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カテゴリー | ダメダメ家庭の親のキャラクター | |
配信日 | 03年12月24日 (10年11月12日 記述を追加) | |
タイトル | 信心深い | |
意外に思われるかもしれませんが、ダメダメ家庭というものは、信心深い家庭の場合が多くあります。それこそ、どこかの教団で一生懸命に善意の活動をしていたりする。 信心深さがダメダメに繋がると書くと、奇異に思われる方も多いでしょう。しかし、信心深い親というのは子供にとっては大敵です。何と言っても、子供を見る以上に、神様を見ているのですからね。 子供は親の言葉や行動に反応したりしますが、神様は決して反応したりはしません。ですから、神様を愛するのは自分の子供を愛するよりラクになるわけ。 日本人のオーケストラ指揮者の小澤征爾さんがウィーンの国立歌劇場への音楽監督就任後のデビューに持っていったのは、チェコの作曲家ヤナーチェク作曲の「イエヌーファ」というオペラでした。 「イエヌーファ」と言うオペラは、ロシアの作家の戯曲を元に、作曲家のヤナーチェクが台本を書いています。 このオペラでは「教会のおばさん」と言われる、信心深く、皆から尊敬されている女性が、自分が育てた養女が未婚の母となってしまって産み落とした「父なし子」をこっそり殺してしまうことになります。 「信心深い善人」という称号を守るためなら、子供だって殺すことができる・・・それが信心深いと言うことの一面と言えるでしょう。 実際問題として、ある人が神様に向かって祈っている横で、お腹を空かした子供が倒れていたらどうするの?神様へのお祈りを優先するの?子供へのサポートを優先するの?祈りを中断して倒れている子供にケアしたら、その人は、信心深いと言えるの? あるいは、自称クリスチャンの女性が、多くの人に対して「神様の話」を告げるためにと称して土曜日に公園を通って、様々な家庭を訪問するよくある光景があったりしますよね?「何か困っていることはないですか?神様はアナタたちを愛しているんです!」と呼びかけたりするもの。それはそれでいいのですが、素通りした公園で実際に困っているホームレスの方はどうするの?現実として難しい問題ですね?自称クリスチャンさんは、新約聖書の「よきサマリア人」の話は知らないのかな? 信心深い人は、そのようなことを考えなくても済む人であると言えます。人から与えられた御高説を疑いも無く受け入れることができるわけ。つまり知性と感性が鈍感であるわけです。鈍感であるがゆえに、子供にとっては大敵となるわけです。おまけに、いわば権威主義者。権威筋から与えられた正論を問答無用で語る。家庭においてもっとも必要な「会話」というものが成立しない存在であるわけです。 と言うか、より現実的に見てみると、信心深い人は、目の前の現実なり目の前にいる子供の話を見たくも聞きたくないがゆえに、権威筋認定の教義に逃げ込んでいるわけ。 自分の子供と、自分の間に、宗教的な教義をおくことによって、現実から逃避しているんですね。 権威筋認定の教義に従うだけの状態を確保することによって、自分の目で現実を見て、自分なりに考えることから逃避するための大義名分としてしまうわけ。 従っているだけなんだから、精神的にはラクチンとなる。 それに、うまく行かない状態になっても、「ワタシはただ、言われたことに従っていただけなんだから・・・ワタシは悪くないわ。」と言い訳も出来る。 自分で認識し、自分で考えることからの解放が、信心深さの裏面なんですね。 それこそ、宗教とは関係のないマターである「自分の子供を幸せにしたい。」との課題であれば、その子供の意向を真摯に聞く必要もありますし、自分の子供時代についての省察も必要になってくる。当然のこととして、社会一般に対する見解も持つ必要がある。 それこそ、子供に、海外旅行のような体験をさせた方がいいのか?どこかの学習塾に通わせた方がいいのか?ピアノなどのお稽古事はどうか? そのようなことを考え出したら、きりがありませんよ。 それに、そんな判断には、それなりに「結果」も出てしまう。出費した分だけの成果があるというものではないし、不都合な事態になってしまうこともある。だから、親としての自分の判断のミスもわかってしまうわけ。 後になって「ワタシは悪くないわ。」とは言えない。 しかし、仏教の言う極楽浄土に行くためには、実にラクなものでしょ? 100万円くらいを出費して、居士とか信女の称号を買えばいいだけ。 だから、信心深い人は、自分の子供に対しては何も出費せず、ひたすら、信心のために出費するわけ。そんな姿は、自分のすべてを信心に捧げている・・・とも言えるものでしょ? それはまさに信心深い人の姿ですし、それは精神的に見て、実にラクなこと。 だって、当人自身としては、何も考えなくてもいいわけですしね。 子供の幸福については、親として色々と考える必要がありますが、宗教的な幸福は、現実的にはお金さえ出せば買えるわけ。 お金で「見ない」「考えない」こと、そして「立派な外見」が買えてしまうわけだから、たとえば、従業員に対して問答無用でやっていた会社のオーナーさんが、突然にヘンテコな宗教団体に入信したりするケースもあるでしょ? そんな行為も、「見たくない」「考えたくない」そして、「お金で片がつく」「命令と服従の関係」という点で見ると、共通しているわけです。「人の話を聞きたくない。」「自分で考えたくない」という逃避的な心情の、ヴァリエーションに過ぎないわけです。 信心を高らかに語る人ほど、自分の家族のことは語れないもの。 ただ、教えられた大義をオウムのように連呼しているだけ。 そして、それゆえに、精神的にはラクと言える。 ちなみに、オペラ「イエヌーファ」の作曲をし、台本を書いたヤナーチェクは教会で育った人。信心深いとされる人の正体をよく見ているわけです。 またスウェーデンの映画監督のイングマル・ベルイマンも教会育ちですよね?ベルイマンの作品にも、信心深い人が出てくる映画が多くあります。 ベルイマンの作品に出てくる「信心深い人」は、例外なく、子供の敵ですね。 一般的なことばかりではなく、このような会話もあるでしょう。 「お母さん!ちょっと相談をしたいことがあるんだけど・・・」『うるさいわね!今、神様にお祈りしている最中なんだよ!ツマラナイことは後にしてくれ!』 案外よくある会話?でしょ? 子供だって、神様より先の順番になるのは遠慮してくれますよ。 このようなことを書くと、キリストが言っている「私は人と人が争うようにするためにいるのだ!私は神様のために存在しているのであって、人間のために存在しているのではない。」という言葉を思い出す人もいるでしょう。キリストは人間の現世の幸福に貢献する気は毛頭ないわけです。 キリストが主張しているのは、天上での絶対的な幸福なのですからね。 自分の子供よりも、神様を愛すること・・・キリストはそのように言っているわけ。 だからと言って、キリストは「汝の隣人を愛せよ!」と言っているわけです。自分の言葉によって反応する隣人・・・そのような身近な人間を愛すること・・・これは自分の言葉に反応することがない神様を愛するよりはるかに難しいこと。 自分自身からの声なり、自分の目の前にいる人の声を聞かないことは、神の声を聞くこととはイコールではないでしょ? 目の前の現実の存在を否定することが、神の存在の肯定に繋がるというものではないでしょ? 目の前の存在をしっかりと見ることが、その先にある神を見て、その声を聞くことに繋がるのでは? 神様は黙って愛されてくれます。しかし隣人や自分の子供は簡単には愛されてはくれないのです。 (終了) *************************************************** 発行後記 クリスマス・イヴということで宗教的なお題でした。 と言っても、反宗教的なのかな? |
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R.10/11/12 |