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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない体験,境遇
配信日 10年1月22日 (11年1月14日 一部分を分離)
タイトル 自分の世界
 追記  元の文章から「自分を信じる」という部分を分離独立 (11年1月14日)
ダメダメ家庭の人間は、自己逃避。
自分自身の目標があるわけでもない。ただ、「ダラぁ〜」と生きているだけ。
しかし、それではあまりに寂しいし、価値がないし、周囲の人に対して自分を説明できない・・・と言うことで、自分の価値やアイデンティティを他者に依存することになる。
その人自身の、「とりえ」なり「価値」を、「ワタシは、あの○○さんに役に立っているから。」などと説明することになる。

他の人に役に立つのはいいとして、「じゃあ、その人個人としてのとりえなり、好きなことなり、自分の世界ってないの?」そんな話になりますよね?「アナタのとりえって何?あなたの長所は?」なんて質問は、学校や会社の面接などではおなじみの質問でしょ?

皆様だったら、どう答えますか?
まあ、粘り強いとか、努力家とか、それとも体力とか・・・
とりえなんて、人それぞれのものでOKですよ。
しかし、ダメダメ家庭の人間は、そもそもそんなとりえがない。
とりえなんて、その気になったら、何とでもなるでしょ?「毎日10km走っています。」でもいいわけでしょ?

自分にどんなとりえがあるのか?
そんなことも答えられないような人間は、そんな質問があったら、実際にはどう答えるでしょうか?
「ふ・つ・う」。
まさに、そんな感じになってしまう。
かと言って、『アナタが言う、その「ふ・つ・う」って、いったい何?』と続けて聞かれても答えられない。

結局は、やっぱり、自分のとりえを他者に依存するしかない。
個人としての依存関係だけでなく、いわば所属集団というカテゴリー分類から説明したりする。
それこそ民族とか家柄とか・・・

私が属している民族は、立派な民族だ!→ そんな民族の一員だから、ワタシは価値があるんだ!
まあ、その論理は論理でいいとして、『民族はいいとして、じゃあ、アナタ本人はどんなとりえがあるの?』、あるいは、『その立派な民族とやらに、どんな貢献をしているの?』
なんて聞かれても、やっぱり答えられない。
「どうしてそんなことを聞くのよ!キーっ!」となるだけ。

結局は、個人としての自分自身のとりえも何らかの形で他者に依存するしかない。
「あの人たちが、ワタシを頼ってくれる!」
「彼が、ワタシを必要としてくれる!」
このメールマガジンで取り上げることの多い、共依存状態となる。

自分のとりえを他者に依存するから、その他者に「からむ」ようになってしまう。だって、自分に依存してくれる他者がいなかったら、その人は何も価値がないことになってしまうでしょ?
まあ、ストーカー事件も起こるわけですよ。

当事者意識がないので自分自身の世界を持っていない。本来なら、自分の世界なんて、編み物でも、料理でも、何でも持てるはずでしょ?しかし、自己逃避のダメダメ人間は自分の世界を持とうとしない。しかし、だからこそ相手に嫌われることになる。
それこそ、「楽しみは子育てだけ。」なんて言い出す母親は、子供にとって「重い」母親。
「アナタに尽くす。」なんて言い出す女性は、男性にとっては「重い」女性。
そんな人とは、対等な男女関係だったら、別れればいいだけですが、家族だったら、そうはいかない。寄りかかられて鬱陶しい。
そんな人と別れたら、「あれだけアナタに尽くしたのに・・・」と被害者意識が爆発されてしまう。

自分の世界を持っていないがゆえに、何かあると、スグに被害者意識が刺激されることになる。そして被害者としてのアイデンティティを確立してしまう。
被害者であることが唯一のとりえになってしまう。

他者に依存させる関係に依存したり、かわいそうな被害者という立場に依存することはあっても、「自分はどんな人間なのか?何ができるのか?」そんな思考には至らない。
「自分のとりえって、何なのか?」
そんなことは、本来なら、幼稚園児でも答えられることでしょ?

それが現時点で答えられないのなら、それはそれでしょうがない。どうしてそうなってしまったのかを、ちゃんと考えた上で、自分のとりえくらいは、今からでも、自分で作っていけばいい話ですよ。
しかし、現実では、実家の問題はアンタッチャブルなので、結局は、自分自身の問題に発想が行かず、唯一主張できる「かわいそうな被害者」という立場を、求め、達成してしまうものなんですね。

自分のとりえが言えないような人間にヘタにかかわると、依存関係になり、まさにストーカーされたり、クレームを付けられたりと厄介なことになってしまう。
「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」なんて言っているだけの人間と関わると、関わった人までもが「かわいそうな被害者」になるだけ。
それこそ、以前に秋田県で起こった、自分の子供や近所の子供を殺害した女性のような事件に巻き込まれることになってしまう。

あるいは、自分のアイデンティティを他者に依存しているわけだから、そんな人が周囲に言うのは「ワタシを頼って!」と言うもの。
人に頼ってもらって、その依存される関係を成立させることによって、自分の価値なり居場所を安直に作るわけです。
そんな安直な人は、自分自身を直視することなく、安直に自分の役割を得ようとする。会話の能力がないし、説明能力もない。しかし、善意だけが先走って妙に熱い人。
そんな人って、実際にいるでしょ?

依存させるというか、恵んであげる立場を求める心理がある人は、恵んでやれることができる対象である被害者という存在に惹かれてしまう。そして被害者と関わり、その被害者を助けようとすることになる。
しかし、相手の側が頼ってくると、「アンタに頼らせてあげるわ!」と、上からの物言い。
周囲に対して「ワタシを頼って!」と主張する人は、自分の身近な存在の悩みなどには気がつかない。だから自分から「頼って!」と呼びかける必要がある。
しかし、そんな人に頼ったとしても、権威筋認定のご正論を問答無用に上から押し付けられるだけ。そうして、「ワタシはあの人を救ってやった!」「ああ!ワタシって、なんていい人なの?!」と自画自賛。

そんな人が近くにいると、鬱陶しいだけですよ。しかし、そんな「善意の人間」から避難しようとすると、まさにストーキングされてしまう。
まさに、「ワタシはこんなに善意を持っているのに、どうしてみんなはワタシを頼ってくれないの?!」「アナタのことは、このワタシが一番分かってあげられるのよ!」なんて事態になりがち。そして被害者意識が爆発することになる。
善意を熱心に語るそんな人間には、お気楽には近づいてはいけないわけです。

他者に依存しない個人としてのとりえくらいは、本来は誰でも持てるもの。それがないような人は、自己逃避人間であり、抑圧的な人間なんですね。
そもそも、個人としてとりえのない人と、一緒にやり取りしてもツマンナイだけですよ。ツマラナイだけでなく、危険な存在なんですね。ホント、そんな人からは、避けるしかないんですね。しかし、「とりえを他者に依存」している人は、そのような「とりえを他者に依存」している同類と一緒にいると、自分に対して厳しいことを言われないので、都合がいい。だから、居心地の良さを感じ、なんとなく集まってしまう。しかし、それってグチで盛り上がっているだけでしょ?だから、結果的に自己逃避が深刻化するだけ。本来はそんな人は避ける必要があるわけです。
まあ、これが単なる知り合いくらいなら避けることも可能ですが、家族だと避けることもできない。

自分の世界を持っていない女性は、一見は「情が深い」ように思われるかもしれませんが、単に、自分自身から逃避していて、その分、他者に依存しているだけ。
前にも書きましたが「LOVE」ではなく、「NEED」になっているだけ。
「子供から愛を教えてもらった。」とか、「子供から生きがいを得た。」とか言うだけ。
逆に言うと、だからこそ離れられない

まさに情が深いように見えて、「気の迷い」で結婚してしまった男性も、やがては、やっぱり鬱陶しくなる。結局は、そんな家庭からさっさと避難。
そもそも自分自身の世界なり考え方を持っていない人は、会話をしていてもつまらない。
そもそも話題も持っていないし、まあ、往々にして趣味も持っていない。

夫から避けられたら、その依存的なメンタリティを生かして、市民運動に参加したり、ボランティアに参加したりする場合もあるわけですが、一般的には自分の子供に寄りかかってしまう。
しかし、自分の世界を持っていない人が、子供に何を与えるの?
しかし、子供以外に世界を持っていないという二重否定的な状態であるがゆえに、子供にすべてを捧げていると、自画自賛することに。
しかし、子供にとっては鬱陶しいだけだし、役にも立たない。

自分の世界を持っていないということは、物事を自主的にやってきていないということ。やらされているという被害が伴った感情を持っている。だから、結局は何をさせてもズボラになってしまう。
料理だって自分の楽しみとしてやれば、それが自分の世界となるでしょ?しかし、相手に依存されるという関係性の中で料理を捉えているので、いわば「アンタのために、やってあげている。」そんなスタンスになってしまう。
「こんな不快な、料理という苦行を、オマエのためにやっているんだから感謝しろ!」
そんなロジックになっている。
いやいややっているからこそ、自分の「持ち出し」を意識し、自分への感謝を要求する。
しかし、いやいややっているんだから、その成果たる料理も、おいしいわけがないし、作る側も不快だし、食べる側も不快。本来は、おいしい料理だったら、作った人に対して自然に感謝をするもの。
しかし、ダメダメ家庭のロジックでは、マズイ料理だからこそ、つまり「やらされている」がゆえに、そこに被害を認識し、その被害に対しての配慮を要求してくることになる。
そんな母親の姿は、以前に取り上げたソフィア・コッポラ監督の映画「ヴァージン・スーサイズ」の母親がそんなパターンでした。

「自分が、いかにイヤイヤやっているのか?」それを周囲に主張することで、周囲からの評価や感謝を得ようとする。
そんな態度が、それこそ周囲から嫌がられると、ますます「自分はこんなにイヤイヤやっているんだよ!こんなに大きな被害があるんだよ!」と主張し、そうして相手に恩を着せようとし、ますます嫌がられることに。
ちなみに、以前、日本で首相をされた福田さんは、割とそんなパターンだったでしょ?

そもそも、おいしい料理が成果と言うのなら、分かりやすい。
しかし、マズイ料理こそが成果というのは分かりにくいでしょ?
そんな人にしてみれば、周囲に対しては、一般的な意味における成果を示すのではなく、「いかに不快な思いをしたのか?」「いかに犠牲を払ったのか?」そのような自らの被害を主張する。確か、文化人類学の分野でそんな風習の紹介がありましたよね?しかし、そんな姿は、周囲の文明社会のマトモな人間にしてみれば、「コイツ・・・アホか?」となるのは当然のこと。

しかし、ダメダメ人間にしてみれば、マズイ料理を作っていることが、自分はこんなに苦しんでいる・・・という主張であり、その苦痛に自分のすべてを捧げている・・・と言うメッセージとなっている。
「自分はこんなに消極的に取り組んでいるんだよ!」というメッセージを積極的に発しているわけです。そして、「自分が消極的に取り組んでいるのはアンタのせいだ!」と言いたい。
ほとんどSFもびっくりの心理解説と思われる方も多いでしょう。
しかし、たとえば韓国人の行動って、そんな視点を頭に入れておくと理解できるようになるでしょ?

そんな人は、一人の人間として自立していなくて、ただ、人に依存しているだけ。
だからこそ、人からほめてもらいたがる。ほめてくれるようなことをしたがる。
しかし、だからこそ周囲の人間にしてみれば鬱陶しい。
だって、そんな人が主張するのは犠牲なり被害だけなんですからね。
結局は、「♪ 尽くして、尽くして、捨てられてぇ〜♪」のようなことになってしまう。
しかし、だからこそ語るに足る被害もでき、それを喜んで語ることになる。

「重い人」あるいは「尽くす人」というのは、ただまとわりついているだけで、結局は頼りにならないものでしょ?
いざというときに頼りになるのは、どっちかと言うと「さばけた」人の方ですよ。
「さばけた人」は、自分の世界を持っているがゆえに、その分野で問題を認識し、解決して来ているということ。それなりに実績もあるし、方法論も分かっている。
人に依存しないし、他者の問題も分かるし、現状を正確に認識できる。
人にすがったり、まとわりつくだけの人は、問題解決の能力を持っていないし、実績もない。だからこそ、ますますすがりつく。
重い人というか、他者に依存している人は、依存しているだけで、その相手を理解しているわけではない。

たびたび言及いたします、フランスの作家マルグリット・デュラスにはこんな言葉があります。
「与太者たちというものは、人と固く結ばれることがなく、自ら一人偉大ということもなく、不安の中に生きている。」
不安だから、まとわりつき、自らの尊厳をますますなくして行ってしまう。

自分の世界を持っていない人は、本当の意味で、他者とコミュニケートすることはできない。そもそも、自分自身がないんだから、相反する存在としての他者も存在しない。
自分の世界がないんだから、他者の世界も存在しない。
自分の世界がないんだから、一人の存在として偉大になりようもない。
自分の尊厳がないんだから、他者の尊厳も存在しない。
自分の尊厳に配慮しないんだから、他者の尊厳にも配慮しない。
と言うか、他者というものを心理的に認識できないし、尊厳というものも理解できないのがダメダメ家庭の人間。

自分ひとりの世界を持っていないので、本当の意味での自信は持ちようがない。
だって、自分のとりえを他者に依存しているんだから、どうやって自信を持つの?
自分の考えを、自分の言葉で語れない限り、自信なんて無縁ですよ。
だからこそ、やっぱり人との関係性に依存しようとする。

自分自身のとりえが、自分でも説明できない人間は、このように他者に過剰に期待することになる。期待したからこそ、「裏切られた!」という被害者意識に陥りやすい。
そして、被害者としてのアンデンティティを確立し、「かわいそうな被害者」として、周囲との関わりを持つ。しかし、その人単独での価値がないことは相変わらず。
しかし、かわいそうな被害者となると、周囲も、それなりに「構って」くれるでしょ?
周囲からのそれなりのサポートもあったりする。結果的に、被害者としての立場が、唯一の「とりえ」となってしまう。

「ワタシはアンタによってこんな被害を受けた!」その手の人たちが主張するのは、そんなことくらい。まあ、典型的なクレーマー状態。だって他に言うことがないだからしょうがない。かわいそうな被害者である立場を求めているので、現実として、本当に被害者になってしまう。こんなことだからストーカーの被害者や、あるいは加害者の側になったり、それこそドメスティック・ヴァイオレンスの被害者になってしまう。

そんな自称被害者に、『アナタ自身のとりえって何?』と聞いてごらんなさいな。
「別にぃ・・・」「特にぃ・・・」なんて言うだけですよ。
そんな自称被害者からマトモな人は離れていってしまって、結局は、被害者共同体を作って、一緒にグチ大会。
しばらく、楽しいひと時でも、やっぱり「こんなんじゃ、ダメだ!」などと思う人も出てくる。

しかし、ダメダメな連中は、そんな脱却の意欲を持った人を妨害する。
まさに、魯迅が「狂人日記」の中に書くように「やつらは親子、兄弟、夫婦、友人、師弟、仇敵、それに見も知らぬ他人同士までいっしょになって、お互いはげましあい、牽制しあって、死んでもこの一歩を踏み出そうとはしないのだ。」そのもの。
それでも出て行こうとする人に対しては「裏切り者!」と罵倒することに。

逆に言うと、「裏切り者!」という罵倒の言葉は、マトモな集団からは出てこないでしょ?
その言葉は、いわば主流の人たちに対しての対抗心を共有していた集団から脱却しようとすると浴びせられる言葉ですよね?主流から出て行こうとすると「裏切り者」という罵倒の言葉ではなく、「落ちこぼれ!」という言葉になりますよ。
そんな「裏切り者」なんて言葉が出てくるようだったら、そんな集団はダメダメ集団ということ。家族の間でその言葉が出るということは、「我々は、他の一般人に分かってもらっていない。」という孤立感や疎外感が存在していることを示している。だからこそ、お互いで依存している。

お互いで依存し合っているので、誰かが自分の世界を持つのが許せない。
そして、その人の「とりえ」やアイデンティティもお互いで依存したまま。
しかし、依存であるがゆえに、本当の結びつきにはならない。相手を肯定しているのではなく、自分以外のものを否定しているという二重否定のスタイルに留まっている。
まさに、「人と固く結ばれることがなく、自ら一人偉大ということもなく、不安の中に生きている。」の与太者そのものなんですね。

(終了)
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発信後記

ちなみに、本文中で引用したマルグリット・デュラスの言葉ですが、以前に取り上げた「ラ・マン」の中にあった言葉です。
まあ、デュラスは「与太者」なんて言っていますが、このメールマガジンだと、まさに「ダメダメ人間」という言葉そのもの。

与太者というか、ダメダメ人間は、自分の世界を持つ前から人と関わろうとして、何がなんだか自分でもわからなくなってしまって、周囲の人から嫌がられ、何も得るものがない。
自分の世界くらいは、毎日ランニングするでも、毎日、本を読むでも、色々とあるでしょ?

マトモ家庭出身の人なら、特に意識せずとも、それなりの自分の世界があるわけですが、ダメダメ家庭出身の人は、まずもって自分の世界というものを持っていないわけ。
そして、それを他者から得ようとして、ますますドツボにはまってしまう。
そんなことを実際にやっている人を、ご存知の方もいらっしゃるのでは?

あと、マルグリット・デュラスが書いている典型的なダメダメ人間ですが、当然のこととして、インターネットとか携帯電話とかは無関係です。
昨今の子供の問題を、インターネットとか携帯電話とかを持ち出して、モンキリの議論にしてしまう人も多くいるようですが、もうちょっと基本的な教養をもってほしいもの。
もちろん、そんな無教養なオヤジやオバンが、問答無用の正論を言い放って、いい気になっている姿も、大昔から全然変わらない人間の姿なんですが。
 R.11/1/14