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カテゴリー ダメダメ家庭の親のキャラクター
配信日 04年11月3日
タイトル ソツがない
フランソワ・オゾン監督の「8人の女たち」という映画で、こんなセリフがありました。
「私が夫を殺したのは、夫がソツのない人だったから。」

何事にもてきぱきとやり遂げるソツのなさという点は、一般的には美徳とされていますし、実際に「いいこと」なんですが、何事においても「過ぎたる」は問題があるといえるもの。

このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」では、家庭を持つのにふさわしくない人間なり、子供を育てる意欲や覚悟そのものがないダメダメ人間について触れていますが、全く逆のケースもあるわけです。

子育ての意欲が高く、実際に能力も高い・・・そんな親のケースです。
別の言い方をしますと、「ソツのない」親のケースですね。

そのようなソツのない親は、子供にとって理想的とも思えるでしょうが、そうは簡単にいかない。
それこそ最初に挙げたオゾン監督の映画のセリフにもあるように、ソツのない同居人という存在は、いいことばかりではないわけ。

ソツのない人間と同居していると、ちょっと自分がミジメに思えてしまうんですね。
自分が必死で考えて、大変な労力を掛けてやり遂げたことを、その「ソツのない同居人」は涼しい顔をして、簡単にやってしまう。
自分が試行錯誤の末に、やっとできたと思ったら、そのソツのない人は、先の先まで読んで何の苦労もなくやり遂げてしまう。

その「ソツのない人」当人としては、そのこと自体を、意識せずにやっているわけ。その人にしてみれば、「ここで気をつけないといけない。」とか「こうやれば、こうなる。」ということが何の努力もなくわかってしまうわけですね。
だからこそ、失敗する人の気持ちがわからない。

「あの人は、どうしてこんな簡単なことがわからないのかしら?」
「この人は、どうしてこんなところで失敗するの?」
そんな表情で、失敗して落ち込んでいる人を見たりするんですね。

そりゃ、そんな表情で見られたら余計に落ち込んでしまうでしょう。ミジメになっちゃいますよね?まあ、映画のように殺したくなってしまうのかも?

これが友人同士とか夫婦などの同格の場合は、問題も少ないでしょう。
友人だと、毎日会うわけではありませんから深刻にはなりませんよ。
むしろ、そのようなソツのない人を、頼りにすることだって多い。
だって、友人関係だったら、必要な時だけ会うということができるわけだから、美質の面だけで付き合うこともできるわけ。夫婦関係においても、そのような相手のキャラクターをわかった上で結婚したんだから、それなりの対処方もありますよ。
しかし、親子のように「格が違う」場合はもっと深刻になったりします。おまけに親子だと毎日顔を合わせるでしょ?子供も逃げ場がないわけです。

子供にしてみれば、そもそも親という存在は人生の先輩なんだから、自分より物事をよく知っていますよね。
その点は「ソツのない親」だけでなく、ダメダメな親だって同じでしょ?
しかし、「ソツのない親」の元では、子供が体験できないものがあります。
それは失敗することです。

ダメダメな親だったら、子供は失敗することをふんだんに体験できます。ふんだんすぎて、子供がダメになってしまいますが・・・
しかし、ソツのない親の元では、子供は失敗というものを体験できないわけ。

ソツのない親は、子供が失敗する前に、事前に手を打ってくれるわけ。
それは、子供にしてみれば実にありがたいこと。
しかし、子供時代に失敗の仕方を勉強しておかないと、後々では失敗を勉強できないでしょ?
子供だからこそ許される失敗も、世の中にはありますよ。

大人になって成果をあげる人は、「失敗をしない人」ではないんですね。「上手に失敗する人」なんです。だって、新しいことをやろうと思ったら失敗もつき物でしょ?絶対に失敗しないように・・・などと考えていたら、何も新しいことはできませんよね?

失敗の影響を最小限に抑え、その失敗から有効な教訓を引き出す。そして同じ失敗を繰り返さない・・・チャレンジし、成果を上げるためには、そのような失敗を扱う能力が必要であるわけ。このようなことは子供の頃に「上手な失敗の仕方」を練習してないと無理ですよね?

しかし、「ソツのない親」の元では、子供自体に失敗が体験できないだけでなく、「完璧な親」の姿を見ているので、子供がたまたま失敗をしても、それを親に隠すようになってしまう。失敗との関わり方がわからないわけ。
失敗を、いわば「未熟」といった形で認識すれば、次にはその点を注意しながらやり直せば済む話でしょう。しかし、ヘタをすれば、未熟ではなく、「悪」のような倫理的な観点で見たりするようになってしまう。未熟なら成熟すればいいけど、「悪」なら対処しようがないでしょ?
失敗した未熟な子ではなく、失敗した悪い子となってしまうんだったら、親にも言えなくなってしまいますよ。失敗からのリカヴァリーの方法を見ていないので、失敗した子供も、対処の仕方がわからずに、失敗を抱え込んでしまうわけ。
だから、子供が親に対して「私は、こんな失敗しちゃったぁ・・・」と笑って報告することがなくなるわけです。

しかし、しょうがないですよね?だって子供の前の親は「間違い一つしない完璧」な人間なんだから・・・
そのような状況では、子供の失敗を親が受け入れてくれる・・・という子供の側の信頼がないわけです。子供が親への信頼がないという点では、絵に描いたようなダメダメな親と全く同じ状況といえるわけです。

それに「ソツがない」人間ということは、感情によって自分を見失うことがない人間であることもわかります。だからいつも完璧にできるわけでしょ?感情の振幅が小さいということ自体は悪いことではありませんが、子供にとって、ちょっととっつきにくいとも言えますよね?

このような「ソツのない」親の存在によって、問題が深刻化することが多くあります。子供は自分の問題を親に隠すわけですからね。家庭内から問題が消えてしまうわけ。
それにこの手の家庭は、「ソツのない」親を責めるわけにもいかない。だって、本当に何が悪いの?

しかし、自分がこの手のソツのない人間だと自覚したら、何か失敗できることを進んでやってみる必要があるわけです。子供の前で自分の失敗を見せて置くわけ。
新しい料理で失敗するなり・・・
「お母さんも、失敗しちゃったぁ・・・」
そんな姿を子供に見せることも必要でしょ?子供だって安心するでしょ?

「ソツのない」人間にしてみれば、失敗することは、成功することより難しかったりします。しかし、子供時代に「上手な失敗の仕方」を体験しておくことも、必要なわけです。失敗体験の無い子供って、ヘンでしょ?同じように子供時代は泣いたりすることも必要ですよね?「涙でパンを濡らしたことのない人間は、人生の本当の味がわからない。」って、ゲーテさんも言っているじゃないですか?

物事がいつもちゃんとできる「ソツのない」人とか、頭が良すぎる人って実際にいますよね?本人はなんの苦労もなくやり遂げてしまえるので、苦労する人の気持ちがわからないわけ。だから、そのような人は、いつの間にか人を傷つけていたりするものです。
だからそんな人は、往々にして、お酒の席で、同僚にからまれたりする「苦労」を体験することになったりするものなんですね。

(終了)
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発信後記

前回の「クレーマー」というお題でちょっと補足です。
クレーマーあるいはストーカーは、自分自身には自覚がないものです。「自分はクレーマーだ。」とか、「自分はストーカーだ。」とか自覚のあるクレーマーはいません。自分自身は正しいことをしていると思っているわけ。だから解決が難しいわけです。

その折に触れました大阪での島田紳助氏の事件ですが・・・
その女性のクレームが金目当てということではないでしょう。彼女としては「自分は正しいことをしている。」と考えているんでしょう。それに実際に暴力を振るわれたわけですしね。

しかし、彼女には味方が出てこない。ダメダメ家庭出身者には味方が少ないことは以前に配信しております。会話ができないので、味方もできないわけです。
弁護士とか警察に相談する以前に、友人とかが出てこないの?あるいは親は何やっているの?

彼女もそれだけ、以前から頼るものがいない切羽詰った精神状況だったわけです。だから彼女も同情すべき立場なんでしょうが、芸能人にクレーム付けてもしょうがない。まあ、彼女には同情しても、まさか彼女と一緒に仕事をしたいと思う人はいないでしょ?それがこの事件の結論なんですね。彼女も問題の解決は自分自身をしっかり見つめることから始めないとね。


さて、前回、このメールマガジンの関する補足説明をいたしましたが、今回もちょっとした補足をいたします。
先日、とある本を読んでいましたら、20世紀フランスの哲学者ミシェル・フーコーの言葉が出ていました。
彼によると「哲学というものは『見えているものを、見えるようにすることだ。』」ということなんだそう。そして「現在では、哲学的思索は哲学以外の領域で活発に行われている。」

おお!いいこと言うねぇ・・・ミシェル!ただのホモオヤジではなかったんだねぇ・・・って、まあ、これは当然ですが・・・
それに、フーコーは「問題化」ということを主張したとのこと。

メールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は「家庭という領域において、『見えているものを、見えるようにする。』」というコンセプトで、まさに「問題化」の試みです。

フーコーだったら私の文章の意図を十分に理解してくれると思いますが・・・
まあ、逆にそれがこのメールマガジンの限界であることは言うまでもないことですね。
フーコーが理解できるからと言って、一般の読者の理解を簡単に期待できるものではありませんし・・・

購読者の方より、購読者数を上げるためのアドヴァイス?をいただくこともありますが、私は購読者数には拘ってはいないんですよ。まあ、購読者数がヒトケタだったらちょっと寂しいでしょうが・・・
私は家庭という身近な世界に目をこらし、遠くの人々に語りかけているつもりです。
近くの人が聞いていただけるのは大変にありがたく思ってはおりますが、購読者数を上げるために節を曲げるつもりはありません。私としては皆様がご自分の流儀で、考えるきっかけを作れればいいなぁ・・と思っているだけです。

ただ、できるだけ読みやすい文章にはしたいと思ってはおります。実例をできるだけ取り上げ、センテンスの作り方にも工夫したりと・・・
ただ最近は文章自体が長くなりすぎてしまって、大変に申し訳ありません。

実は次回配信のものは、超巨編! 本文で8000文字(ワードで11枚)あります。
ダメダメ家庭を理解するためのキーとなる考え方を取り上げました。
この考え方を理解できると、今まで配信した文章や今後配信する文章がかなり理解しやすくなると思います。
文章自体は読みやすくなっているとは思いますが、異常に長いので、プリントアウトしないと読みにくいと思います。
この「ソツのない」という文章に関連した文章として、購読者さんからの投稿文章をもとにした 10年2月21日配信文章の「無意味なところでソツがない」という文章があります。
R.10/11/16