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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の活躍分野
配信日 06年2月10日  (10年4月8日に大幅に改訂)
タイトル 掲示板常駐者
以前に「ベルリン・フィルと子供たち」という映画を取り上げました。そこで演奏された曲はストラヴィンスキー作曲の「春の祭典」という曲。
ストラヴィンスキーはロシアの生まれで、パリで活動していました。彼はカメレオン作曲家と揶揄されることもありますが、時期によって次々と作風を変えた人。
同じようにパリで活動し、作風を次々変えて行った芸術家がいます。有名な画家であるパブロ・ピカソです。彼はご存知のようにスペインで生まれ、パリで活動したわけ。

ストラヴィンスキーとピカソは、作風を次々変えていった芸術家というばかりではなく、外国人という共通点もあるわけ。美術と音楽というジャンルは違っても、新古典主義の時代など同じ時期に共通の作風のこともありました。双方とも長生きで、2人は仲良しでした。

このメールマガジンは芸術史のメールマガジンではありませんから、これに関して色々と書いてもしょうがない。しかし、ピカソだったか、ストラヴィンスキーだったか、どちらかにインタビューの機会があってこんな質問があったそうです。

「あなたとピカソさんは仲良しで、よく、おしゃべりをしていたんですよね?」
それに対して「違う!我々はおしゃべりなどしてない!会話をしていたんだ!」と怒ったそうです。

おしゃべりと会話は全然違います。
勿論、使用される言葉の量が違いますよね?会話だとどうしても長くなる。だって相手にわかりやすく伝えようと思ったら、それ相応の長さは必要になってくるでしょ?
しかし、おしゃべりは言いっ放しでいいわけ。それに対し会話だと相手の言っていることをちゃんと聞き、内容を理解する必要があります。それを踏まえた上で、自分の見解を発するもの。
その往復運動でしょ?
会話だったら、相手の話の内容を理解した上で、こちら側の見解を発する必要があるでしょ?
人の話を理解しようと言う意欲そのものがない人を相手には会話はできませんよ。

以前に、鳥取大学の学生が、東京の「霞ヶ関」「秋葉原」「東京タワー」という3箇所を爆破する書き込みをインターネットの掲示板に書き込んだことについて、このメールマガジンで取り上げました。その際に触れましたが、ダメダメ家庭出身者としては、そのようなインターネット掲示板常駐者になってしまう例があったりします。

マトモ家庭の人間も、そんな掲示板にたまに行ったりすることはあるでしょう。インターネットで検索を掛けると、掲示板がヒットするケースがありますからね。あるいは、ちょっと話題になったので、参考までに見てみよう・・・そんな好奇心のケースもあるかも?
しかし、たまたまの訪問者ではなく、常駐者となると、話は全然別でしょ?

だって、あのようなインターネット掲示板にはおしゃべりはあっても、会話がない。
本来の趣旨として、ちょっとした情報交換が趣旨のものなので、長い文章は向かないわけ。
だから、提示した考えの背景などを説明することもできず、単なる意見というか感想の羅列になってしまう。読んだ側が、当人なりに考える材料を提供できるものではないわけ。
勿論、情報交換なり、おしゃべりと割り切って利用すれば問題ないのでしょう。問題はそのような掲示板に入れ込んでしまうケースですね。

私は以前に「どうしてあんなものに入れ込んでしまうのだろう?」と思っていましたが、ある時、面白い言葉を見つけました。
「この掲示板こそ、隠されることのない真実があるのだ!」

なっるほど!
入れ込んでいる人は、そう思っているんでしょうね。
確かに、マスコミの報道はいい加減。捏造など日常のこと。これでは信頼するに当たらない。インターネット掲示板は、その点は「隠されていない」のかもしれません。

しかし、ストリップ劇場に入り浸りの人がいて、「ここにはテレビでは見えない、隠されていない真実がある!」と言い出したら、どう思われますか?

「アンタが言っていることは、確かにそうなのかもしれないけど、そんなこと以外にアンタはやることはないの?」
そんなモンでしょ?
まあ、ストリップ劇場もたまに行くのなら、そういう趣味の人もいていいでしょう。しかし、入り浸っているようなら、かなり問題でしょ?

掲示板には、もしかすると真実はあるのかもしれません。しかし、往々にして品格はありませんよね?
品格とか美意識って、ダメダメ家庭出身者は中々持つことができないわけ。親自体に品格がないし、美意識も崩壊している状態。これでは子供も身につきませんよ。

おまけにダメダメ家庭は、対抗意識が強い。「悪いのは全部○○のせいだ!」という言葉がお約束。その犯人とされる○○が時の政府だったり、あるいは、大手マスコミだったりする場合もある。そのようなマスコミに対する対抗心を持って、あのような掲示板に集まって来てしまう。
そうなると、自分と同じものを敵とし、同じように対抗心を持つ同好の士もいるのでしょう。
そこで意気投合。

会話の能力がなく、今まで「群れる」ことができなかったダメダメ家庭出身者に、初めて「群れる」という体験を得ることができた!

しかし、会話のないところに本当の相互理解はありませんよね?
というか、相互理解を求めているのなら、そもそもあんな場所には行かないでしょ?
あのような品格のない文章に耐えていられるのは単に忍耐力が優れているからなの?
違いますよね?
本人に品格が欠けているからこそ、あのような品格のない文章に耐えられるわけでしょ?

ある人が言っていましたが、あのような掲示板を見ていると「悲しい気持ちになる」んだそう。
人間って、ここまで堕ちることが出来るのかぁ・・・
マトモな人間の考えって、基本的にはこうなんですね。

品格のない、会話のない掲示板に「入れ込む」ことができるのは、やっぱりダメダメ家庭の要素がないと無理でしょ?
ダメダメ家庭に一番欠けているのは「会話」。たとえ対抗心や被害者意識を共有することで一時的に群れることが可能でも、会話のないところでは、相互理解はないわけです。

そもそもあんなところに入り浸っている人は、「言いたいこと」はあっても、「分かりたいこと」ってあるの?
あるいは、「言いたいこと」はあっても、「分かってほしい」ことはあるの?
分かりたいと思っていない人を相手に、熱く語っても、無意味ですよ。
会話というものは、「分かりたいと思っている」人を相手に、丁寧に説明する・・・そんなやり取りの積み重ねでしょ?

それに、掲示板で情報を得たとしても、「じゃあ、どうするの?」という話になるでしょ?
情報を集めて悦に浸っているだけなの?
その情報で、何を達成するの?
本来は、自分の目標を達成することが重要であって、そのために集める情報なんて、単なる方法論ですよ。

勿論、人間は誰だって、ヤンチャな時期もありますよね?いかがわしい場所が気になる時期もあるものです。
しかし、「ここは自分の本当の居場所ではない。」「ちょっと遊んでみようかな?」と思っている場合と、「この掲示板こそオレの居場所だ!」と思っているケースでは全然違っているでしょ?
もし、付き合っている人が、そんな掲示板常駐者だったら、ちょっと考えないとね。ヘタするとストーカーされちゃいますよ。

それに、家族に掲示板常駐者がいるってことは、その家庭が「いかに会話が不全となっているか?」を物語っているわけでしょ?
だって自分の子供がインターネットの掲示板に入り浸っていることを、親はどう思っているの?そのこと自体を知っているの?そんな家庭って一体どんな家庭なの?あるいは、書き込んでいる内容を、他の家族はどう思ったの?賛成したの?そもそも家族に聞いてみたの?
そう考えると、色々と見えてくるでしょ?
まあ、そのような人とは関わりを持たない方が利口。

ダメダメ家庭出身者が、再生するためには、自分たちの会話の能力を磨くしかないわけ。
会話の能力の向上のためには、自分の考えを相手に分かりやすい形で伝え、そして相手の話を真摯に聞く・・・そんな訓練が必要でしょ?
そもそも聞く意味がないような文章だったら、「真摯に聞く」訓練にはなりませんよ。
それに、そもそも理解しようと言う意欲そのものがない人を相手にいくら説明しても、どうせムダでしょ?だから説明能力の向上にもつながらない。
会話の能力が不足しているもの同士で、群れていても、会話の能力が向上するの?

会話の能力が不足しているもの同士で、群れて、
お互いの被害者意識で意気投合しても、
会話のないところに相互理解が生まれるわけもなく、
今度は、上手く行かない理由をお互いで求め合ってしまう。
そして「アイツが悪いんだ!」と犯人認定。
そして、最後にはカタストロフ。

掲示板ではよくある顛末でしょ?
これって、そのままダメダメ家庭の現実の事件でしょ?それこそ長崎県の事件とまったく同じ構図じゃないの?

そんなダメダメ家庭の雰囲気がそのまま再現されたところは、逆に言うと、ダメダメ家庭の人間にはなじみのもの。
だから何もインターネットが発明される前から、そんなやり取りのパターンはあったりするもの。

それこそゲーテの「ファウスト」の中にこんな一節があります。
『早呑込みのくせに、間抜けで、まったくおまえたちは愚かしい女子といっていいわ。
目先だけのことにとらわれ、幸不幸や風の吹き回しに弄ばれ、
幸福でも不幸でも、じっくり落ち着いて、それをこらえることができないんだものね。
しょっちゅう誰かが誰かにくってかかる。
すると、みんなが寄ってたかって、くってかかった仲間をたたく。
やれうれしい、やれ悲しいと、
大声で笑ったり泣いたりするときだけ、不思議に調子が合うわね。』

ゲーテの「ファウスト」を書いたのは、今から200年近く前のこと。
しかし、こんな光景は、インターネットの掲示板でのやり取りばかりではなく、被害者意識が強く、そしてコミュニケーション能力の低いダメダメ人間が、今でもやっていることでしょ?

インターネットの掲示板は、そこでの情報なり内容そのものよりも、そのやり取りのスタイルで、実に示唆的なものなんですね。

(終了)
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発信後記

このメールマガジンはダメダメ家庭の具体的事例を、いわば辞書的に列挙していくスタイルをとっています。だから、一話完結のスタイルになっているわけですが、やっぱりちょっとマンネリ気味。

ネタはまだまだあるのですが、今まで以外のスタイルもできる限り取り入れて行きたいと思っています。
前々回は投稿を取り上げましたし、実は来週の月曜日は、やっぱり購読者さんからのメールをとりあげます。そしてそのメールについての、私からのコメントというスタイルにします。
もちろん、その購読者さんの了解は得ております。

私としては、具体的で典型的な事例を深く考察することにより、ダメダメ家庭の人間に発生する問題点の顕在化や共有化ができればいいなぁ・・・と思っています。
この文章に関連した文章として09年11月11日 配信 「合意を取る」という文章、
あるいは、10年3月22日 配信 「サプライサイドの暴走」という文章があります
あるいは、09年11月30日 配信 「ネット信者」という文章もあります。
R.10/4/12