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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神
配信日 08年6月16日 (10年7月11日,10年12月24日 記述を追加)
タイトル 展望力 (構想力)
このメールマガジンも、総配信数がもう600回を超えております。
まあ、ネタがあるから続いているわけですが、別の面で言うと、この私に文章を書く技術がある・・・とも言えますよね?
内容はともかく、このレヴェルの文章は、そうは簡単に書けるものではありませんよ。たとえば、皆さんの中で投稿の文章を書こうと意気込んで書き始めたけど、最後まで書けなかった・・・そんな人もいらっしゃるのでは?

文章を読んでもらうためには、やっぱりそれなりの技術が必要です。
ちなみに、一番難しいのは、冒頭です。
冒頭でコケたり、だらぁ〜とした冒頭だと、後になっていくら盛り上がっても、そもそも読まれない可能性が高いわけだから、後でどんなにがんばって盛り上げても意味ないじゃん。

どうやって、冒頭で読者をひきつけるのか?
「つかみはOK!」とか言っていたコメディアンがいたようですが、「つかみ」というのは、必要だし、難しいもの。それが自在にできるようになったら、巨匠ですよ。
何もコメディや文章だけでなく、オペラでも、冒頭に工夫があったりするもの。ストーリーに関係ないようなド派手な合唱曲やアリアを最初に持ってきて、観客の興味を「つかむ」ことになる。
つかむためには、やっぱり関心を引くものでないとマズイでしょ?

さて、文章などのまとめ方において、『書く側』が作りやすいのは、「一般論を提示して、説明した後で、個別の具体論を説明していく・・・」そんなスタイルです。そのようなスタイルだと、後に続く個別の具体論を述べている際にも、一般論からのつながりを説明しやすいので、シンプルな構成にすることができる。
しかし、これは、書き手の側の論理であって、読み手の側の論理とは言えない。

読み手としては、本を読み出したら、いきなり抽象的な一般論が延々と書いてあると、興味が持続しない。そんなものでしょ?一般論というものは、イメージが浮かびにくいので一般的には、インパクトがないもの。だから、まずは、インパクトのある具体例を書いて、関心を引いた上で、その具体例から一般論に持って行った方が、読み手にはラクなんですね。

本を開けたら、一般論が延々と・・・もイヤだけど、かと言って、刺激的な具体例が、のべつ幕なしの状態で並んでいてもイヤでしょ?提示している具体例が、一般論的な考え方とどのようにリンクしているのか?そこまで解説していないと、知識であっても、知性にはなりませんよ。覗き見的な、別の言い方をすると断片的で噂話的な知識は積み重なっても、自分の人格を鍛えるような教養にはなりませんよ。

何かを考える際にも、あるいは、何かを表現する際にも、一般論と具体例が、リンクしていないと、相手をしていても困ってしまうもの。何かをやり遂げるにはそんな「構想力」というか「展望力」のようなものが必要になってくるんですね。

ダメダメ家庭の人間とやり取りしていると、この具体例と一般論が、うまく結びついていないケースが多い。個別の要求なり事例を、一般論から説明することができないわけです。
一般論は一般論で言えたりするわけですが、それが具体例と結びつかずに、議論のための議論に終わってしまう。

目の前にある具体的事例と、一般論的な思考、あるいは、ロングスパンの見通しとどのようにリンクさせていくのか?短期的な視点と長期的な見通しだって、つながっていないと、ダメでしょ?

まあ、それこそ一般論だけだとわかりにくいので、具体例に行きましょう。
ダメダメ家庭の人間は、離婚が多い。
家庭を運営していく能力の問題もあったり、その折々における対処能力の問題もありますが、そもそも結婚する前に、ロングスパンで物事を考えないわけ。
「この人と長くやっていけるだろうか?」
そんな長期的な視点で相手をチェックをしない。結婚生活の「構想」や「展望」がないわけです。たまたま気が合ったとかで、あるいはグチで盛り上がっただけの断片的な好意の段階で結婚してしまい、結局は修羅場になってしまう。

結婚の問題とか注意点については、一般論としてはわかっていても、それが自分自身の具体的な事例と結びつかない。全体を見渡した上で、今現在の状態を判断する・・・そのようなことができないわけです。常に目の前のものしか見えていないし、それ以外を見ようとしない。

何も結婚の問題ばかりではありません。会社などで仕事をする際にもそんな感じなんですね。

「この課題をどのような手順で解決していくのか?」
ダメダメな人は、そのような全体的なフローチャートを、描いていない段階で手をつけてしまう。
全体像が自分でも分かっていないので、今やっていることがどのような位置づけなのか、自分でもわかっていない。まあ、自分一人でやる仕事ならともかく、誰かパートナーがいる仕事なり、相手が存在する仕事だと、結局はトラブルになってしまう。
そもそも手順が自分でもわかっていないわけですから、人にも説明できないので、質問されると逆上するばかり。

「どうしてこんなことをするの?」「この作業は、どんな位置づけなの?」「ワタシはどんな役割になるの?」
なんてことをパートナーから聞かれたら、唯一の回答は、『いつも、このやり方で、やっているから・・・』くらいしかできない。いわゆる「ふ・つ・う」の境地。

そんな人は会話の能力がないので、その物言いも命令調になってしまう。だからその相手も不快になる。だから結果的に言うことを聞かない。そうなると、ますます命令調になって、結局はトラブル状態に。

そのようなトラブル状態になったら、まずは、ロングスパンの全体像について、共通認識を持つことからやり直す必要があるわけですが、そもそも、ダメダメな人は、ロングスパンの全体像なんてものは、もともと持っていない。
だから、その要求も、その場しのぎの一時的なものばかりになってしまう。
その場しのぎの要求が重なると、それらがお互いに矛盾するようになって、「アイツ・・・いい加減なヤツ!」と言われてしまうことに。

そんなシーンは、職場なり、家庭でも、起こっているでしょ?
物事を一緒に始めるに当たっては、まずは大まかでも共通認識を持つ必要があるって、当然のことでしょ?
何かを一緒にするに当たっても、いわば、時間合わせと地図合わせを先にやるものでしょ?
それが合っていなければ、最初の段階ではたまたまうまく行くこともあっても、結局はトラブルになりますよ。だって、お互いの想定する全体像が全く合っていなかったら、結局はコミュニケーションもムチャクチャになってしまうことなんて簡単に予想できるでしょ?まずは、全体像を合わせなければ、何もできないでしょ?

それこそ、暗闇の部屋に放り入れられて「右に進め!左に曲がれ!」と命令されても、その言われたとおりには人は動かない。暗闇の中にいる人間が言いたいのは、「まずは、とりあえず、部屋の電気をつけて、部屋の全体像を見せてよ!」となるもの・・・でしょ?

共同作業を進めるにあたっては、全体像について共通認識ができた段階で、具体的な作業に進む必要がある。
しかし、ダメダメな人間は、そもそもその現状認識それ自体ができていない。だから、それを伝えるも何もない。そしてコミュニケーション能力もない。だから一方的に命令するだけになってしまい、相手の反発を買ってしまう。
それに、ダメダメ人間は、信頼というものが理解できない。だから「相手の信頼をどうやって得ていくのか?」という発想がない。だから相手に対して遮二無二命令を下して、ますます相手の反発を買うばかり。それに、長期的なスパンを踏まえて、現時点での対応をしていく・・・という発想そのものがないんだから、当然のこととして信頼とは無縁になりますよ。

それこそ、植物を栽培するのなら、ただ、種を撒けばいいというものではなく、その後の水やりとか肥料とかの問題を考える必要があるでしょ?
動物を飼うのなら、その後の飼育の問題なり、あるいは、その動物の老後のケアの問題も想定した上で考える必要があるでしょ?
あるいは、学校における動物の飼育においても、「てきとう」に飼い始めるパターンもありますよね?それこそ、大阪の学校で問題になりました。
その学校のシステムの問題はともかく、そんな姿を平然と見つめる周囲の人も問題でしょ?後々まで想定しないままで、動物を飼い始めるような人間や、そんな姿を見て何も疑問に思わない人間が子供を持ってしまったら、生まれてしまった子供をケアするの?そんなわけがないでしょ?
「て・き・と・う」に子供を作ってしまって、「もう、いいやっ!あ〜あ、めんどくさ!」と放り投げるのも確実でしょ?そんな事件は、実際に起こっているでしょ?
それは、愛情の問題というよりも、構想力とか展望力の問題なんですね。
逆に言うと、愛情の問題にしてしまうから、ただ、「かわいい!」という断片的な感情だけで子供を持ってしまうわけ。「その後」の維持管理の問題まで視点がいかないわけです。

だからこそ、ちょっとしたトラブルが多発し、そのトラブルを全体像を踏まえた上で対処することもできず、やっぱり放置して、行くところまで行ってしまうことになる。
職場においても、家庭においても、そんなシーンってダメダメには共通なんですね。
そんなシーンが積み重なって、結局は修羅場になってしまう。
「この人とは長くやっていけるか?」なんて何も考えていないで結婚するから、長くやっていけない・・・って、論理的に見て当然のことでしょ?

あるいは、このような展望力の問題は、結婚のような人生の一大事だけでなく、単なるメールのやり取りにおいても顕著に見えたりしたりします。
まずは、「どんな目的を持ってメールのやり取りをするのか?」その点の確認が先でしょ?
単なるヒマつぶしの場合もあるでしょうし、現在の事態を相談によって解決したいという場合もあるでしょう。単に「ここの部分の疑問点を解決したい。」という焦点を絞ったパターンもあるでしょう。あるいは、「アイツを、ちょっとからかってやれ!」なんて悪戯心を起こしてちょっかいを出す・・・そんなパターンもあるでしょう。

ちょっかいをかけて、人をからかうことは誉められたことではないにせよ、まあ、やる能力があれば、やればいいだけ。

実は、ちょっと前に、この私をからかおうとした人がいて、この私もビックリしたんですよ。まるでネコじゃらしでもするかのように、思わせぶりなことをメールで書いている。
私としては、「で、結局は、アンタは、どうしたいの?」「何を分かりたいの?」「この私に何を分ってほしいの?」と繰り返すばかり。
私としては質問があれば、解説しますし、相談があれば回答します・・・と言うしかありませんよ。しかし、それには、疑問点なり、現状を教えてもらわないとムリでしょ?
だから、基本的には待ちの姿勢です。

どうやら、私に対してちょっかいをかけてきた人は、そんな反応は想定外だったようです。
その人としては、まさにネコじゃらしをされたネコのように「食いついてくる」と思っていたようなんですね。

しっかし、この私が、ちょっとくらいアタマがいい程度の人間によるちょっかいに「食いつく」わけがないじゃないの?そんなことは、ちょっとでも文章が読めて、モノを考えられる人間であれば、誰でもわかること。私だったら、その気になれば、そんな程度の人間なんて、絶望で首を吊らせるくらいはわけなくできますよ。
ちょっかいをかけられたことに対して、怒るというよりも、ちょっかいをかける相手を選別する能力の低さに呆れてしまうだけ。
結局は、その方は、ほうほうの体で逃げ出していきました。

子猫をからかうのなら、まだ理解できますが、大きなライオンをからかおうとしても、イタイ目をみるだけですよ。
と言うか、ちょっかいをかけられたライオンも、あまりにトンチンカンな事態にびっくりしてしまう。まあ、後で思い起こすと、典型的な「蟷螂の斧」と言えるわけですが、目の前でカマキリに威嚇?されても、「何なの、それ?」と思ってしまうだけでしょ?

そんな私の驚きは、この私と長くやり取りをされている方も、お分かりになるでしょ?
「おいおい!悪いことは言わないよ!ちょっかいをかける場合には、アイツだけは止めておけ!シャレにならないよ!痛い目を見るぞ!」って思うはずです。

ちょっかいをかけるにせよ、全体像を想定して、その展望を踏まえて、上手にやって、その人なりに楽しめばいいだけでしょ?そして、それにふさわしい対象を選別すればいいだけ。
そんな展望力のない人なんだから、そりゃ、結婚してもムチャクチャになりますよ。
メールの文章だけで、「あっ!この人は、離婚するか、もう離婚したか・・・」なんて分かるもの。

まあ、そんな人は、メールのハンドルネームからして、展望力のなさを示していたりするもの。いかにも、その場しのぎの、とりあえずという感じで、とって付けたような季節ネタを使ったりする。
そんな取って付けたようなものばかりだからこそ、「て・き・と・う」に結婚して、修羅場になるんでしょ?
まずは、メールのやり取りから、マトモなものにするようにしないとね。

人間はバカではないわけ。考えれば、それなりの判断ができるもの。しかし、ダメダメというものは、その判断なり展望することから逃避してしまう。
ちょっとロングスパンで、眺めてみる・・・って、本来は誰だってできることでしょ?
そんなロングスパンの展望を元に、身近な現状を眺めてみると、解決法なんて、誰でもわかるものなんですね。

(終了)
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発信後記

例の秋葉原の事件から、もう一週間になりました。
私としては、翌日の月曜日の段階で、私なりの見解を後記で出しておきましたが、まったく、そのとおりになっていますねぇ・・・
また、これもお約束なんですが、インターネット云々の影響とかの『識者』の声が・・・

ダメダメ人間は、何か事件があると、「目新しいものを犯人認定」することは以前に配信しております。
それこそ、以前に取り上げたソフィア・コッポラさんの「ヴァージン・スーサイズ」という映画では、女の子が自殺して、「ロックンロールのせいだ!」なんて親が納得してしまう・・・そんなシーンがありました。そんな感じで自分本位で納得してしまうから、残された姉妹も自殺することになる。

秋葉原の通り魔だって、あの手の事件は、何もインターネットがある前からあるわけですし、ロック音楽がある前からも、あるもの。
しかし、普段から何も考えない人間は、何か目新しいものに原因を押し付け、「ああ!なんてことだ!なんてひどい時代なんだ!」と嘆くだけ。それは残念なことに時代を超えた人間の姿であり、今後とも変わらないでしょう。

ただ、大きな事件ですので、そのうち、とある作品を通じて、あの事件を考えて見たいと思い、その作品を読み直しているところです。
今まさに読み直している最中なんですが、最初の頃にこんな言葉がありました。
『鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血が流れたときは、悲劇は終わってしまったあとなのである。』

通り魔に関連してだから、あの「八つ墓村」なの?
と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、その手のミエミエの作品ではありません。
というか、「八つ墓村」からも、いいネタが取れそうだけど・・・
もっと有名な作品です。できれば来週辺りの配信にしたいと思っているところです。
 展望力は、別の言い方をすると「俯瞰した視点」となります。
このことについては「09年8月29日 配信 俯瞰した視点」を参照のこと。
R.10/12/24