トップページに戻る | 配信日分類の総目次に戻る | |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ | 笑えた文章のチョイス |
カテゴリー | 形への依存 | |
配信日 | 05年1月31日 (11年2月4日 記述を追加) | |
タイトル | ヒューマンドラマ愛好家 | |
「現実と虚構を混同している。」って、未成年の凶悪事件があったりすると、ほとんどお約束で出て来るコメントですね。 まあ、そんな言葉を持ち出す人としては、「とにかくさぁ〜、これ言っときゃ、いいんじゃね?」とでも思っているんでしょうか?もう思考停止状態そのもの。 この「現実と虚構を混同している。」という言葉は、ソフィア・コッポラ監督の「ヴァージン・スーサイズ」という映画を考えるに際し、ちょっと触れています。 しかし、実際に事件を起こす子供だって、現実と虚構の区別くらいはついているでしょう?「人間が死ぬところを見たかった。」とか言っても、「現実と虚構の区別」が本当についていないのなら、何も苦労して現実の人間を殺す必要もありませんよ。 そんな面倒を掛けるよりも、ゲームなどの虚構のシーンを見て楽しんでいればラクですよ。現実と虚構を区別できているからこそ、わざわざ手間を掛けて、現実の人間を殺したんでしょ?そんなことは、論理的に考えれば、小学生でも分かること。そんな凶行をした人は、結局は、自分自身に生きている実感がないということなんですね。自分自身の生きている実感を求めて過激なことをしてしまう。 あるいは、劇場的で過激な儀式として犯罪行為を行い、自分を騙そうとするわけです。 儀式性を持つがゆえに、それは現実の中の行為であっても、ある種の非日常性を持つ事になる。 それを、「現実と虚構を混同している。」とかのありきたりな言葉で説明するのは、まあ、知能やボキャブラリーの貧困そのものでしょう。 「現実と虚構を混同している。」って、お約束の言葉なんですが、子供だってそんなにバカではありませんよ。 むしろ「現実と虚構を混同している。」なんて言葉が当てはまったりするのは、大人の方だったりします。 「えっ?大人がゲームの影響で人を殺すの?」 いやいや、そんなことではありませんヨ。 ダメダメ家庭の親は、「絵に描いたような虚構の世界」を、強引に現実に当てはめようとするんですね。それこそ、この手の事例の代表例とも言える、「絵に描いたような立派な家庭」の姿を実現させようと四苦八苦している親については、別のところでまとめております。 現実の自分の家庭を直視するのではなく、自分の家庭にべき論を強引に当てはめるわけです。 理想に燃えるこの種のダメダメな親が好きなのは、安手のヒューマンドラマ。 「大変な苦労をするが、主人公はいつも前向きで明るくゲンキ!やがては、人から尊敬される立派な人間になる。メデタシメデタシ。」そんな感じのドラマです。まあ、NHKの朝のドラマなどがこんな感じじゃなかったかな? 見ていて楽しいかもしれませんが、そのような「絵に描いたようなヒューマンドラマ」はあくまで虚構でしょ?勿論のこと、見る際に「現実と虚構が区別」出来ていればいいでしょう。虚構は虚構として楽しめばいいだけ。 しかし、ダメダメ家庭の親は、虚構の方を現実に当てはめようとする。 「どんな苦難があっても、明るく前向きにガンバレ!!」と子供に対し命令することになる。 子供に対し、「ガンバレ!」と励ますのはいいけど、『親として、アンタもちょっとはサポートしてよ!』って、励まされた子供の側は思いますよね?しかし、ダメダメな親は「ガンバレ!」と励ますだけなんですね。 理想に燃えるダメダメ人間は、このようなフィクションの中の立派な主人公をスタンダードとして考えてしまう。そして自分の子供に対し、「オマエも彼女を見習え!」「彼女のように生きるべきだ!」と、お説教。 その手の人は、現実の問題を自分の目で見ていない。安手のヒューマンドラマのフィルターを通して現実を見てしまっている。 「ドラマと違っているから、現実の方が、間違っているんだ!」 そんな感じなんですね。 しかし、現実は多様でしょ?そんなありきたりのヒューマンドラマを強引に当てはめようとすること自体が無理でしょ? しかし、その手のヒューマンドラマ愛好家は、往々にして、現実を無視して虚構の方を尊重する。現実が、明るく前向きに生きる人ばかりでないのが気に入らない。 だからと言って、その「後ろ向き?」の人に対し具体的なサポートをするわけでもない。 ひたすら「ガンバレ!前向きに生きろ!辛いことがあっても、いいこともあるわ!」と、説教するだけ。 実は、この「ダメダメ家庭の目次録」のような、家庭問題を扱ったメールマガジンなどには、この手の「安手のヒューマンドラマ愛好家」の人がやってきたりするものなんですよ。 「逆境を背負いながら、明るく前向きに生きる姿を見たい!!」 そんな関心を持って来ているのかもしれませんが、感動のシーンをそんなに見たければ朝に早起きしてNHKのドラマでも見た方がマシですよ。 NHKのドラマだったら、視聴者に配慮した穏当な表現でしょうし、それなりに起承転結があって感動もできるんじゃないの?自慢じゃあありませんが、私のメールマガジンは、読者に配慮はしていませんよ。私の文章を読んでも、「そっちの方面」での感動はありませんよ。別の方面での感動はあるかもしれませんが。 たまに、「すさまじい洞察力だ。」なんて言われますからね。 まあ、この手の家庭の問題を扱ったメールマガジンには逆境の事例には事欠かないでしょうね。それを楽しみに来訪する人もいてもいいとは思います。だからと言って、部外者が当事者に対し「前向きに生きろ!」と説教してもねぇ。 このメールマガジンではありませんが、私もその手の女性に遭遇したことがあります。以前にちょっと書きましたが高校生とのことでした。 「大変に辛い過去があったかもしれませんが、前向きに生きようよ!」と、皆さんに呼びかけている。 そんなことをしている当人は、善意を語る自分の立派さに酔いしれているんでしょうが、現実の人間は色々でしょ? そんな呼びかけをしている高校生が、クラスの中で今現在実際に困っているクラスメートをサポートしているのかな?まあ、実際にサポートしていれば、そんな呼びかけをするヒマなんてありませんよ。 結局は、現実の人間は見ていないわけです。だから「安手のヒューマンドラマ」の世界しか分からない。だから、ヒューマンドラマの世界で描かれているような逆境がありそうなところに首を突っ込んで、自身の善意を語ることになる。 しかし、ヒューマンドラマなんて現実の多様さの中のほんの一例でしょ? 現実を自分の目で見ることなく、ヒューマンドラマの世界を通して見るような人間が子育てをしたら? 子供だって、親好みの陳腐なヒューマンドラマの登場人物を演じるしかないでしょ? 親に対しては、ドラマのヒロインのような表情をするしかないじゃないの? 日頃から、そんなよそ行きの表情の子供を見ている親は、 「いつもゲンキいっぱいの明るい子供だわ!!」、 「ああ、私の家庭って、なんてすばらしいの!!」と、大喜び。 結局は、子供としては自分自身を偽って、親に対しては、ドラマのセリフのような規格品的な言葉を言うだけになってしまう。 どうせ、親に対して本音を言ったところで、聞く耳は持たないわけですからね。 この手の人間は、ドラマにあるような規格品的な言葉や感情や行動だけを受け入れ、それ以外の発想は、まさに非国民扱いになってしまう。 「まあ、この子は、なんてことを言うんだろう!ワタシは情けないよ!テレビのあの○○ちゃんを見習いなさい!」と、自分の子供を烈火のように弾劾することになる。 この手のヒューマンドラマ愛好家は規格品的な、別の言い方をすると商品的な逆境に対してのセンシビリティが高い。 そこから努力する人に接して、異常に高揚感を得ることになる。 それこそ、「感動をありがとう!」なんて言葉を臆面もなく言い放つ。 しかし、逆境とかハンディキャップを認識し、そこからの努力は認めても、その努力による成果には関心がなかったりする。 つまり、視点が減点面だけになっていて、加点法的な発想をしないわけです。 ハンディを克服するという二重否定的な努力には注目しても、「○○を達成する。」というシンプルな肯定のスタイルになると、関心がなくなってしまう。 別の言い方をすると、「ふつう」になるための努力には注目しても、その人なりの自己実現には関心を持たない。 それこそ、世の中には盲目のピアニストの方が、複数、いらっしゃいますよね? 盲目というハンディキャップにもめげずに、プロとしてピアノを弾いていらっしゃるんだから、そうなるためには大変な努力があったことでしょう。 その努力に対して敬意を持つことは当然のことですよ。 しかし、いざコンサート会場でピアノに向ったら、盲目であろうとなかろうと重要じゃない。ピアノによって作り出す音楽こそが重要になる。 ピアニストにとっては、コンサート・ピアニストになるまでの努力に価値があるのではなく、コンサート・ピアニストとして作り出す音楽こそに価値がある。 しかし、人の逆境に対して過剰に注視し、そこからの努力に注目するダメダメ人間にしてみれば、逆境からの努力に感動してしまい、音楽はどうでもよくなってしまう。 実際に、盲目のピアニストさんのコンサートを聞いたことがありますが、まあ、絵に描いたような減点法的な演奏で・・・ケチは付けようがないけど、逆に言うと、「だから、何なのさ?」という演奏でした。 セールスポイントが逆境からの努力というのは、プロの演奏家の姿勢ではないでしょう。 作曲家が制作した楽譜から、今までにない音楽情報を取り出し、それを自分の力で表現してこそ、プロの演奏家というもの。 そもそも、盲目の方は楽譜も読めない。 なんでも、盲目のピアニストの方は、ご母堂がピアノで演奏して、その音から、楽譜を記憶するんだそうですが、だったら、自分なりの視点で楽譜に接することはできないでしょ? 「ふつう」の演奏はできても、自分なりの独創的な演奏は現実的に無理ですよ。 逆に言うと、ピアニストのような演奏家ではなく、作曲の道を進むのであれば、盲目というハンディも相対的に少なくなる。本当に音楽がやりたいのなら、そんな方向に進むことの方がクリエイティヴなのでは? ハンディやそれに伴う努力を売り物にして、音楽を売り物にしないのは、音楽家としてどうなんだろうか? 私としては、その盲目の方の演奏を聞きながら、考えたものでした。 ただ、まずもって、聴衆が、その手のドラマを求めているんでしょうね。 つまり、その盲目のピアニストは商売になる演奏家といえるんでしょう。 多くの聴衆は、音楽によるドラマではなく、ハンディに向き合うヒューマンドラマを求めているんでしょう。 芸術家が全身全霊を込めた表現は無視して、逆境からの努力には涙する。 ピアニストの境遇には関心があっても、音楽には関心が低い。 そんな態度が音楽の面だけで収まっていればいいわけですが、そんなわけがない。 そんな人がどのように子供を育てているんだろう? 人の表現とどのように接するのだろう? その手の人は、ハンディを克服したいという根性?には関心があるのでしょうが、「これを何としても表現したい!」という強い思いを受け入れることができるのかな? 私としては、逆境からの努力を否定するものではありませんが、それを売り物にしてしまうと、安っぽくなってしまうと考えております。しかし、そんなドラマを好きな人が多いのも事実でしょう。そのようなドラマを好きなこと自体は当人の問題ですし、現実と虚構を区別して楽しんでいればいいだけ。しかし、そんな安手のヒューマンドラマ愛好も、度が過ぎてしまうと、まさに規格品的で商品的な苦境や努力が跋扈してしまい、現実の問題が軽視されてしまう。その結果として、子供の「逆境」が作られ、現実の逆境のドラマが生まれる・・・そんなものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 先日、とある方より頂戴したお便りが、PTAなどの問題でした。 PTAなどが、各種のメディアの表現について検閲をしていることについてのご意見でした。 しかし、PTAこそ「現実と虚構を混同している総本山」なんですね。 重要なことは、今自分の前にいる子供が何を考えているのか?という原点に立ち返ることでしょ? 決して社会の問題ではないわけ。一人一人の人間の問題なんですね。 |
||
R.11/2/4 |