現実逃避であり、自己逃避。だからスグに被害者意識が爆発したりする。そういう面ではシャレにならない人でもあるんですよ。 |