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アップ日  11年2月8日
タイトル 作品の理解について 
 テーマ  翻訳者や演奏家や批評家は作品を理解しているのか?
このサイトの一連の文章では、タイトルとして明示しているように家庭の機能の問題を集中的に考えております。家庭の機能の問題は、このサイトの表テーマといえるでしょう。このサイトに収録されている1000本を超える文章においては、ダメダメ家庭の問題を直接的に考えると同時に、いわば裏テーマのような形で、芸術の問題を頻繁に取り上げ考えております。

ダメダメ家庭と芸術表現の間には密接な関係があるといえます。
そもそも、「周囲の人たちは、十分に説明しなくても自分のことは分かってくれ、自分の価値を認めてくれる。」という安心感があるような子供体験を経ていれば、強迫的な心情で表現に取り組む人間といえる芸術家にはなりませんよ。周囲に対する不信感があるがゆえに、自分で自分の価値を証明しようとし、作品に類するものを作るようになる。
だから、芸術家のメンタリティは、ダメダメ家庭のメンタリティと重なる面が多い。

ダメダメ家庭が、芸術を生み出すと言っても、ダメダメ家庭に育てば、自然に芸術家になるというものではありません。まあ、ダメダメ家庭の出身であることは、必要条件に近いものであり、十分条件とはいえない。
芸術作品という形に結実するとなると、当然のこととして、芸術的な霊感のようなものが必要になってくる。そして、自分自身を見つめる強い心が必要になってくる。あるいは、何とかして表現したいという熱情も必要になります。もちろん、作品にまとめ上げるための道具といえる、基本な教養なり知識なり表現技術が必要となるのは言うまでもないこと。
作品を作るための道具となる、教養や知識や表現技術はマトモな家庭においても習得できるでしょう。しかし、作品を作る動機となる強迫的な熱情は、マトモな家庭からは得られないものなんですね。

また、別の面からも、ダメダメ家庭と芸術作品は結び付くことになる。
ダメダメ家庭の正式名称といえる機能不全家族の「機能不全」を考えるにあたっては、「見えているもの」「言われていること」から考えるのではなく、「見えないもの」「言おうとしないこと」を見いだすことが必要となります。その機能が十全であれば、それが見えることになりますが、機能不全であれば、それが見えることはない。その「見えない」点についての記述を求めるとしたら、客観を金科玉条とした学術書ではなく、具現化された主観といえる芸術作品の中にこそ存在するといえます。「見えないもの」「言おうとしないもの」を客観的に指摘することは不可能であり、どうしても主観が介在するわけです。だからこそ、機能不全の問題を考えるにあたっては、芸術作品に当たることが有効になってきます。

あるいは、芸術が不在となってしまっていることから見えてくるものも多い。
ダメダメ家庭出身者の巣窟といえるカルト団体は、芸術とは無縁となっている。
芸術を生み出すのもダメダメ家庭のメンタリティと言えますが、芸術を排除するのもダメダメ家庭のメンタリティと言えるでしょう。逆に言うと、カルト団体は、芸術の持つ「力」と「危うさ」が感覚的に分かるんでしょうね。

作品として表現されたものや、その周辺からダメダメ家庭を考える視点も得られることになる。しかし、芸術作品はダメダメ家庭のみがテーマとなっているわけではありません。
作り手の問題意識なり、作り手に降り降りてきた神からの霊感を作品から読み取っていくことにより、作品の受け手は、今までに気がつかなかった発想なり視点や問題点を自分の生活に取り入れることができる。それによって、家庭以外の領域においても、煮詰まった状況を打開できるヒントが得られることもある。それこそ、トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」は、昨今の日本社会の閉塞状況を考えるにあたって、見事な文献といえるでしょう。

作品と言っても、世の中には色々な作品があります。世に出た作品は、一般的にはジャンルで分類されたりする。文学とか音楽とか美術とかの大きなジャンル分けのその下に、また細分化されている。音楽だったら、ロックやクラシック、ジャズ、あるいはフォークソングと、より細かくグループ分けされ、それがさらに細分化されることになる。様々なスタイルの作品のうちで、周囲の人から芸術作品とみなされるようなものとしては、文芸作品の領域だったら、小説が代表例でしょうし、音楽だったら、オーケストラで演奏される作品が代表といえますし、あるいは美術においては、油絵であれば、芸術的と称されることになるでしょう。
その手の、アカデミックとも言える領域での作品だったら、ゼロから創作活動している、その活動の価値も、周囲の多くの人間にしてみれば、認めやすい。

もちろん、周囲の人から芸術的と称されるスタイルだけでなく、もっと別のスタイルの作品も存在します。たとえば文芸作品においても、小説のような典型的なジャンルだけではく、それこそ短歌や俳句のようなものから、あるいは、エッセイのようなものや、手記のようなものまで、色々なジャンルがある。
小説となると、一般的には、芸術作品と言われ、ちょっとした手記のようなものだったら、あるいはエッセイのようなものは、芸術作品とは言われない。
あるいは、エッセイとなると、「文化人さん」が書いたエッセイは芸術作品と言われたりしますが、「芸能人さん」が書くと、それはあくまで商品としての扱いとなってしまう。
多くの作品を、様々なジャンルで分類することはできて、そんな分類はプラグマティックな点において有効であっても、そのジャンル分けが、作品が持つ創造性の違いに対応しているかというと、そうではない。
それこそ、小説においても、評価の高い他の作品のいいとこ取りのパッチワーク的な作品もあるし、売れることを目的として、内容的には無難に徹しているような作品も多い。
あるいは、批評家や権力者に対して媚びを売ったような作品もあったりする。
あるいは、エッセイにおいても、その視点が芸術的なものなのか?それとも単に主観的で断片的な感想を書き殴っただけなのか?それはジャンルの問題とは言えない。
「一般の人から、あるいは、一般社会から、それが作品と称されるからと言っても、その作品が作品性を持つとは言えない。」とも言えるでしょう。
作品性や創造性や芸術性は、ジャンルやスタイルに依存するのではなく、その内容そのものを見ていくしかない。

それこそ、リルケの「マルテの手記」という作品は、タイトルに手記という文言が入っていて、実際に、手記というか日記の文面を断片的に集めただけのスタイルとなっていて、明確なストーリーを持ってはいません。つまり、一般的なスタイルの小説ではなく、その名の通りの手記のスタイルとなっている。
同じようなことは、ボードレールの「パリの憂鬱」にも言えるでしょ?「パリの憂鬱」は明確なストーリーをもつ小説でもないし、明確な形式をもつ詩集でもない。そのようなことはランボーの「地獄の季節」でも同じ。これらの文章も、形式的には小説や詩になっていなくても、芸術的な価値は高いといえるでしょ?
形式的な面ではともかく、「マルテの手記」や「パリの憂鬱」や「地獄の季節」は、一貫した意図を持って制作されています。しかし、たとえば、パスカルの「パンセ」は、学術書とはとても言えませんし、芸術的な意図を持って制作されたものでもない。パスカルは自身を芸術家とは思っていなかったでしょう。彼は自分自身との対話なり、内なる神との対話を「パンセ」に残したのであり、そのようなスタイルは芸術家のそれと同じでしょ?
「パンセ」は、作品としての構想もなく、断片を後になってとりまとめたものにすぎない。じゃあ、その「パンセ」に芸術的な価値がないかというと、そんなことを放言したら、「あらまあ!アナタは独特の教養をお持ちですねぇ・・・」と、冷たい視線を浴びるだけ。このようなことは、日本にも言えるでしょう。
「源氏物語」は、小説といえるでしょうが、「枕草子」となると、ストーリーも形式もない。
だからと言って、「枕草子」が取るに足らない文章だとは言えないでしょう。

作品の芸術性なり創造性は、ジャンルの問題や、作品のスタイルによって簡単に分類できるものではない。
やっぱり中身そのものに当たらないと、その作品の創造性や芸術性などは判るものではない。
そして、作品そのものが持つ創造性や芸術性の問題とともに、作品の受け手が、その創造性をどれだけ読み取れるかという問題も発生してくる。
すべての受け手が、その作品の本質を作品から取り出せるというものではないでしょう。
作品自体には、芸術性があっても、それを読み切れなかったら、作品の受け手としては意味はありませんよ。

このサイトでは、芸術作品を取り上げたりする際に、たまに、文章作品の分野における、翻訳家どまりとか、音楽の領域においては、演奏家どまりとか、あるいは、その他のジャンルでは、研究者どまりとか批評家どまりとか・・・いささか荒っぽい言葉を使ったりしております。
翻訳家も、演奏家も、もちろんのこと批評家も、ゼロから自分で作品を制作していくわけではなく、誰か別の人が制作した作品に乗っかる形で活動している人たちですよね?

まあ、このサイトの一連の文章を書いている私としては、その手の、「乗っかる」形で活動をしている人たちは、乗っかっている対象の作品を、本当には理解していない・・・そんなスタンスを基本的には取っております。
その手の人たちは、対象とする作品について、分かっていないが故に、翻訳をしたり、演奏をしている、そして、作品について本当に分かるような人なら、別の人の作品に乗っかるだけではなく、自分でも何か作品を作るだろう・・・そんなスタンスを取っております。
もちろん、それは私個人のスタンスであり、権威筋からオーソライズされているわけではありませんよ。まあ、権威筋からオーソライズされてしまったら、逆にヘンですよ。
だって、権威筋とは、まさに別の人の作品に乗っかる人なんですからね。
私の個人的なスタンスはともかく、じゃあ、その、演奏家さんや、翻訳者さんは、その演奏する作品なり、翻訳する作品を本当に理解しているの?
そんな問い掛けをすると、「何をバカなことを言っているんだ?内容を理解しているからこそ、その作品を翻訳したり、演奏したりしているんじゃないか?!」という反論が返ってくるでしょう。

しかし、その「理解している」と言っても、周囲の多くの人から「間違っていると言われない。」という二重否定のスタイルの「正しい理解」であって、作り手の問題意識まで踏む込んだ形で理解しているとは言えないのでは?
もし、ある人が、作品の作り手の問題意識まで踏み込むくらいに理解していて、その理解したものを公表したら、そんな人は、周囲の一般の人から「ああ!あの人は、その作品の本質をよく理解しているぞ!」と言われるの?
実際問題として、そうはならないものなんですね。

それこそ、作品の作り手の問題意識を、周囲の一般の人に対して「解説」したら、その「解説」を聞いた一般の人はどう思うでしょうか?
まずは、コレでしょ?
「あの人は、何を、わけ分からないことを言っているんだ?!」
あるいは、その解説にそれなりに説得力がある場合は、こんな反応になる。
「妙に納得した。」
と、「妙に」なる枕詞がついてしまう。つまり心から納得したわけではない。
作品を作るような人の問題意識は、いくらその解説の表現を平易に、そして客観的に表現したとしても、その視点として、一般人にはなじみがないものですよ。
ということで、一般人としては、自分たちに「なじみ」のある発想を上手に持ち出している「解説」を称揚することになる。
そんな態度は、一般人の怠惰さを意味しているのではなく、一般人なりの良識といえるもの。
接した作品を、受け手の理解の枠組みに落とし込むことが、いわば「解説」というものでしょ?
「なじみ」がまったくない、わけのわからない視点や発想の記述が延々と並んだ「解説」なんて、解説とは言いませんよ。一般人に受け入れられているという段階で、一般人の枠組みのフィルターを通過できているということ。それが作り手の側の問題意識を正確に伝えることにつながるの?あるいは、そのような一般人のフィルターを通過できない「解説」は発表する機会があるの?一般人の間で高い評価を得ることになるの?そんなわけがないでしょ?

翻訳にせよ、あるいは音楽の演奏にせよ、あるいは、批評にせよ、それらの行為は、作品と一般人をつなぐことがその役割といえます。それは、作品や作り手にとっても、有用なことでしょう。作品が「世に出る」ことに対して貢献していると言える。つまり、作品の商品性の面においては、役にたっている。
しかし、その貢献は、作品の創造性というか作品性の問題とは別問題でしょ?
前にも書いていますが、作品性を向いた解説をしてしまうと、それは解説にはならなくなってしまう。
演奏家や翻訳家や批評家などは、一般人が納得しやすいそれっぽい言葉を並べるのが仕事だし、そんなものでないと一般人は受け付けない。
批評家とかが一般人向けに都合良く誤解するから、表現された作品も商品として世に出ることになるわけで、それは誤解であるがゆえに、有用でもあるわけです。

もちろん、解説にあたっても、一般人を向いた解説と、一部の人を対象とした、本質を突いた解説を使い分ければいい。
使い分けはいいとして、じゃあ、その人は、作品の本質を分かった上で、解説の方向性を使い分けているの?
翻訳家とか批評家は、本当に作品なり、その作り手のことを理解しているの?

そもそも、作品の作り手は、どうして作品を作るの?
この問題については、まさに、この補足文章の本文といえる「生きるための言葉」という文章において考えております。
作品を作るような人は、まさに自分が負った心の傷を塞ぐための瘡蓋として、作品を「作らざるを得ない。」というだけ。しょうがないから、作っているだけですよ。
ロッキングチェアーに座って、パイプをくゆらせながら、「さぁて、作品でも作ってみようかなぁ〜」と思いたち、作品を作り出すものではない。
切実な問題意識なり、強迫的な心情があるからこそ、作品を作るわけです。
だからこそ、作品を理解するということは、その問題意識なり、苦悩なり、強迫的な心情を理解し、そして追体験する必要があるわけです。
つまり、作品を理解するためには、作者が持つ洞察力に近い洞察力を持つ必要がある。そうでないと、追体験もできませんよ。
そして、作品を理解できるような洞察力があれば、その洞察力は、作品の真髄を見いだすことには留まらないでしょ?
当然のこととして、実生活でも洞察してしまいますよ。
ものが見える人は、見たいものが見えるのではなく、見たくないものまで見えることになってしまう。
作品の中の心理が見える人は、作品の外の心理も見えてきますよ。

優れた洞察力を持ってしまうと、実社会におけるちょっとしたやり取りでも、相手のウソやごまかしや逃避が見えてしまうことになる。
作品中の登場人物の内面にある欺瞞が即座に理解できる人は、実生活における欺瞞も即座に理解できますよ。逆に言うと、実生活における欺瞞が即座に認識できないような人は、作品の中で描かれたシーンに込められた登場人物の心理描写が理解できませんよ。
そんなことは、言われてみれば、当然のことでしょ?

作品の中で描写された、人物の欺瞞が理解できれば、それは作品の「解説」なり、あるいは翻訳に反映することになる。しかし、実生活で直面した欺瞞はどうすればいいの?自分の目の前で行われた欺瞞にどのように向き合えばいいの?
カラオケにでも行って、歌って発散するの?
スポーツで発散するの?
そんな発散も、一時的には効果があるでしょうが、本質的には何も解決していないんだから、そんな欺瞞と向き合う日常が続くことになる。
相手の能力の低さによるストレスだったら、まあ、発散することもできるでしょう。
しかし、相手の欺瞞や逃避を原因とするストレスだったら、それは発散することはムリなんですね。欺瞞と向き合って受けてしまうのは、ちょっとしたストレスというよりも、むしろ「心の傷」という物言いの方が適切でしょ?不満は発散できても、心の傷は発散では解決しませんよ。
そんな「心の傷」ができてしまったら、まさにその「傷」に瘡蓋を施す必要になる。
つまり、作品を作らざる得なくなってしまう。

作品に対する洞察が、作品に関わるものの中に留まっていられるのなら、その見解は誤解なのであり、あるいは不十分なものといえる。
それこそ、メールマガジンの最終回でチェーホフの「いいなずけ」という作品をとりあげました。その作品の根本テーマは、翻訳家でも文学研究者でもない人、つまりチェーホフの同業者といえるトーマス・マンが言うように「生活の方向を変える。」というもの。
じゃあ、読者さんや解説者さんは、その「生活の方向を変える。」というメッセージを受けてどうするの?
「チェーホフは、ここで『生活の方向を変える。』というメッセージを発信しているんだよ!」と訳知り顔で解説するの?
その言葉は、言葉としては解説になっても、それは違っているでしょ?
「生活の方向を変える。」という意味を受けての対応は、自分自身について、そして自分自身の周囲について、新鮮な目で見つめ直すことでしょ?

そして、自分自身の目で、自分自身なり自分の周囲を見つめ直せば、都合のいいことばかりが見えてくるわけではない。じゃあ、見出されてしまった不都合な点はどうしていくの?
そんな思索こそが、「生活の方向を変える。」ということでしょ?
ただ、そのようなことは、作品の受け手にとっても、心理的に重荷になってしまう。
だから、一般の人は「生活の方向を変える。」というロジックは受け入れても、つまり、第3者的に受け入れても、その意味を自身に直接関わるものとして実感的に受け入れない。
しかし、それは、作品の真髄をつかんでいるとは言えないでしょ?

真実とは重く痛いもの。それは商品にはなりませんよ。
作品とは作り手の苦悩から生まれ、受け手の苦悩を生み出すもの。だから、商品にはならない。
現実社会で、重く痛い真実と向き合う人だけが、作品から真実を見いだし、作品の外では、傷つき、その傷を埋めようと、自分なりの活動に取り組むことになる。
現実社会から傷を受けない人間は、本質的に、作品なんて理解できませんし、傷を受けてしまうような人間だったら、たとえ、ジャンルとか作品のスタイルは様々なものであっても、自分なりにゼロから作っていくというスタイルで、何かを作らざるをえませんよ。
他の作品に乗っかる形で、自分の見解を乗せていくスタイルでは、作品以外のところから受けた心の傷には対処できないでしょ?

そういう意味で、翻訳家とか、演奏家とか、研究者とか、批評家は、作品の本質を理解していないんですね。
もちろん、翻訳家とか演奏家でも、一時的に、あるいは副業的に、その立ち位置にいる人だったら別となります。
それこそ、トリュフォーやゴダールなどのフランスのヌーヴェルヴァーグの映画作家の人たちは、批評家から出発しました。
当初は彼らも、他の作品に乗っかる形だったわけです。
しかし、結局は、自分なりの創作に向うことになる。
もちろん、批評家で留まっていた人もいました。それこそ、彼らと一緒に批評活動をしたアンドレ・ヴァザンという批評家もいます。
しかし、では、アンドレ・ヴァザンの批評はそんなに的確だったの?
私は以前に、そのアンドレ・ヴァザンがインタビューを受けていた映像を見たことがありますが、まあ、トンチンカンなものでした。
「○○主義」とか「△△論」とかの一般人がありがたがる用語を持ち出して、もっともらしく語っていただけ。

アンドレ・ヴァザンも、今となっては、批評活動というよりも、ヌーヴェルヴァーグの映画作家の人たちを支援したことこそが功績と言えるでしょ?
作品そのものへの理解はともかく、現実的には、作品における商品性への貢献も必要になってきますよ。
そんな点において、批評家も、翻訳家も、演奏家も、有用と言えるでしょう。
しかし、商品性においては有用であっても、作品性とは関わりがない。
そんな齟齬は、人類の創作の歴史においては、いつも起っているものなんですね。

それこそ、チェーホフは手記の中で、『正誤表・・・pervodchik(翻訳者)は、podriadchik(請負師)の誤植。』 と書いています。つまり、翻訳者は「内容を理解した上で」やっているわけではないと手記に書いている。あるいは作曲家アーノルド・シェーンベルクは、「モーゼとアロン」というオペラを制作しましたが、そのオペラは、古代のユダヤを舞台にしておりますが、ユダヤの信仰がテーマとなっている作品ではありません。神から直接的に霊感を受けるモーゼを作曲家のメタファーとし、モーゼの言葉を一般人に伝えるアロンを演奏家のメタファーとし、その間の無理解と齟齬を作品のテーマとしています。
ただ、そのようなことは、演奏家や批評家には分からないようです。
演奏家や批評家は、自分たちがその作品を理解していると、本気で思ってしまっている人も多い。演奏家の無理解をテーマとしているオペラを、演奏家さんが汗水垂らして演奏し、批評家さんが見当違いの解説をしていらっしゃる。まあ、だからこそ、オペラのテーマにもなってしまうわけだし、作曲家はますます苦悩するわけですが。
しかし、翻訳家も、演奏家も、有用であることは確かですよ。
作品が世に出るためには必要な人たちですよ。
しかし、その活動が作品の理解とは別問題というだけ。
作品の作り手は、身近な人間が自分の作品を理解できない現実に苦悩することになる。

だからこそ、トルストイの最後のようになってしまう。彼は、最後に家出をして、駅で野垂れ死となりました。
もし、トルストイが、自分の作品の内容を理解している具体的な人の存在を確信していれば、最後の最後には、理解してくれるその人のところに行ったのでは?
駅で野垂れ死ということは、そんな自分の理解者という存在を確信していないということでしょ?
あるいは、彼としては、「自分の文章の本質を理解できる人」は、逆に言うと、直接的に会わなくても理解し合えると考えていたのでは?

会わなくても理解し合える人は、別の人の作品を研究したり翻訳しているだけではなく、自分なりの作品も作っていますよ。
というか、作らざるをえない状態になっている。
作品の理解という状態は、受け手の側が作品を研究することで達成できるものではない。
作品を通じて、明確なイメージが目の前に立ち上ってくる・・・そのようなものなのでは?
目の前に明確なイメージが立ち上ってくることが作品の理解であり、そのイメージは、当人の意欲や意識とは無関係になっている。受け手にとっても、神からの意志に支配される状態になってしまう。意識で制御できないくらいに明確なイメージが現れることが作品の理解なのであり、そんな人は、人の作品を受容するだけではなく、自分なりに何かを作りますよ。

そんなことを一般の人に説明して判ってもらえるの?目の前のイメージこそが理解であるという発想を分かってもらえるの?
しかし、そんな感覚を共有しているもの同士、つまり同じイメージを持っているもの同士は、見ているものが同じなんだから、実に理解が早く、そして認識を正確に共有できる。
しかし、そんな理解は、良識のある解説とはいえず、もちろんのこと、多くの一般の人には受け入れられず、商品性を持つことはない。
逆に言うと、一般の人に受け入れられる解説というのは、目の前に立ち上ってくる明確なイメージとは無関係のものでしょ?一般の多くの人が満足する解説なり見解は、逆に言うと、公序良俗に配慮して、多くの一般人に受け入れられやすいもの。そんなものは、芸術家はテーマにしないというか、そこからの負荷こそがテーマになったりする。
一般の人にしてみれば、一般の人が受け入れやすい解説を求め、それを作品の理解と称し、一部の人は、目の前のイメージを共有することで、作品を理解する。
作品の理解という言葉を使っていても、共有しているものが違っているわけです。

そして、そのようなことは、何も作品の受容の問題だけではないでしょう。誰かから相談されるような状況においても、洞察力のある人は、与えられた情報から考えるというよりも、提示された情報から、イメージが立ち上ってくるという形になってくる。
それこそ、映画「羊たちの沈黙」では、クラリスからの相談を受けた檻の中のレクター教授が、そのような雰囲気で対応しますし、この私も人から相談された場合には、目の前に現れたイメージを見ながら回答していくことになります。
この私がそんなスタイルで相談の回答をしていくことは、実際にこの私に相談された方なら納得されるでしょう。

作品を理解することは、作品そのもののロジックを解きほどくのではなく、作品を作るに至らしめたものの声を聞くことの方が重要なのでは?
優れた作品は、結局のところは、神からの声の痕跡のようなもの。
痕跡は所詮は痕跡にすぎず、だからこそ、その痕跡を残したものの意図こそが重要になるでしょう。
作品を通じて、作品を作るに至らしめた神の意図も我々受け手に降り降りてくる。
そんな状態によって結び付く・・・それが芸術作品の理解であると、私は考えているんです。