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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
アップ日 10年6月12日 (11年1月14日 記述を追加)
タイトル 商品性
 かなり以前に配信した文章において、「チョット前に、ワタシが陰陽師に相談したら、ワタシとワタシの息子(たち)は、前世でも親子だとわかった!」と狂喜して語っている女性について言及したことがあります。

まあ、ダメダメ家庭の妄想癖も、ここまで来ると、至高のレヴェルと言えるでしょうが・・・
ありきたりなレヴェルを超えて、いわばダメダメの作品として昇華した・・・とも言えるのかも?しかし、当人自身ではなく、陰陽師に言われたんだから、単なる妄想とは言えないでしょう。

おもしろいのは、そんな陰陽師の話に狂喜するその人本人ではなく、相談という場において、そんな「アナタたちは、前世でも親子だったよ!」と回答を出す陰陽師の側です。
だって、見事なまでのサービス精神でしょ?

その手の相談だって無料ではないでしょう。
ちゃんとお金を払って、相談をしているんでしょうね。
逆に言うと、陰陽師の側としても、その支払ってもらった費用の分は、成果を出さないといけない。
「アナタと、アナタの息子さんは、前世でも親子だった。」との言葉は、そんな言葉を求める人間にしてみれば、見事な成果ですよ。
だって、その言葉によって、自分の子供にストーキングできる大義名分ができたわけですからね。
これ以上ないと言うくらいの、見事な成果であり、別の言い方をすると、相談を持ちかけた側は、支出した費用に対して相当するものを購入できたとも言えますよ。

だからこそ、その陰陽師は、人気が出てくることになる・・・んでしょうね。
いわば、払った分だけ「モトが取れる」陰陽師というヤツ。
なんとスピリチュアルで、エコノミカルな陰陽師だこと!!

ダメダメ家庭の人間は、その種の「見返り」に対して敏感です。
見返りの心理の背景にあるのは、被害者意識。
「このワタシが、わざわざ、こんなことを、アナタのために、やっている・・・」そんな形で、自分の持ち出しと言うか、損失分というか、被害の面に視点が行っている。
だから、「わざわざしてやった分に対しては、ちゃんと配慮しろよ!」となる。
逆に言うと、自分の持ち出しに対して、相手から配慮がない場合には、非常に立腹することになる。
被害者意識が強い人間にしてみれば、自分の被害に対して配慮がないと言うことは、自分の全存在を否定されたように受け取ってしまう。
だって、被害者としてしか自分を語れないだから、その被害を認めてもらえなければ、その人の価値などは何もなくなってしまうでしょ?

見返りに対する過剰な反応は、以前にも触れております。
そんな人は、当然のこととして、映画などを見た際には、「支払った分だけ、ワタシを楽しませろよ!コラ!」と、ふんぞり返るばかり。
あるいは、本などの文章を読んでも、「せっかく、このワタシが読んでやっているのに、もっと役に立つようなことを書けよ!」となる。
作り手の意図などはまったく眼中に無く、常に自分が「支払った」、いわば犠牲行為に視点が行っている。

しかし、その「楽しませる」とか「役に立つ」と言っても、まさにダメダメ人間にとっての「役に立つ」。
自分の問題点が認識できたとか、新しい知見が得られたとかのことではなく、「直面している現実から目を背ける一時的な楽しみ」とか、「ワタシが、かわいそうな被害者だと認める理屈」がほしいだけ。
「アナタはこんな理由でかわいそうになっているのよ!悪いのは全部○○のせいなのよ!」という理屈をお金を出したり、時間を使って得ているだけ。
逆に言うと、お金を出した以上は、そんな理屈を求めている。
相談という場において、陰陽師が行ったような商品性の高い回答は、「かわいそうな被害者」と認定するだけのもの。つまり、スポンサーに都合のいいことしか言わない。そして、スポンサーは大喜びし、リピーターになる。

相談を持ちかけた側の人に対しては、その人にとって「役に立つ」理屈をつけてやれば、それこそリピーターとなって、何回も来てくれますよ。この点は、マトモな人にとっても同じでしょう。ただ、その「役に立つ」が、マトモな人間にしてみれば、問題の解決につながるものであるのに対し、ダメダメ人間にしてみれば、現実から目をそらすことにつながっていると言うだけ。逆に言うと、目をそらすために、ますますそんな論理を求めることになる。
そんな顧客は、商売人にとっては、まあ、まさに鴨そのもの。
目を背ける理屈を買ってばかりなんだから、相談の原因となった事態は何も解決しない。そのツケは、お金を出すことができない弱い立場に集約してしまう。
スポンサーの側は、金を払って、自分にとって都合のいい「犯人」とか「理由」を教えてもらうだけ。
いわば、スポンサー・オリエンデッドの回答を買っているだけ。

逆に言うと、いわゆる世評の高い相談相手というのは、まさに「相談を持ちかけてきた人にとっての都合のいい理屈」を提示するだけの存在であることが多いものでしょ?
それこそ、子供の登校拒否のような事態での相談でも、ダメダメな親は、「親は悪くない。」という言葉ばかりを集め、「こんなことになってしまって・・・ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くばかり。
そんな甘い嘘を、お金を出してまで得ようとする。
だから、相談される側も、商売になるし、それこそ、宗教団体も、そんな甘い言葉がオハコ。

あるいは、以前に起こった長崎の小学校6年生の殺害事件ですが、以前に手記を取り上げた被害者の少女の父親ですが、相手先を糾弾する言葉ばかりを求め、悦に浸っていましたよね?逆に言うと、そんな父親の姿から、あの事件の背景も見えてくるわけです。
あるいは、その事件の舞台となった長崎県の教育関係者も同じでしょ?
「インターネットが悪い。」とか「時代が悪い。」とかの論理を、権威者から買い取って「ああ!オレたちは、なんてかわいそうなんだ?!」と嘆いているだけ。

ダメダメな人ほど、「自分こそが一番かわいそうなんだ!」と確信があるので、それ以外の論理なり視点は受け付けない。
書籍のような分野おいても、事態を分析し、思索し、あるいは、歴史的な視野を踏まえての解説などは、商品性にならない。
「あーでもない、こーでもない。」と「誰も傷つかない議論のための議論」の方が商品性がある。
マルグリット・デュラスが『感じがよくて、何も残らず、夜がなく、沈黙がなく、真の作者がなく、昼間向きで、時間つぶしに最適で、よき旅行のお供・・・』と定義する『おもしろくない本』の方が商品性が高いわけです。
まあ、マルグリット・デュラスが「おもしろがる本」と、一般人に「売れる本」は、現実的には違いますよ。

商品とは、規格化され、多くの人に受け入れやすいもの。
一回性を持ったものは、商品ではなく作品と言われるでしょ?
表現の分野だと、芸能は、まさに商品であって、お客がお金を払った分だけ、笑ったり、ハラハラドキドキすればいいし、それが目的と言える。
しかし、芸術だと、その作品によって衝撃を受け、ものの見方が変わった・・・と言うのが芸術作品と接するということでしょ?

だから商品はブームをもたらし、
作品は、物議を巻き起こすもの。
ブームになるという時点で、それが商品であることが見えてくる。
毒にも薬にもなるものは、ブームにはなりませんよ。

あるいは、作品に接するということは、癌の告知を受けるようなもの。その告知を受けてどうするかは本人の問題でしょう。しかし、逆に言うと、最後の輝きに到達できる可能性もあるでしょ?
目をそらしてばかりだと、そのまま死んでしまうだけ。
精神的な苦悩はしなくてもいいのかもしれませんが、尊厳とは無縁でしょ?
癌の告知は、ものすごく重要な情報だし、尊厳のためには価値が高いけど、もっとも聞きたくない情報でもある。
商品性と作品性の区別で考えれば、痛みを和らげるのが商品性であって、真実に向き合うことに導くのが作品と言えるでしょう。

作品とは毒にも薬にもなるものであって、心の中に後々まで残ることになる。
メールマガジンの最終回において、チェーホフの「いいなずけ」を取り上げましたが、その主要なテーマは「生活の方向を変える」と言うものでした。生活の方向を変えるんだから、読んだ後こそが問題になるわけです。チェーホフのその作品に限らず、読んだ後で読者の中にどれだけ「残すことができるのか?」と言うことこそが作品の力でしょ?
作品というのは、そのように「残る」わけですが、商品としての文章は、読んだ時点で役割が終わってしまう。というか、作品のように「後に引く」内容だったら商品にはならない。
まさにデュラスが言うような「暇つぶしに最適」なものこそが良質の商品ですよ。

簡単に読み飛ばせるものこそが商品となり、誤解のないように厳密に書いた文章は商品にはならない。しかし、文章の書き手に「分かってほしい」明確にイメージがあるのなら、「分かってほしい」ことが、読み手に「分かってもらえる」ことこそ重要になるでしょ?
読み飛ばせる文章を目指すわけにはいきませんよ。
毒にも薬にもなるものだからこそ、厳密に書き込む必要があるわけですし、読み飛ばすことができる文章は、逆に言うと、毒にも薬にもならないということ。

真実は多くの人に傷をもたらしてしまう。抑圧的な人は、そんな状況から逃避する。
トラブルが多発するところほど、スポンサーの人たちが一番傷つかないロジックにつながるものが、トラブルの原因とされてしまう。お金を出して、「ワタシたちは悪くない。」という論理を得ることになる。だから何も対処しない。
状況を流してくれる言葉を求め、何も対処しないで済むロジックを理由としてしまう。

見ないで済む、考えないで済む見方だけを求めてしまう。
自分たちが考えるための視点なり考え方は求めない。
自分たちが嘆くために最適な視点なりロジックを称揚する。
その結果として、何も考えないことが肯定されたので、家庭内暴力のような状況に陥っても、何も考えずに、平気で妊娠してしまう。

被害者意識が強く、そして自分で考えることから逃避しているダメダメ人間は、商品性は受け入れても、作品は受け入れられない。
芸術作品を理解できないくらいなら、現実生活において、大したことにはならないでしょう。
チェーホフとかエルフリーデ・イェリネクさんが、「芸術を受け入れると言っても、多くの観客は前から分かっていたものを再確認するだけ。」と言っていますが、まあ、現実的にそんなものでしょう。
鋭敏な芸術家が制作した作品を、一般人が、ありのまま理解するのは難しいに決まっていますよ。
じゃあ、「芸術以外の分野では作品性を受け入れられるのか?」その点が重要になってくるわけです。

芸術作品はともかく、そんな人が自分の子供をどのように認識しているの?
そんな人にしてみれば、子供ですら、一回性を持った作品ではなく、商品に近い扱いとなっている。
自分にとってのかけがえのない人物ではなく、問題が起こらなければそれでいいという、その他大勢で、「ふつう」で、規格品的な存在として、別の言い方をすると、「商品」として、自分の子供を認識している。

商品として認識しているわけだから、子供に対し「育ててやったんだから、その見返りをせよ!」と要求し続けることになる。まさに、「払ったティケット代金の分だけ、ワシらを楽しませろよ!」と、ふんぞり返る映画館の観客のようなもの。
直接的に言わないまでも、何かあるとスグに見返りを要求している親の姿を見続けているんだから、子供の側としては「育てられた見返り」を出さないといけないと、常に切羽詰ってしまう。

商品性しか認識できないので、自分の支出に見合った甘い言葉を求める。逆に言うと、甘い言葉ばかり求める人は、自分の目の前がどんなにヤバイ状況であっても、自分で対処はしないもの。
事態がヤバクなったら、また、お金を出して、自分で対処しなくてもいい理屈を買うだけ。
何も考えず、何も見ずに、突っ走る。
ますます状況が悪化しても、そんな状況になってしまった被害を説明してくれる甘い言葉を求めるだけ。
そんな状況になると、ボランティアの連中がやってきて、甘い言葉を相手に掛け、そして、その見返りとして、ボランティアの側も、相手方から甘い言葉を得ようとする。
甘い言葉で納得してしまって、事態に何も対処しないので、結局は、事態が行くところまで行ってしまって、ドッカーンとなる。
そして、実際に事件が起こった後になって「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くばかり。
そして、その後になって「苦い真実」を書いた文章を見せられると、「フンっ!起こった後では何でも言えるわよ!」と、ふて腐れる。

よく、「良薬は口に苦し」と言いますが、実際にそんなものでしょ?
もちろん、「口に苦い」ものが、これすなわち「良薬」とは言えない。
しかし、やっぱり「真実は苦く、嘘は甘い」もの。
甘いものには罠があったりする。
聖書で言う、「羊の皮をまとった偽預言者に気をつけよ!」そのもの。
甘い言葉ばかりを求めている人は、まさに愚鈍の予定調和に陥っているだけ。

そんな「調和」がいつまでも続くわけもなく、やがては大きなカタストロフに至る・・・それが、その手の事態のお約束の流れというもの。
自分にとって厳しいものを受け入れられない状況になったら、結果的にドッカーンとなってしまうのは、それこそトルストイ描く「アンナ・カレーニナ」でもそのパターンだったでしょ?

被害者意識が強いダメダメ人間は、商品性にこだわるわけですが、逆に言うと、自分自身の一回性というか作品性に到達できない。
まさに「ふつう」となろうとする。
逆に言うと、「ふつうになりたい!」という言葉は、自分自身を規格品的な商品としてみなしているわけで、その心理的な背景として、自分自身からの逃避の心情があるわけです。

商品性にこだわる人は、たとえば、ホームページのアクセス数とか、書籍の発行部数とかに異常にこだわることになる。しかし、読者に対して、どんなインパクトを与えたのかについては何も関心を持たない。まさに多くの人が関心を持つという「ふつう」につながるということ自体に関心を持ち、中身には関心は持たないわけです。
単に自分自身から逃避しているくらいならまだしも、そんな人はあらゆることを受身のスタイルで認識し、結局は、自分の被害と認識するわけだから、スグに報復することを考える。
それも、自分で考えることから逃避しているんだから、その状況認識も、あるいは事態の理解も「て・き・と・う」となっている。そんな「てきとう」に設定した犯人認定を、報復行為によって、確定しようとする。
と言うことで、商品性にこだわる人は、外見上は、ちゃんと見返りに配慮してくれる「律儀な」人と言えるわけですが、その背景としての被害者意識にまで考えてみると、実に危険な存在なんですね。以前にもちょっと触れましたが、メールマガジンの購読者数に関心を持つ人は、例外なく逆上いたします。文章においても商品性という観点で見る人は、実質的には危険人物なんですよ。

結果として商品となっているのは、まあ、しょうがない。それに、ある意味において、結構なこと。それだけ、人々に受け入れられているわけですからね。
しかし、商品性だけを目的としたり、あるいは、商品性以外を受け入れられない状態になっているようだと、その背景にある被害者意識に注目する必要があるわけです。

さて、上記で、作品性を癌の告知に喩えております。
そんな視点で見てみると、このサイトの文章は、「癌の告知の集大成」のようなものと言えるでしょう。
猛烈に価値があるけど、猛烈に不快でもある。
知りたくもあり、知りたくもない。
マルグリット・デュラスの言う「おもしろくない本」の対極の位置づけでしょう。

実は、以前にある人とのやり取りでその点について痛感したんですね。
「アンタの文章は、ものすごく役に立ちそうな文章のようだし、多くの人の関心にも繋がっているけど、どうして本にならないの?」そんな質問を受けたわけです。

私としては「見たくないものを見せている文章だし、文章で記している指摘に何も反論できないがゆえに、読み手にとっては心理的にダメージとなってしまうから、商品にはならないんですよ。」「読んでいる人自身のクリティカルなところを突いている文章と言えるでしょうしね。」「だから、お金を出して買おうとは思わないのでは?」と回答したわけです。
まあ、私の文章のレヴェルまでクリティカルなところを突く必要はないでしょうが、商品性というものが、結局は、癌の痛みへの麻酔に過ぎないことは認識しておかないと、尊厳と無縁のまま生涯を終えることになってしまう。

「尊厳と無縁だけど、『ふつう』なんだから、それでいいじゃないの?」
そのように思われる方もいらっしゃるかも?
しかし、いわゆる一般の人でも、「それなりの」尊厳があるものですよ。
凡人には凡人の尊厳があるもの。
だらぁ〜と流れているだけの人は、凡人なりの尊厳にも到達できないわけです。
商品性を目指しているがゆえに、煮ても焼いても食えない人間になる・・・
ダメダメ家庭の周辺では、実にポピュラーな流れでしょ?
この「商品性」と反対なのが「作品性」というか「一回性」となります。一回性については、「10年4月21日配信 一回性」でまとめてあります。
 R.11/1/14