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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 10年4月19日
タイトル 生きるための言葉 (言葉による覆い、瘡蓋)
 追記 作品の理解」について、管理者による長大な補足文章があります。
(11年2月8日アップ)
以前の08年に、エーリッヒ・フロムの著書である「自由からの逃走」を取り上げました。その中で「破壊性は生きられない生命の爆発である。」との記述があります。
自分自身を抑圧し、ひたすら周囲に合わせて「ふつう」に生きているのはいいとして、そんな状態だったら、確かに「いのち」はあるかもしれませんが、「生きている」とは言えないでしょ?「ふつう」ということで、周囲に合わせてばかりいたら、当人としては、生きている実感なんてありませんよ。
そして、その無理を何とかごまかそうと、ますます無理をする。だから、ますます「生きられ」なくなってしまう。そうやって自分を騙していても、騙しきれるわけもなく、やっぱり爆発しますよ。

現実社会の一員として、一人の個人が、自分の自由に生きられるわけもない。
ただ、マトモ家庭出身者は、出身家庭が規格品であるがゆえに、その人の発想としても規格品的となっている。つまり、当人の発想と、社会一般の発想との乖離は大きくはない。だから社会に合わせて自分を抑えると言っても、量的に大したことにはならない。
しかし、ダメダメの人間はそうはいかない。
ダメダメ家庭の常識と、一般社会の常識は大きく違っている。個別の事象で違っていると言うよりも、もともとの土台が質的に違っている。
だから、どうしてもダブルスタンダード状態になってしまう。だから、社会の規格に自分を合わせるのに多大な労力を要することになる。

常識の乖離が大きいダメダメ家庭出身者が、現実社会の存在として自由に生きるのは、現実的に困難と言える。
かと言って、「生きていない」と、いずれは爆発するのは、フロムが言うとおりですし、実際にそんな事件が起こっている。
じゃあ、どうやって「生きれば」いいの?

結局は、何かを生み出すことで生きるしかない。
それこそ、文章を書くとか、絵でも描くとか、マラソンでもして、自分なりのチャレンジをしてみるとか・・・
何か自分なりの達成感を得ていくことが必要になってくるわけです。
これについては、フロムも「自由からの逃走」の中で「愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるしかない。」と書いています。
愛と言っても、いきなり人を対象とするのではなく、まずは、趣味とか、自分なりの勉強とかの、一人でできるものに取り組むのがベターなんですね。いきなり集団でやろうとしても、周囲に合わせて、自分を騙す習慣が加速するだけ。あるいは、恋愛だって、いきなりそんなものに走っても、「入れ込み」「入れ込まれ」の修羅場になるだけ。
だって、自分自身や相手が見えていないままの状態で、恋愛の形を整えようとしても、本質的に無理ですよ。

一人で何かを作ったりチャレンジしたりすると言っても、そんな活動によって、お金になるわけでもないでしょうから、「いのち」は長らえることにはならないでしょう。しかし、「生きる」ことにはつながるでしょ?ダメダメ家庭の人間は、「生きる」か「いのち」かのどっちかを捨てる覚悟も必要なんですね。
別の言い方をすると、「いのち」ために生きるよりも、「生きる」ために生きるしかないわけです。「いのち」と言う言葉は、意味的には死の否定であり、「生きる」ということは、死を含めた形での一生の肯定・・・そのように違いがあるといえます。
逆説的になりますが、「いのち」と言う言葉は、本質的に否定形の発想に近い。
自分が死んでも、何かが残っていく・・・そのような成果を生み出したら、その人は、生きていたと言えるでしょ?自分の「いのち」を削ってでも、やり遂げたいことがあるからこその「生きる」でしょ?
そのためには、「どうしても残したいもの」について、自問自答しないとね。

一般社会との間の常識の乖離が大きいダメダメ家庭の人間が、この社会で生きていると、傷つくことばかり。だから、その傷に瘡蓋(かさぶた)を施す必要がある。
その瘡蓋によって、傷が治ったら、また次に取り組めばいい話・・・なんですが、現実はそうはいかない。現実的な困難が、次々に襲ってくる。傷だって次々とできてしまう。こうなると瘡蓋だらけになって、全身を覆うほどに。
瘡蓋で覆われるような事態になったら、呼吸困難で死んでしまいますよ。それに瘡蓋を作るにもエネルギーが必要ですからね。心の傷への対処としての瘡蓋を作り続けていたら、散々と無理をして、その無理によって更に傷が深くなる、そして結果的に、色々な理由で立ち行かなくなるもの。
かと言って、瘡蓋を作らずに、傷のままだったら、やっぱり病気になったり、死んでしまうでしょ?

ダメダメ家庭の人間は、抑圧的であり、現実や自分自身から逃避している。
それこそ、傷ができた際の対処においても、瘡蓋を作って対処するという方法ではなく、その傷を見ないという逃避的な方法を取ることも多い。
傷だらけになっているのに、それをそのままにして、「ワタシは悪くないわ!」「ワタシはふつうだわ!」と周囲に豪語するようになる。
そんな宣言によって、自分自身を騙し、周囲を騙し、ますます自分の状態から目を背ける。
そんな傷だらけの人間に近寄っていくマトモな人間がいるわけもなく・・・そんな傷だらけの人間の周囲は、同類のダメダメ人間ばかりとなってしまう。

傷ができたらちゃんと瘡蓋を作るようにするのが本来の形というもの。
もちろん、そんな瘡蓋が、何か経済的な貢献をするわけでもない。瘡蓋を作ったからと言って、生活が豊かになるわけでもないでしょう。前にも書いていますが、瘡蓋を作るのだって、その人のエネルギーを消費する。いわば自分自身の別の部分を削って、傷を治しているだけ。
だからと言って、傷を見ないという対処にも限界があるでしょ?

普段から、自分の傷から目を背けようと必死なので、ちょっとでもその点を指摘されると、まさに過剰反応することになる。
それこそ、生乾きの傷に手を触れられたような感じになって、「アチっ!」となってしまうようなもの。
そうならないために、まさに自分から先制的に、相手を攻撃したりする。
しかし、そんな余裕のない「攻撃」が、まさに、その人の傷の証明のようなもの。

本当に傷に向き合うのなら、瘡蓋を作る必要がある。
強固で密度の高いもので、傷を覆う必要がある。
強固で客観的な作品というのは、いわば心の傷に対する瘡蓋のようなもの。
そして、傷が治っても、瘡蓋は残ったりする
そして、その瘡蓋が向き合っていた傷について、後々まで伝えてくれる。
傷が治っても、あるいはその人が死んでも、瘡蓋は残り、傷や、その人について伝えてくれる。それこそが作品というもの。
それは、決して「○○主義」「△△論」とかの大層なご高説ではない。
そもそもそんな言葉を用いるような傍観者然とした人は、まさに面の皮が厚い人なんだから、本当の意味での傷なんてできない。だから瘡蓋の役割も分からない。

抑圧的な人は、傷に対して、自分を騙してばかりで、やがては別のところにも傷ができて、やっぱりその傷から目をそらして、そして、また別のところに傷ができて・・・と、結局はドッカーンとなってしまう。
前にも書きましたが、傷に対して瘡蓋を作って対処していても、結局は、瘡蓋が全身を覆ってしまう。しかし、その全身の瘡蓋こそが、まさにその人を示しているという逆説となる。さながら、デスマスクのようなもの。
芸術作品なんて、画家のゴッホのような、いかにもな人に限らず、そんなもの。
それは、絶望的だけど、それなりに、建設的なこと。
だって、その瘡蓋によるデスマスクによって、その人の苦悩を後世まで伝えることになるわけですからね。まさに傷によってできた瘡蓋によって、瘡蓋という形によって、生き続けることができる。
そのような瘡蓋は心血を注いだ結晶と言える。

傷から目をそらして傷だらけになったり、瘡蓋を重ねて瘡蓋まみれになるケース以外にも、ダメダメ人間は、第3の選択をすることも多い。傷の舐め合いで、お互いで楽しむようなことをする。確かに、舐め合いをすれば、全身の瘡蓋で呼吸困難になることもないし、傷からばい菌が入ることはない。お互いがお互いの傷を舐め合って、「ああ!気持ちいいわぁ!」「これが人間同士の結びつきねぇ・・・」と法悦のひと時。
ああ、なんて結構なこと!!
その快感が忘れられず、何かと言うと、舐め合うための傷を差し出して、「さあ!一緒に舐め合いましょう!」とやったりするもの。
そんな結びつきに安住している人に限って、トラブル状況から目を背けきれなくなると「ワタシは、ただ、ふつうの生活がしたかっただけなのに・・・」と周囲に語ったりするもの。
しかし、傷の舐め合い愛好家のどこが「ふつう」なんだか?
結局は、傷という自分の否定的な面を持ち続け、何も対処せず、やがては積もりに積もった「生きることができない生命」が爆発するだけ。

自分自身が生きていない状態から目を背けたり、ごまかしたり、あるいは、「悪いのは全部○○のせいだ!」とするから爆発してしまう。
前にも書きましたが、小さなレヴェルでいいので、何か「生きる」しかないわけです。
それこそ絵でも描いたり、文章でも書いてみるとかすれば、少なくとも爆発にはなりませんよ。

それこそ、トルストイは、最後は家出して、野垂れ死にでしたが、秋葉原の通り魔事件のようなことにはなっていないでしょ?まあ、トルストイの場合はドメスティック・ヴァイオレンスはやっていたようですが、それだって、いざとなったら、夫人も逃げることはできるでしょ?
あるいは、以前に取り上げた「フランダースの犬」の作者のウィーダですが、こちらも野垂れ死に。
本来なら、トルストイでもウィーダでも、あれだけものが見える人なんだから、秋葉原の事件の犯人よりも、もっと心の傷は深いものですよ。
しかし、トルストイもウィーダも、作品という瘡蓋を制作することで爆発を回避していたわけです。そして、後世の人は、死体の全身を覆う瘡蓋を取り上げ、「おお!トルストイはこんなことを見て、考えて、だからこんな作品を残したんだ!」と「作品鑑賞?」することになる。
あるいは、ゴッホのような自殺のパターンでも、誰か他の人を殺害したわけではないでしょ?自殺なんて、ちょっと過激ですが、野垂れ死にの一種ですよ。爆発というよりも崩壊に近い。前にも書きましたが、自分を否定して死んだというよりも、死を含めて生を肯定したパターンに近い。

後世の人に感動を与えるために心の傷を持ったわけではないにせよ、そして、作品に接して勝手に喜んでいる後世の人も、創作した人の本当の苦悩や傷を分かっているわけでもないけど、「それなりに」役に立ったりすることになる。
そんな作品のレヴェルまでは難しくても、ちょっとした同人活動くらいでもいいのでは?
秋葉原の通り魔事件ですが、インターネットの掲示板にグチを書き込むよりも、自分なりの漫画でも描いた方がいいでしょうし、そのような活動をしている人は、あんな爆発にはなっていないでしょ?
どちらかと言うと、ホームレスに転落して、崩壊していくパターンとなり、爆発になることはない。

まあ、ダメダメ家庭の人間としては、それでいいのでは?
いかにも「ふつう」からは遠い姿ですが、その人なりの最後の尊厳は保っているでしょ?
しかし、抑圧的なダメダメ人間は、「ふつう」を捨てられない。周囲の人に盲目的に合わせると言う「ふつう」を捨ててしまったら、自分で考えなくてはならない。
「ふつう」を掲げ、自分で判断することから逃避してきた人は、自分で考えることができない。
周囲の人に合わせようとしても、そもそもダブルスタンダード状態の人間が、自然に周囲に合わせることができるわけもなく、一時的にはそれができていても、そんな人が、周囲に合わせて、「ふつう」に結婚し、「ふつう」に子供を持ったりすると、その子供の側から、問題が発生してくる。

そうなると、「ワタシたちは、ふつうにやってきただけなのに、どうしてこんなことに?!」と嘆き、嘆くだけならともかく、結局は誰かを犯人認定することになる。
言葉による覆いによって、自分自身を騙すことをする。
それこそ、
「時代のせい。」とか、
「政治のせい。」とか、
「夫は子育てに非協力的だ!」とか、
「子供のせいでうまくいかない。」とかの安直な言葉で犯人認定してしまう。
そうして「アイツのせいで・・・」と恨みの心を向け、その対象に自分勝手な報復行為を行ったり、目を背けることで忘れようとする。

その恨みの心が、後になって収まったら、「かつてはワタシも、あの○○を恨んでいた。しかし、今は恨んでいない。」と言い出すことになる。「恨んでいる」とか「恨んでいない」とかの感情次元の問題にしてしまって、その傷の本質から目をそらしてしまう。
「恨んでいたが、今は、恨んでいない。」という物言いなんて、傷の例でいうと「昔は痛かったが、今は痛くない。」そんな程度の説明でしょ?「痛くない」のはいいとして、結局は、その傷は治ったの?今の状況はどうなっているの?

本来は、いつできて、どんな原因で、どこでできて、どれくらいの、どんな場所の、どんな影響があった傷なのか?そして、どんな対処をしたのか?そして、今はどんな状態なのか?そんな具体論が必要になるもの。
しかし、個別に考えることから逃避して、一般論に逃げ込み、単に一般論にするだけでなく、感情次元の話題にしてしまって、傷の具体的な認識からは逃避してしまう。
結局は、自分を騙す習慣がスパイラル進行するばかり。
と言うことで、普段から自分を騙し続けている家庭の子供が、「ヤツラは虫けらだから、殺してもいいんだ!」などと、やっぱり自分を騙して通り魔になってしまう。
以前より書いていますが「虫けらだったら、殺してもいい。」という考えはいいとして、そんな虫けらをわざわざ殺すなんて面倒ですよ。そんな虫けらは放っておいて、ゴッホのように絵でも描いた方がはるかにマシというもの。
結局は、当人が持っている敵意の本当の対象を見つめ、考えることからの逃避なんですね。

自分を騙すための、言い訳のための言葉で得られるのは、傷の舐め合いの結びつきだけ。
しかし、客観的な作品にすれば、傷が治っても、当人が死んでも、その作品が当人についいていつまでも語っていきますよ。
あるいは、過去の人が作った瘡蓋が、自分自身の傷にもピッタリしたりする。もう、こうなると、泣き笑いの境地。
傷の舐め合いだと、一時的なものでしょ?
しかし、ちゃんとした瘡蓋を作っておけば、別の人にも使えたりする。

自分が死んだ後でも残っているとなると、一番簡単に思い浮かぶのは、自分の子供という存在でしょう。
その人が死んでも、子供がその親について、様々なスタイルで語っていくことになる。子は親の鏡なんですから、子供が親の姿を伝えるのは自然なこと。規格品的なマトモ家庭だったら、そんな選択も充分にありでしょう。
しかし、ダメダメ家庭の人間にしてみれば、それは実に危険な選択なんですね。

ダメダメ家庭の人間は、子供と言う存在を使って、自分の傷に覆いをかけようとする場合も多い。ただ、本質的な対処ではなく、ただ、「見たくない。」というだけ。
結局は、「あとはオマエが何とかしろ!」と丸投げしているだけ。
そして、そんな他力本願な姿も、実際には親譲りで、「子は親の鏡」そのもの。
鏡なのはいいとして、やっぱり、傷への対処は何もしないまま。

瘡蓋を作る行為を、いつまでも続けることは無理でしょう。
しかし、傷と向き合うには、結局はそれしかないわけです。
そして、当人が死んだ後においても、瘡蓋がその人を伝えてくれる。
芸術家の歴史って、まさにそんなパターンなんですよ。

(終了)
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発信後記

今回の文章は、先週の金曜日の文章の続きのようなものです。
あと、次回の水曜日の文章と、金曜日の文章も、内容的につながっています。
何回も書いておりますが、03年9月から始まったこのメールマガジンも、今週で終了です。

私としては、ダメダメ家庭の問題を考えるに当たって、芸術の役割を重視しています。
自分自身を見つめること、そして、それを表現し、あるいは、他者の表現を受け取ること・・・
そんなことが、ダメダメの問題に対処するには必要なことなんですね。

ただ、現実的には、それこそボランティアのような人間が現れ、社会制度の問題にしてしまって、視点を外に持っていってしまう。だから不幸な状況が温存されてしまう。
そして、そんな不幸な状況を、「不幸への憧れ」に執りつかれた人間や、誰かに「恵んでアゲル」ことで、自分の役割を得ようとする人間が、「楽しむ」ことになる。
しかし、その犠牲になるのは、被害を主張することができない子供・・・
そんな状況がダメダメ家庭の周囲には、必ずあるものでしょ?
それを少しでも見えるようにできれば、それでいいんですよ。
R.11/2/8