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カテゴリー ダメダメ家庭はいつも否定形
配信日 07年8月10日 (11年1月12日 記述を追加)
タイトル 多重否定
ダメダメ家庭の人間の物言いは否定形が多い。
「ない」とか「悪い」とか「ダメ」とか・・・そんな否定形ばかりなんですね。
その物言いが否定形というだけでなく、発想の根本が否定形となっている。ダメダメ家庭の人間は、誰かや何かを否定することしかしない。
肯定形のスタイルで「自分はこうしたい!」なんて言わない、というか、自分でやりたいことをそもそも持っていないのがダメダメ人間というもの。だから目の前のものを否定して、そのような否定的な活動を自分のアイデンティティにする。そんなことばかりやっているから、物言いもそれにフィットして否定形ばかりになるのは当然のこと。

それこそ、韓国などはそのスタイルですし、日本でもインターネットの掲示板を見てみると、この否定形の物言いばかりでしょ?
そのように、発想そのものが否定形なんだから、それが重なることもある。
二重否定です。
それこそ、ダメダメにお約束の「悪くはない。」なんて言葉は二重否定の典型ですよね?
「悪い」というのは、「よくはない」という意味なんだから、意味的には否定形と言えます。
だから「悪くはない」という言葉は、「よくはないのではない」という意味?になり、はっきり言って意味不明となってしまう。
そんな言葉を堂々と言い放つ人間は、ダメダメ人間とみなして「間違いはない」でしょう。

マトモな人間なら、何か不都合な事態になっても、「悪くはない」なんて二重否定を使うのではなく「ワタシはこのように考え、このように行動した。」と言いますよ。逆に言うと、二重否定を使うのは、そのような端的に言えないからなんですね。

あるいは、これもこのメールマガジンで取り上げたこともありますが、「わが子を愛さない親はいない。」なんて言葉も、堂々たる二重否定表現でしょ?
「わが子を愛さない親はいない。」という言葉はいいとして、じゃあ、アンタ自身は自分の子供に愛情を持っているの?
本来は、その問題が重要でしょ?
その問題はどうなの?

もし、その人が、自分の子供に対して愛情を持っているのなら、それこそ「何も考えずにポコポコと子供を作っていて、養育を放棄している親は、自分の子供に愛情を持っているか?」なんてことを考え議論する必要があるの?「コイツが産まれたせいで、うまくいかない!」と自分の子供をボコボコに虐待している親が、自分の子供に愛情を持っているのか?そんなことを考え議論する必要なんてあるの?

会ったこともない赤の他人が、その人の子供に対して愛情を持っているかどうか?なんて、本来は言えないものでしょ?どうして、そんな見知らぬ親の愛情を主張するの?
「ワタシはオマエが幸せになってほしい。何かワタシにしてほしいことがあったら、何でも言ってくれ!」と自分の子供に言えば、それでいいじゃないの?
なぜ、そのように端的に言わないの?それって、つまり、「ワタシはオマエが幸せになってほしいと思っている。」と、一番端的な言葉で「言えない」ということでしょ?
自己逃避のダメダメ人間は、「自分自身はどうなのか?」そのようなことを考えることから逃避して、一般論に逃げ込むことになる。

そして、普段から否定形の発想なので、その物言いも否定形が組み合わさった形・・・つまり二重否定となるわけです。だからこそ、「わが子を愛さない親はいない。」という二重否定の一般論に「ならざるを得ない」。逆に言うと、肯定形を使って具体的には言えないわけです。

あるいは、これも以前に取り上げておりますが、「信じられるのは血のつながった家族だけ。」そんな物言いも、二重否定的な意味でしょ?
だって「血がつながって『いない』人は、信じられ『ない』。」そんな意味になるわけですからね。

それはそれでいいとして、じゃあ、血のつながっている家族を本当に信じているの?
「信じられるのは血のつながった家族だけ。」と語る人の子供は、往々にして自身の親のことを信じていないもの。だってコミュニケーション能力が低いから、そんな「信じられるのは血のつながった家族だけ。」なんて言うわけですし、そんなコミュニケーション能力が低い人なんて、「血のつながった」家族とも信頼関係はないものなんですね。

そもそも二重否定と言うことは、その発想の根本として否定的な見方が中心になっていると言うこと。
「あの○○はこんな不適切な点がある。」
「この△△には、こんな問題点がある。」
そんな見方だからこそ、それが組み合わさってしまう。
否定するのはいいとして、それを肯定形の表現で言い直せばまだマシなんですが、逆に言うと、否定してばかりだから、「じゃあ、自分は何をしたいのか?」という点が自分でも分かっていない。
目の前のものを否定するのは簡単にできても、否定の断片から、シンプルな肯定のスタイルに自身の見解を統合する能力を失調しているわけです。まさに、目先のものしか見えていないわけです。
否定表現を「重ねる」ことはできても、それを一つの見解に「統合する」ことはできないわけです。
二重否定表現というのは、統合性の失調の面もあるんですね。

そして、二重否定表現は、それこそ「悪くはない」というようなシリアルなスタイルの二重否定表現だけでなく、それこそ「あーでもない、こーでもない」というパラレルなスタイルの二重否定表現のパターンもあります。
いずれにせよ、目先のものを否定するだけで、それを統合する能力を失調していることには「変わりはない。」

まあ、二重否定くらいなら、たまにやったりすることもあるでしょう。
意識的に、凝った表現として使うケースもあったりする。
しかし、ダメダメが進行すると、もっとグレードの高い否定形に進化してしまう。

このメールマガジンでたびたび触れております、現在(07年)の韓国の大統領であるノ・ムヒョンさんですが、ちょっと前に、面白い発言がありました。
それは、「どうでもいいようなことを問題視できない社会は絶対に発展しない。」と言う発言です。

大統領としての資質を、周囲から非難されているノ・ムヒョンさんが、上記の言葉で反論したわけです。さて、皆さんは、その上記のノ・ムヒョンさんの言葉の意味って、スグにわかりますか?
自慢じゃあありませんが、この私は言葉の読解力は水準以上でしょう。この私でさえ、上記の言葉の意味がなかなかわからない。

「どうでもいいようなことを問題視できない社会は絶対に発展しない。」というノ・ムヒョンさんの発言なんですが、
「どうでもいい」という言葉は、「重要ではない」という意味で、意味的に否定形ですよね?
「問題視」は、「不適切とみなす」あるいは「適切とはみなさない」となり、これも意味的に否定形。
「問題視できない」の「できない」は、英語で「cannot」なんだから、やっぱり否定形。
「発展しない」も、もちろんのこと否定形。

だから、ノ・ムヒョンさんの発言を分解すると、
「普段から重要とは思われていないような物事を、『それが正しいとは限らないのでは?』と、いつも考えたりすることがない社会では、発展しない。」となり・・・ますます分からない。
まあ、二重否定がダメダメであるならば、ノ・ムヒョンさんは四重否定ですからダメダメダメダメと言えてしまう。
ノ・ムヒョンさんの意図はよくは分かりませんが、たぶん、こんな意図なんじゃないの?
「ちょっとした小さな物事にも、疑問を持って、目を向けて考えて行くようにしましょう。」
そのような物言いだったら、言われても、分かりやすいでしょ?

何も、ノ・ムヒョンさんだけでなく、日本の自民党の石破さんが、自民党の総裁選挙に関係して、「出るとも言わないし、出ないとも言わない。」と発言したことがありますが、これも見事な多重否定表現と言えます。
後半部分の「出ないとも言わない」は、シリアル形式の二重否定表現であり、そして、全体では、「出るとも言わない」と「出ないとも言わない」という2つの否定表現をパラレル的に合わせた二重否定でもある。
総裁選挙くらいの大きなイベントだったら、あまり端的には言えない面もあるでしょうが、自民党のリーダーというよりも、国民のリーダーを目指しているのなら、やっぱり端的に表現しないとダメでしょ?
「オレが総裁をやりたい!日本をよくしていきたいんだ!このオレに任せてくれ!」と言えば、国民に対してはアピールになりますよ。それができないのなら、総裁にならない方がまし。
官僚のトップと、国民のリーダーは、その物言いも違ってきますよ。

まあ、石破さんも、ノ・ムヒョンさんほどと練達の境地には至らなくても、その統合性の失調は重症と言えるでしょう。野党の幹事長でもやっているうちはいいとして、与党にでもなったら、ノ・ムヒョンさんと同じようなことになってしましますよ。
そもそも、そんな凝った二重否定表現をするのはいいとして、では、どんな人に、どんなことを分かってほしいの?それが問題でしょ?

二重否定表現をする人は、それが明確になっていないわけです。
つまり、本質的な意味で、他者という存在を心理的に認識できていないわけです。
その発言も、基本的には独り言の一種のようなものなんですね。
断片的な意味情報に対して、断片的に否定をし、それが統合することなく、単に重ね合っただけなのが二重否定表現と言えるでしょう。
ある種の白昼夢的な状況なんですね。

分かってほしいことが自身の中で明確になっているのなら、多重否定で表現するより、「このようなことをしましょう!」「ワタシはこうしたい!」そんなシンプルな肯定形の方がいいじゃないの?
しかし、それができるのは、自分の「伝えたい」ことが「自分でも分かっている」場合に限られてしまう。
「自分がどうしたいのか?」「何を言いたいのか?」自分でも分かっていないダメダメ人間は、普段からやっている否定形の発想を、そのままどんどんと重ね合わせて行って、何重ものの否定形となってしまう。

そうして、お約束のグチ。
「どうして、みんなはボクのことをわかってくれないの?!」
そうなんですが・・・
当人自身は、自分の言っていることが分かっているの?
自分の言っていることが、自分でも分かっているような人間は、そもそも多重否定なんて使わないものなんですね。

えっ?「オマエは、いったい何を言いたいのか?」って?

「多重否定をするような人間にマトモな人間はいない。」・・・と言う表現と、
「できるだけ肯定形の物言いをしましょう。」・・・という表現のどっちが分かりやすいのか?
ちょっと考えてみてみましょうよ、ってことです。

(終了)
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発信後記

2重否定が、肯定につながらないという例を先日見ることができました。
なんでも、イスラムのゲリラの長がこんな発言をしたそうです。
「敵の敵は、自分にとっては、敵ではない。しかし、友人の友人は、自分にとっても友人である。」
なかなか含蓄がある言葉でしょ?

「敵の敵」は、とりあえずは、敵ではないというだけ。味方とは言えない。
それに対し「友人の友人」は、自分にとっても、友人であり味方といえる。
現実にそんなものですよね?
2重否定は肯定につながらないけど、2重肯定は、やっぱり肯定形。
人間関係だって、まさにそう。

しかし、ダメダメ人間というものは、「味方よりも、敵の方が必要となる。」このことは以前に配信しております。ダメダメ人間は、「自分にとって、敵は誰なのか?」そんなことから物事を考えていくわけ。そもそも否定形なんですね。
だから2重否定はあっても、肯定形が出てこない。
だからこそ、何も達成せずに、否定形が重なるばかり。
実際に、そんな人って多いでしょ?
R.11/1/12