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カテゴリー ダメダメ家庭の対抗心
配信日 08年6月9日 (11年1月28日 記述を追加)
タイトル 対抗心競争
ダメダメ家庭の人間は対抗心が強い。
被害者意識が強く、だからこそ、加害者として設定したものに対して、何かと反抗するようになる。そして、反抗するという行為によって、「自分が被害者なんだ!」と自分に確認させる儀式とするわけです。
何かに対抗することが、当人の唯一のアイデンティティになってしまっていて、そんな自分を、『ワタシは、○○に対抗しているんだ!』と周囲に対し語ることになる。

「○○に対抗する。」も何も、自分自身で目標を掲げ、その実現のために努力すればいいだけですが、その肝心の「自分の目標」がないのがダメダメ家庭の人間というもの。
自分自身から逃避していて、自分なりの目標を持つことができない。
結局は、誰かや何かに対抗心を燃やし、その相手に嫌がらせをすること・・・それが「自分の目標」になってしまう。
そんな人と一緒にいても、マトモな人は楽しいわけもなく・・・結局は、同類同士といえる対抗心が強いダメダメ人間が集まることになる。
同類が集まってしまうので、ますますマトモな感覚とは無縁となってしまう。

さて、ダメダメ家庭の人間は序列意識が強い。やり取りの際には、同格な関係を基本とし、相互理解を積み重ねていく会話によるものではなく、序列を基本とした命令と服従の関係になっている。だから常に「どっちが上の側なのか?」「命令を与える側なのか?受ける側なのか?」と考えることになる。
同じように、対抗心が強い人たちの間においても、「どっちが上の序列なのか?」と考える。と言うか、対抗心が強いダメダメ人間ほど序列意識も強い。
と言うことで、自分たちが持っている対抗心の大きさで競争を始めてしまうんですね。

「オレはオマエよりも、大きな対抗心を持っているんだぞ!どうだ?エライだろう!」
そして、
「オレはオマエよりも、もっともっと、あの○○を憎んでいるんだ!スゴイだろう!」
「ワタシは、アナタよりも、もっともっと、あの△△に対して嫌がらせをやっているのよ!立派でしょ?」

もはやシュールなギャグの世界と思われる方もいらっしゃるでしょうが、ダメダメの世界では現実のこと。
「対抗心の大きさ=その人間のグレード」そんな図式が成立してしまっている。
逆に言うと、何かに対して対抗心を持たない人間は、向上心がない人間とみなされてしまう・・・現実として、そんな事態が発生してしまう。
ということで、「オイ!どうしてアイツを憎まないんだ!オマエはケシカランやつだ!オマエには向上心がないのか?!」との説教が成立してしまう。

つまり、「人を憎んだり恨んだりする人間が上等で、人を憎んだり恨んだりしない人間が下等。」・・・無意識的には、そのような発想になっている。
あるいは、「自分の目標を掲げ、その達成のために努力する人間よりも、誰かに嫌がらせをする人間こそが上等。」・・・という発想になっているわけです。

このようなことを考えさせてくれるきっかけとなったのは、私に寄せられた「関西のオタク」さんからのお便りでした。
以前にも書いたことがありますが、そのお便りは、こんなもの。
「アンタの文章からは、東京のインテリの匂いがプンプンする!」
そんな『クレーム』でした。

色々な文言によるクレームを受ける私ですが、サスガにこのクレームは印象に残る。
「東京のインテリ」という言葉を、誹謗の言葉として使っていらっしゃる。
どうして?どんな論理で?

東京は曲がりなりにも日本の首都でしょ?首都というものは、それなりに文化程度が高いものですよ。東京の匂いがそんなにヒドイの?あるいはインテリという言葉は、相手を誹謗する時に使う言葉なの?
日本だと首都は東京ですが、フランスの首都はパリ。
「アナタの文章からは、パリのインテリの匂いがプンプンするよ!」という言葉が悪口になるのかな?言われてしまった人は、そんな「誹謗」の言葉で傷ついちゃうの?
私だったら、そう言われたら喜んでしまうけどなぁ・・・

しかし、「アンタの文章からは、東京のインテリの匂いがプンプンする!」という言葉は、前後の文脈から判断すると、どうやらクレームであり誹謗の言葉のようでした。
「オイ!オマエ!オマエの文章からは東京のインテリの匂いがプンプンするから、今後は反省しろよ!」

そう言われてもなぁ・・・

しかし、「人を憎んだり恨んだりする人間が上等で、人を憎んだり恨んだりしない人間が下等」・・・そんな発想がその前提としてあると想定すれば、そのクレームの意味も理解できることになる。
それに、そのクレームの意味だけでなく、多くの物事も見えてくる。

それこそ、マスコミなどで登場したりすることもある、「近頃の若者は政府に対して反抗しない・・・困ったものだ!」というオヤジ風の嘆きも、そんな発想が根底になるんでしょうね。
しかし、本来は、政府に反抗することに意味があるのではなく、自分の希望を実現することに意味があるんでしょ?現在の政府がそのための障害になっているんだったら、その時には政府に対し決然とクレームをつけ、反抗すればいいだけ。

あるいは、韓国人なんて、典型的なまでに、「人を憎んだり恨んだりする人間が上等で、人を憎んだり恨んだりしない人間が下等」という発想でしょ?
韓国人だけでなく、中国人も同じでしょ?
だから以前にあった中国の反日暴動の際には、まさに「争うように」暴動に明け暮れることになる。

もちろん、このメールマガジンでたびたび言及しております市民運動も、そんなパターンになっているケースもあるでしょ?彼らは、クレームをつける自分に酔いしれていますよね?
そのようなことは、日本の政党だと社民党がその典型でしょ?

あるいは、以前に、とある暴走族で、「オマエは、警察への反抗が不十分だ!」ということで、仲間からリンチされた構成員がいたとの記事がありました。暴走族だったら「オマエは走りが遅い。」ということで、仲間から怒られるのだったらまだ分かりますよ。だって、彼らは走るために集まっているんでしょうからね。しかし、警察への反抗心で怒られるなんて・・・暴走族って、不思議だなぁ・・・と思ったことがあります。しかし、このような暴走族の発想も、政府に対抗することが目的化した市民団体とメンタル的に共通していると見ると理解できるようになってくる。

何も、いわゆるオヤジやオバンの方々だけでなく、また外国の事例ばかりではなく、それこそインターネットの掲示板などでは、「人を憎んだり恨んだりする人間が上等で、人を憎んだり恨んだりしない人間が下等である。」と言った面があるでしょ?
それこそ「東京のインテリ」風なんて、あんな場所では嫌われるのでは?
だから・・・インターネットの掲示板では、不必要なまでに関西風だったり、オタク風だったりしますよね?ホント、どうしてインターネットの世界は、あんなに関西弁なのか?そんなことも、この対抗心競争に関係があるんでしょうね。
そんな世界に入り浸っていて、その常識で、この私の文章を読めば、まあ「鼻に付く」んでしょうねぇ。

しかし、「人を憎んだり恨んだりする人間が上等で、人を憎んだり恨んだりしない人間が下等」という発想だと、実に簡単に「上等」の人間になれてしまう。
だって、誰かや何かに対抗心を燃やして、それを恨んだり、憎んだりしていれば、それで序列が上がっていくことになる。あとは、実際の行動として嫌がらせに励めばいい。
ああ!なんてラクチンだこと!

まあ、確かに序列が上がっていくと言えるんでしょうが・・・
その人の尊厳が向上するのではなく、ダメダメのグレードがアップするだけでしょ?
しかし、「対抗することが向上心の発露」という世界に浸ってしまうと、どうしても、嫌がらせに励むことになってしまう。

それこそ、11年にあったサッカーの国際大会で、韓国人のプレーヤーがおサルさんのまねのパフォーマンスをして、日本人を「侮蔑」することがあったそうです。
この事件は実におもしろいでしょ?
だって、韓国人のサッカー選手が日本人を侮蔑する意識を持って、おサルさんのパフォーマンスをしても、日本人は傷つきませんよ。意味も分からず、ただ、あっけに取られるだけ。
どうせなら、侮蔑するつもりなら、相手の心を傷つけるパフォーマンスをした方がいいのでは?

そのパフォーマンスをした人としては、自分自身を見ているのではなく、あるいは、侮蔑対象としている日本人を向いているわけではなく、同胞である韓国人に向いているわけです。
「ねぇ!見て!見て!ボクちゃんはこんなにも立派に、嫌がらせをやったんだよ!どうだい?スゴイだろ?」
本来なら、そんなことをしても、誰も得にならないし、「侮蔑された」日本人は、「あらまあ!お気の毒に・・・そんなことしかできないなんて・・・」と呆れるだけでしょ?

対抗心が強いダメダメ人間は、その対抗心だけがアイデンティティになっている。だから、自分自身よりも、「対抗している」対象を見るようになってしまう。
だから、その対抗している対象に依存することになってしまう。
そして、対抗している対象を見るだけでなく、対抗している自分を、「仲間」に見せることで、「自分の向上心」をアピールすることになる。
「どうだい?ボクはこんなに見事に嫌がらせをやっているんだよ!」
そうやって、どんどんと自己逃避してしまう。
だから、ますます尊厳とは無縁になるばかり。
しかし、そんな嫌がらせ行為も、彼らなりには向上心の発露となっているわけです。
だから、相応の高揚感も、ヘタをすれば充実感もあったりする。
逆に言えば、そんな嫌がらせ行為くらいしか、充実感がないわけです。
だから、周囲から何かアドヴァイスがあって、一時的にそんな嫌がらせ行為をしなくなっても、似たようなことは繰り返すことになる。
そうやって、ますます自己逃避して、ますます精神的な自立から遠くなってしまう。

家族の間柄だって、親に対抗なり反抗することが、子供の自立ではないでしょ?
闇雲に反抗する時期も一時的には必要でしょうが、自分のしたいことを自覚することが、自立にとっては一番重要なことでしょ?
しかし、精神的に乳離れしていないがゆえに、親に反抗すること自体が目的となってしまう。だから常に親を意識することになる。

「ああ!親が気になって、気になって仕方がないわ!!」
それって、結果的に親に隷属している状態でしょ?
ダメダメな人間は、親に反発している分だけ、自分が偉いと思っている人もいたりするもの。
かと言って、そんなダメダメな親と縁を切るようなことはしない。
家族だから・・・という名目で、ダラダラと関わりを続けたりする。
あるいは、「反面教師とする。」という名目で、ダメダメな親を凝視し続けることになる。
ダメダメな親にわざわざ近寄って行って、「ああ!オレの親は、なんてダメダメな親なんだ!オレって、なんてかわいそうなんだ?!」と改めて確認して、嘆きの声を上げる。

ダメダメ家庭の問題を考えるに際し、「似て非なるもの」に注意する必要があると、このメールマガジンでは頻繁に書いています。
それで言うなら、「自立と反抗」は違うものでしょ?
強い対抗心に囚われたダメダメ人間は、その対抗心ゆえに、相手から自立することができないものなんですね。
対抗心に安住している内は、本当の意味での自立にはならないわけです。

(終了)
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発信後記

昨日というか、日曜日に秋葉原で大きな事件があったようですが・・・
というか、私も、ちょうど一週間前には、「携帯電話の機種を変えようかなぁ・・・」とあの辺りを歩いていたっけ・・・
ちょっとシャレにならない。

今回の本文中で、関西のオタクさんからの抗議の言葉を紹介いたしましたが、その方とのやり取りを通じてわかったことがあります。
首都圏在住者による秋葉原の見方と、首都圏以外に在住する、そしてダメダメ家庭出身者による秋葉原の見方は、かなり違うということです。

秋葉原にスグに行ける人は、秋葉原に特別な感慨など持っていない。
しかし、簡単に秋葉原に行けない人は、一種特別な憧れを持って、秋葉原を見るわけ。
抑圧状況にある自分を開放し、救済してくれる場所として、期待を込めて見てしまうんですね。

このことについては、以前に「約束の地」というお題で配信しております。

また、今回の事件の犯人の名前は「智大」とのことで、その中の「大」の字については、以前に配信しております。

まあ、「ともひろ」という名前だったら、「智弘」とか「智広」という漢字の方が一般的でしょ?
そんなところから、見えてくるものなんですね。

上記の2つのバックナンバーを読み直していただくと、犯人の父親のキャラクターが見えてくるでしょ?
犯人が本当に殺したかったのは誰なのか?スグにわかりますよね?
しかし、自己逃避のダメダメ人間は、そのことを考えることから逃避してしまい、だからこそ「誰でもいい」なんて言い出してしまう。

この「誰でもいい」についても、以前に配信しております。

それらをお読みいただけると、実にわかりやすい事件と言えるでしょ?
以前にも紹介したことがありますが、私に寄せられた抗議の言葉で、「起こった後ではなんとでも言える!」なんてのもありました。

私としては、「起こった後」にだけ書いているわけではなく、起こる前からも、ちゃんと書いています。ただ、当事者意識がないダメダメ人間は、事件が起こる前には何もしないし、何も考えないし、そもそも見ようとしないわけ
このことについても、先日に配信しております。

まあ、ダメダメ人間というものは、事件前に何も見ようとしないし、考えようとしないだけでなく、事件が起こった後でも、何も見ようとしないし、考えようとしない。
だからこそ、同じような事件が、また起こってしまうわけ。
事件が起こる前に、考えることはなかなか難しくても、せめて事件が起こった後では、色々と考えてみましょうよ。
それが、今回の事件で犠牲になられた方への、残されたものとしての責務なのでは?
R.11/1/28