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カテゴリー ダメダメ土曜講座(トピック編)
配信日 10年2月21日
タイトル 無意味なところでソツがない 読者投稿の文章を中心とした文章です。)
今回はいささか番外編的に、購読者さんからの投稿の文章です。
投稿の文章の後に、発行者の私による補足があります。

ハンドルネーム「ナマケモノ」さんからの投稿です。
タイトルは「無意味なところでソツがない」

***文章はここから***
小学生の頃、遊び終えたテレビゲームを自分で片付けようとしたところ、目の前で母親に片付けられたことがありました。

遊んだのは子供でしょ?
自分で片付けるのが筋でしょ?
母の家事を邪魔してるわけでもないのに何で?

この行動の意味を考えてみました。

○ソツがない
母親はテキパキと仕事をこなす人です。状況の飲み込みも速いから、人の仕事でも簡単に解決できる。

○相性が悪い
私はのろまで、些細なミスの立て直しにも時間を要します。母親にしたらイライラするのでしょう。

○行動バカ
単体で見ると気配りある行動です。でも自分の遊びの後片付けのときにやられたら嫌ですよ。成長の妨げです。
それだけ周囲の事情が眼中にない。むしろ「自分ってイイ子でしょ?」というアピール目的に見える。

○自分の母親から逃げている
母方の祖母は床に臥せることが多かったそうです。
冷たい母親に目を向けたくないから、私にイイ子アピールをする。
どうも私の母の時は、実家で止まっているようです。
だったらいっそそこから出なければいい。
そしたら私は、不遇にならずに済んだのに。

***投稿の文章はここまで***

まずは、上記の文章中での記述で、今までのメールマガジンで該当するとなると、

ソツがない」  「相性」 「気配り、目配り」 「いい子アピール」 「自称いい母親」 「実家との距離

と、とりあえずは、こんな点が上げられるでしょう。

さて、子供のゲーム機を強引に片付けてしまったその母親ですが、ある意味において、そんなことはよくあること。まさに「ふ・つ・う」の母親の姿でしょう。

しかし、この投稿の方は、それこそ10年以上経っても、まだ覚えている。
マトモ家庭の出身の人だったら、ゲーム機を母親に片付けられてしまったことなんて、そもそも覚えてはいませんよ。
Hな本を目の前で勝手に片付けられてしまったことだったら、アブラ汗と供に思い出すこともあるかもしれませんが、ゲーム機だったねぇ・・・

そういう意味で、その時点での体験なりその光景そのものに意味があるわけではない。そこに至るまでの過程の積み重ねに意味があるわけです。

まずもって、この母親と子供の間には、信頼関係ができていない。
傷の生乾き状態だからこそ、ちょっとのことで大きなダメージになってしまう。

逆に言うと、どうしてこの母親は、そんなに無理にもゲーム機を片付けたのでしょうか?ゲーム機のどこが気に入らなかったの?
抑圧的な人間は、子供が楽しんでいるのが許せない。
子供が楽しそうというだけで不快になってしまう。
気に入るものは、気に入らないもの」の状態。

あるいは、子供が「自分の世界」を持つことが許せない状態。
この手の母親は、子供の学校での作品を「な〜に、この絵は?」などと酷評したりするものです。

さて、ここでの子供のように、自分がやろうとしていることを、目の前でサクサクやられてしまって、まさに、何とも言えない「テンテンテン(・・・)」となってしまう心情は、共感できる方も多いでしょう。
この投稿者さんは、その「・・・」を必死で考えているわけです。何とかして言語化しようとしているんですね。

しかし、前にも書きましたが、たかがゲーム機を片付けられてしまったくらいでは、本来は、キズついたりはしないもの。キズの生乾きだったからこそ、インパクトが大きいくなってしまう。
逆に言うと、どうして常にキズの生乾き状態だったのか?
その点が重要になるわけです。
まあ、その点は、この投稿者さんも、自分の記憶との格闘をしている最中なんでしょうね。

さて、この母親は、「ソツがない」親とのことで、この手の「ソツのない」人間が伴侶を選ぶ際には、「使いやすい」人間を選ぶことがあります。「自分が全部指図するから、アンタはそれを聞いて従っていればいいのよ。」無意識的にそんな発想を持っているパターンも多い。もはや周囲の人間を当てにしない習慣ができてしまっている状態。

逆に言うと、伴侶を選ぶ際に、対等な関係であることを前提に相手を選んでいるのなら、「ソツのなさ」による悪影響は大きいものではありません。では、この投稿者さんのご家庭の父親はどんな状態なんでしょうか?
なんとなく「影の薄い夫」の雰囲気。

ソツのない人間と、それに従う人間という家庭内の構図だからこそ、序列的に安定はしても、会話が消失してしまうことになる。そんな状態だったら、子供だって自分の意向を言いようがないし、言っても「鼻で笑われる」だけ。親から鼻で笑われる日々が積み重ねっていれば、いつだってキズの生乾き状態でしょ?

その手のソツのない人間が言い出す「正しさ」は、制度的には、あるいは、教育的には、確かに「正しい」わけですが、心情的に価値があるのかというと、また別問題。外見的には正しくても、内面的に正しいとは言えない。
別の言い方をすると、「正しい」がゆえに、命令と服従の関係になってしまって、子供の心情が無視され、会話が消失し、だからこそ信頼につながらない。

ソツのない人間に支配されている側の人間は、思考や表現を抑圧するようになり、どうしても影が薄くなってしまう。「どうせ自分が考えても、母親がスグに否定して、もっとうまくやってしまうさ!」なんて、あきらめの日常があるので、自分で判断しなくなってしまう。

そんな人による表現は、ボンヤリしたものになりがち。
まさに「テンテンテン(・・・)」が習慣化、日常化された状態。自分自身の思考を抑圧している状態なので、逆に言うと、その人なりの認識や判断や表現にならず、言っていることが型どおりのものになりがち。どうしても、漠然として、一般論的になってしまう。やり取りにおいて相手から合意を取ることよりも、相手が反論してこない点が優先されてしまう。
だから、やり取りにおいても、どうしても相手に伝えたいこと、どうしてもわかってほしいことがなくなってしまって、「人に合わせすぎる」パターンになってしまう。

自分なりの「Yes or No」の判断を明確にせず、「テンテンテン」で自分の判断を保留しているうちに、相手側が何か見解を出したら、「そうそう、ボクもそう思ったよ。」とその見解に合わせたりする。

それこそ、こんな感じのやり取りになってしまう。
「この件について、キミはどう考えるの?」
『えーとぉ・・・それは・・・』
「オレは、こう思うな!」
『そうそう!ボクもそう思ったよ!』

しかし、そんなことばかりしているので、やり取りの相手によって、言っていることが違ってきてしまう。結局はやり取りの相手から「アイツはいい加減なヤツ!」とみなされてしまう。

しかし、自分で考えることを抑圧する習慣になっているので、逆に言うと、自分が合わせればいいだけの状況を求めてしまうことになる。いまさら、自分で考えることが心理的に怖く、自分が「テンテンテン」のままでいられる状況を欲してしまう。

「ソツのない人間」によって、抑圧が習慣化しているがゆえに、そんな人にとって、自分をリードしてくれる相手でないと困ってしまうわけです。しかし、そんな相手を選んでいるからこそ、ますます抑圧が日常化してしまう。逆説的になりますが、ソツのない母親によって傷ついてしまって、そんな母親を嫌っているがゆえに、当人としては母親のようなソツのない人間を求めてしまっているという状況にいる。
これでは、閉塞するばかりですよ。

だから「人に合わせすぎる」自分の問題点を自覚した上で、じゃあ、「どうしても伝えたいことは何なのか?」そんな「自分との対話」が必要になってくるわけです。

実は、この投稿者さんの文章を拝読して私が思ったのは、「アレ?この方って、以前にやり取りした○○さんじゃないの?」と言うものです。
自分自身を抑圧している人は、それゆえに、その人の存在自体が、一般論化し、周囲に配慮しすぎてしまって、毒にも薬にもならなくなってしまう。以前に書いた表現を使うと、「うつろな人」となってしまう。
だから、その表現スタイルや空気感が似てきてしまう。
だから、「人物を変えて再登場」のような趣になりがち。

さて、今回のメールマガジンの文章は、「ソツのない親」の言動によって、自分の感情を押さえ込み、「テンテンテン(・・・)」という言葉にならないような心情になってしまう子供の例を、投稿の文章と共に考えております。
このメールマガジンは結構難しいことを書いていますから、購読者さんの知的レヴェルは高いでしょう。ただ、知的レヴェルと勘の良さは別物だったりする。
勘のいい購読者さんだったら、今回の文章をここまで読んできて「アレレっ?」「なんじゃ、こりゃ?!」と思ったのでは?

そうなんですね!
口下手な方の必死な表現を、ソツなく見事に展開して、サポートして、「片付けて?」しまっているのが、私の補足の文章。
まさにこの投稿者さんの文章にでてくる子供と母親の関係性が、そのまま今回の文章で再現されてしまっている。

「アンタの言いたいことって、要はこういうことでしょ?」
「こんな感じで言えば、もっとわかりやすいのにぃ・・・」
「アンタはいつも、口下手なんだから・・・」

自分を抑圧している人間は、そんな見事なリードに「テンテンテン(・・・)」となり、黙って従うばかり。
私としては、この投稿者さんの気持ちを抑圧するつもりはなく、メールマガジンの文章として読み応えのあるものにしなければならないので、それなりの補足が必要になってしまっているだけです。まあ、それが毒にも薬にもなるわけですが。
だから、すべてが語り終わった後で、補足の文章を追加しております。言い終わる前に、「要はこう言うことでしょ?」とやっているわけではありませんヨ。その点は私も注意しないとね。

いずれにせよ、この投稿者さんにしても、最初からうまく行くわけもない。どうしても伝えたいこと、わかってほしいことを、ちゃんと自覚して、それを少しずつでも伝えていくしかない。

ソツのない人間と常に一緒にいると、その人に従っていればいいだけになってしまう。それに反論しようにも、ソツのない相手はいつだって正しいわけですからね。だから自分では何も判断せずに、自分なりの「Yes or No」を明確にしない。そんな「テンテンテン」だからこそ、いわば「Yes」と「No」の『境界線』が消失してしまい、何事にも境界線が消失するようになってしまう。

たとえば、一つの物事を最後までやり遂げ、最後を締めるという発想がなくなってしまう。
何かに取り掛かっても、ちょっと不都合な事態になったら、スグに次のものに対象が移ってしまったりする。
結局は、何も完成しない「テンテンテン」のままのものが、積み重なってしまう。
一つの事態における「Yes or No」の判断がない人は、まさに、そのキャラクターとしても「ボンヤリ」とした「テンテンテン」な人になってしまい、結局は自分自身が消失してしまう。

自分が消失しているから、「他者も心理的に存在しない」。
だから「主観と客観の区別」が本質的にできていない。
会話のスタイルは習得できても、その背景としての「思いやりの心理ベース」がない状態。
だから「人の気持ちもわからない」。

だから、やり取りでコケたりして、結局は、自分をリードしてくれる人間を求めてしまう。
そして、人に合わせることがスパイラル進行してしまう。
そんな状況になったら、自分自身に立ち返ることが必要になるわけです。
そして、どうしても伝えたい思いを、その出来栄えは気にせず、とにもかくにも作り上げるしかない。
その「作品自体が、自分自身を教えてくれる」こともありますよ。

この私の補足の文章だって、投稿者さんの「作品」を解説している意味も持っています。
この私は、書き手当人以上に理解できるというだけですよ。
ソツのない人間に従うのではなく、ソツのない人間を利用するようにすればいいだけ。
この私のような人間だって、わかった上で利用すればいいだけですよ。

この投稿者の方も、鍵穴からの光景で、部屋中を見渡すような私の文章を参考にしながら、自分でも歩み始めたというわけでしょう。
まあ、ビギナーなんだから、この私のような巨匠芸に至っていないのは当然のこと。
しかし、まずは自分なりに書いてみるということが重要ですし、自分なりに書いてみると、別の光景とのリンクもできるようになる。
それこそ、ゲーム機を片付けられてしまった事件と似た事件の記憶。
その時に抱いた感情とよく似た感情を持った事件。
あるいは、自分の母親のそんな行動とよく似た行動を、別の人から受けた。
あるいは、服装だったり、趣味の問題だったり、食事の問題なり、レジャーの問題なり、あるいは、ペットの問題だったり・・・
あるいは、友人の母親の行動との相似性だったり、違いだったり。
あるいは、同じような情景を描いた芸術作品とか。

そんなところまで発想を広げれば、ダメダメの問題もより深く、かつ広く認識できるようになるわけです。
そして、そんなことを、自分なりに考えていくしかないわけです。
この方は、まずはその出発点に立たれたということでしょうね。

(終了)
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発信後記

予告いたしておりました購読者さんよりの投稿の文章です。
と言っても、投稿の文章よりも、補足の解説の方が圧倒的に長くなってしまっております。
文章として客観的な形として出す以上は、結果として役に立つ立たないは別として、読んだ方にとって、示唆的なものにしようとする発想自体は持っていないとダメですからね。

いずれにせよ、自分で何かやってみて、形にしないと、自分自身も見えてこないわけです。
そんなこともせずに、「ミンナはどうして分かってくれないの?」と言われても・・・何も表現されていないものを分かるわけがありませんよ。

ということで、皆さんも投稿の文章の作成でも検討されてはどうでしょうか?
このメールマガジンの配信ももうすぐ終了の予定ですが、適宜、ちょっとした文章はバックナンバーのサイトにアップしていくつもりですので、そんな追加文章のような形でもOKということなら、是非にも採用させていただきたいと思っております。
 R.11/1/1