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カテゴリー ダメダメ土曜講座(発想と視点編)
配信日 09年8月29日
タイトル 俯瞰した視点
今週は様々な「作品」からダメダメ家庭の問題を考えてみました。
月曜日が心理学者で、水曜日と金曜日は芸術家による作品です。

ちなみに・・・
なんでも最近話題になっている村上春樹さんの「IQ84」という本では、芸術作品が言及されているそうで、今週の水曜日に取り上げたヤナーチェクによる「シンフォニエッタ」という曲と、金曜日に取り上げたチェーホフによる作品が引用されているとのことですが・・・

芸術家が他の芸術作品を引用する際には、それ相応の意図があるもの。
この私はこの手の解読においては、日本では3本指には入るでしょうが、私はその村上さんの本を、今のところは読む予定はありません。ご興味のある方は、村上さんの意図を解読してみては? 往々にして引用は、その作品全体をテーマと直結しているもの。逆に言うと、作品全体の意図がわからないと引用の意図もわからないわけ。このようなことは、以前にウィーダの「フランダースの犬」におけるルーベンスの引用意図について言及した際にもちょっと触れております。
芸術作品を引用した意図を解読するためには、やっぱり作り手と同じようなものを見ていないと難しいわけ。研究者とまりの人には無理なんですね。村上さんのその書籍だったら、タイトルからしてジョージ・オーウェルの「1984」の引用でしょうしね。何か管理社会というものと関係があるのかな?

芸術家はモノが見える存在・・・このことは、このメールマガジンで頻繁に言及しております。このメールマガジンは何も、芸術作品を解説するのを目的とはしていないんですが、芸術家の視点を取り入れると、理解しやすいことが多いもの。

ただ、「モノが見える存在」と言ってもピンと来る人は少ないでしょう。
ヘタをすれば、ある種の「オカルト的」なものと捉えられてしまう。

それこそ守護霊とか、前世とか・・・
そんなオカルトチックなものが見えるのは、いわばセンサー系の規格外でしょ?
芸術の分野で言及される「見える」は、そのようなセンサー系というよりも、情報処理系の「見える」です。見ているモノが違うのではなく、見え方が違うといえるでしょう。
前から書いていますが、「物理的なり生物的に見ていても、心理的に見えていない」ものを、心理的に見直す・・・そのような問題です。

このような情報処理系での「見える」のは、いわば俯瞰した視点。
全体像が一般人よりもよく見える・・・そんなものなんですね。

このような俯瞰した視点というものは、何も芸術分野だけではありません。
以前に日本のサッカー選手のインタビューを読んでいたら、やっぱりこの「俯瞰した視点」が出てきました。それこそサッカーだったら、競技している選手は、自分の周囲の選手の方向とか距離感がわかることになる。だからといって、競技場全体での配置とか状況は、直接的には見ることができないでしょ?

テレビのサッカー中継だったら、上から映しているわけですから、テレビを見ていると全体の状況がわかったりする。だから「あの選手が今チャンスだ!」「ここがウィークポイントだ!」とわかったりする。実に的確にパスを出せる選手は、競技上でプレーをしながら、上からも見えている状態なんですね。
本来は、競技場内での選手には、単に方向と距離がわかるだけで、全体像はわからない。
しかし、中には全体像が見えたりする人もいるわけ。

だって、たとえば飛行場のレーダー監視のように、対象物の方向と距離がわかれば、それをマッピングすればいいだけ。そうすれば全体像が復元できまずよ。そんなことはプログラミングすればできること。
必要な情報そのものは入手しているわけでしょ?あとは、それを適切に情報処理すればいいだけ・・・そうなんですが、そうは単純にはいかない。

そんな情報処理は、コンピューターならともかく、生身の人間が簡単にできるわけがない。
しかし、ある特定の分野においては、そんな部分部分の情報から全体像を作りあげることができる人もいるんですね。

一般の人は自分の周囲の距離と方向感がわかるだけなのに対し、それを情報処理して、全体像が見える人がいるわけです。その全体像も、時間軸も加わってくる。時間の流れを情報処理すれば、その後の展開を見えてくるでしょ?
このような情報処理系の「見える」だと、生身の人間ができるのは、自分が得意とする分野だけ。コンピュターでの情報処理だったら、どんな分野でも適用可能ですが、生身の人間の情報処理は、分野に依存するわけです。だからこそ、あの大天才モーツァルトも音楽以外には、からっきしとなってしまう。モーツァルトが音楽の能力の10分の1でも、商売の分野に才能があったら、もっと長生きしていますよ。

得意とする分野については、全体像なりキーポイントなり、時間軸を含めた俯瞰した視点を持っている・・・それが「見える人」というわけです。

それこそ、以前にこのメールマガジンで「フランダースの犬」の作者ウィーダの言葉「普通の人には見えない景色を見、普通の人には聞こえない声を聞くことこそ、詩人や芸術家の才能というものなのですから。」なる言葉を紹介したことがあります。

あるいはイギリスの詩人のワースワースの詩の一節、「眼はひとりでにものを見るし、耳に聞くなと言ってもどうにもならぬ。どこにいようと、わたしのからだは、わたしらの意志にお構いなしに感じるのだ。」という言葉を紹介したことがあります。

あるいは、以前にちょっと言及したアメリカの小説家のウィリアム・スタイロンの「ソフィーの選択」という作品の中には「あの子はモノが見える子だった・・・戦争で死ななかったらきっと作家になれただろう・・・」なる言葉もありました。

もちろん、見えるということでは、以前に「蟲師」というアニメを取り上げましたが、その主人公のギンコさんが見える人。ただこちらは、ストーリー上、センサー系の「見える」になっています。

あるいは、これも以前に取り上げたアメリカの詩人エミリー・ディキンソンの「Experience is the Angled Road」なる言葉は、まさに直接的に見ることの困難さを言っているわけ。

芸術作品においては、見え方の問題そのものがテーマとなっている作品も多いものなんですよ。以前にも書きましたが、中期の冒頭にはそんな作品が多いもの。いわばその創作者の芸術家宣言のような作品です。まあ、「ワタシは一般人と違うものが見える!」と宣言したりするわけです。もちろん、その俯瞰した視点といっても、当人の目の前には現実の光景が存在しているわけですから、それが見えなくなるわけではない。
まあ、微妙に立ち上ってくる光景・・・そんな感じでしょうか?
パソコンだと、Windows Vista から「Aero」なる表示方法が登場しましたが、俯瞰した光景もあんな感じで出て来るわけ。
微妙に半透明なイメージで、現実に見ている光景の上にダブることになる。

見える人はそんな見え方は、誰もがするものだと思っていたわけですが、まあ、世の中では、見えない人の方が多数派なんだと、段々とわかってくる。
しかし、曲がりなりにも見えているわけですから、そっちを見ていると、「オマエはいったい何を見ているんだ?」などと聞かれたりする・・・
何も守護霊とかのオカルトでもなく、妄想系の白昼夢でもなく、別種の情報処理によるイメージなんですね。だから、そんな光景も現実の一種といえる。

それこそ、サッカーを見るに当たっても、グラウンド上の選手の目線で見ても、上から俯瞰した目線で見ても、見ているモノは同じものでしょ?
だからそんな視点からの見解は、グラウンドにいる人も、検証することができますよね?
だから、それを自分なりに考え、上手に使えばいいだけ。

しかし、ダメダメ人間は、自分で考えることから逃避する。だから何か別の視点を提示されても、それを自分で検証したりはしない。「信じるか?信じないか?」の信仰に近いとらえ方になってしまう。だからこそオカルト的に受け取りやすい。
だからこそ、新しい視点を有効に生かすことができずに、何も考えずに突っ走って、ドッカーンとなってしまう。そうして「ああ!どうしてこんなことに?!」と嘆くことに。

「見える」人は、そんな光景に接すると、「アホか?コイツ・・・そんなことは分かり切ったことだろうに・・・」と見てしまう・・・
そんなシーンも現実にあったりするもの。

俯瞰した視点は、ある種の「見透かした」視点にも繋がったりします。
当然のこととして、そんな人に対してはウソやごまかしは通用しません。単にその人がわかっていないんだったら、どうしようもないわけですが、わざと見ようとしなかったり、自分を騙していたり・・・そんな人は、この手の見透かした人が苦手なもの。
「見えている」人は、建前の言葉を連呼するその人の背景にある本音を見てしまっているわけ。
音声情報なり、視覚情報と、その背後に見える本音が乖離しているのが、当人以上に見えたりするわけ。
だから、ついつい・・・呆れた表情をしたりするもの。
・・・で、モメたりする・・・

俯瞰した視点というものは、学校では教えられないし、教員は理解もできない。
そもそも俯瞰した視点は、規格外のもの。学校という規格品の製造所には関係のない世界。
しかし、センサー系の規格外ではないんだから、検証可能なものなんですね。
だからその取り扱いなり利用法については、誰でも習得できるもの。
それこそ、「羊たちの沈黙」でのクラリスのように、ごまかしをせず、強い意志を持つことが必要だし、ある意味においてそれで十分。

芸術作品においても、この手の俯瞰した視点が登場してくるものです。
何もそんな作品を作る必要はないわけですが、それを生かすことは誰でもできるわけです。
上から見渡して見ると、状況が認識しやすい・・・って、どんな分野でもそんなものでしょ?

(終了)
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発信後記

本文中にも書いていますが、この手の「見え方」の問題がテーマとなる作品は、その作家の中期の冒頭に多くあります。それこそリルケの中期の冒頭の作品といえる「マルテの手記」でも「わたしは見ることから始めるつもりだ。」となる言葉がありました。

中期の冒頭は、そんな感じの「見る」ことについての作品が多くあるわけですが、晩年になると、生成感をテーマとする作品が多くなったりします。
作品としてまとめたいことがまだいっぱいあるけど・・・まあ、時間的に、無理だなぁ・・・途中で終わっちゃうんだろうなぁ・・・となって、逆に言うと、生成過程としての自分を認識するわけ。
自分の一生が終わっても、創作の旅は、まだまだ続く・・・そんなことがテーマになるわけです。

それこそ、金曜日に取り上げたチェーホフの晩年なんて、まさにそのパターンですし、実は、水曜日に取り上げた作曲家のヤナーチェクのそのパターン。
そんな生成感が前面に出てきたら、その人の余命も、見えてきているわけ。
村上さんの書籍を読んでいないので、村上さんの引用の意図をここで論じるつもりはありませんが、チェーホフとヤナーチェクは、似たタイプの芸術家であって、その現状認識なり問題意識も共通しているわけ。

ということで、皆さんも、その手の作品に接してみてはいかがでしょうか?
どんな作品に注目するかで、余命も見えてきたりするかも?
R.10/12/27