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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 08年8月20日
タイトル 心の近視眼
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、パソコン向けのメールマガジンです。
お読みになられている方は、パソコンのディスプレイを見ていることでしょう。
あまり長時間パソコンのディスプレイを見ていると、眼がショボショボしてくる。ショボショボどころか視力が落ちたりする。

「おいおい!視力が悪いのがダメダメなのか?」
なんて思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、もちろんのこと、そんなことはありませんよ。メガネを掛けるなり、コンタクト・レンズを入れるなりして矯正すればいいだけ。多少の出費はかかりますが、逆に言えば、そんな出費で済む問題でしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、ある意味において「倫理的にものを見る」ものです。
「それは倫理的に見て正しいのか?」
そんな問い掛けが多いわけ。
それこそ、以前から言及しております韓国の歴史教科書などもその典型と言えます。
戦争についての記述においても、「倫理的に正しいのはどっちなのか?」と言う点ばかりが書いてあって、年号とか場所とかの具体的な記述がないわけ。

ダメダメ人間は、「自分は倫理的に見て正しい」と主張し、「ワタシは正しいんだから」「悪いのは全部○○のせいだ!」などと展開し、その「○○」を恨むだけ。

倫理的な視点しか持たないダメダメ人間は、ヘタをすると、それこそ視力の悪さまで倫理の問題にしてしまうもの。

オマエの目が悪いのは、
「かつてオマエがやった悪行のつけだ!」
とか、
「オマエの前世での悪行が災いしたんだ!」
とか、
「オマエの祖先の悪行のせいだ!」
とかの、
「過去の悪い行い」→「今現在の不都合」
そんなロジックなんですね。

まあ、サスガに視力が悪いくらいで、現実的には、そんなことを言われるわけではありませんが、何事も倫理的な視点で捉えるダメダメ人間にしてみれば、深層心理的には、そんなストーリーでの説明を求めているわけ。
逆に言うと、何事も倫理的な視点で捉えるダメダメ人間は、自分の問題を認めたくない。だって、自分の欠点なり問題を認めること・・・これすなわち、自分が倫理的に劣っていることを認めることになるでしょ?

視力の問題でも、「ワタシは目が悪いから、メガネを買って、掛けるようにしないと・・・」とプラグマティックに考えて対処すれば済む話ですが、倫理的な視点の人間だと「オレの行動のどこが悪かったんだろう?」とか「前世の悪行を、解決しないと!」なんて思ってしまう。

何回も書きますが、視力が悪いくらいでは、そこまで思いつめることはないでしょう。
しかし、もうちょっと深刻な問題だと、そんな感じで考えて行く人って結構ポピュラーでしょ?逆にいうと、だからこそ、その手の「過去の問題」に対処できるという効能をうたう「ありがた〜い」ツボを買う人もいるんでしょ?

視力の問題はあくまで、極端な例です。いわば、事態を倫理的にしか見ることのできないが故に発生する問題点を明らかにするために、採用しているだけです。
ブレヒト流の「異化」のようなものとお考えください。

では、まさにブレヒト流に極端な事例を例示しながら、もう少し話を進めましょう。

倫理的にしか物事を見ることができないと、自分の至らない点を認めてしまうと、それが自分の倫理的な下等さを認めることになってしまう。だから自分の至らない点は認めようとしなくなってしまう。

それこそ視力が悪い状態でも、「じゃあ、メガネを買わないと!」という現実的な発想にはならないで、「視力が悪いことは、ふつうのことなんだ!」「社会として、視力が悪い人でも、何の問題なく暮らせるように社会を変えていこう!」そんな発想になってしまう。
「視力0.1の人でも、メガネを掛けないで安全に暮らしていけるように、社会を変えようじゃないか!」

そんな主張は、ある意味において、正論でしょ?
表立ては反論できませんよね?
視力0.1の人が、メガネを掛けないでも、問題なく暮らせる社会になれば、確かに「いいこと」ですよ。

しかし・・・そんな主張を聞いた一般の人の心の声はコレでしょ?
「つーか・・・メガネなんて¥4000くらいで買えるんだから、そんなゴチャゴチャ言っていないで、さっさとメガネを買えばいいじゃないの?」
お金がもったいないのなら、誰かからお古のメガネをもらうという方法もある。
視力が悪いから矯正しないと・・・と自覚があれば、対応は簡単ですよ。

しかし、倫理的な視点しか持ち合わせないダメダメ人間は、そんなプラグマティックな発想にはならないわけ。
自分の問題点を認めたくないがゆえに、自分の問題というよりも、他者の問題にしてしまう。
そうして社会にクレームを付け、周囲に要求することになる。
そんなクレームをつける姿を見た周囲の人は、そんな人から離れてしまう・・・なんてことは誰でもわかること。

それこそ、「ワタシは最近、ちょっと目が悪くなったので、アナタのお古のメガネをくださいな!」と頼めば快くもらえるのに、「視力が悪い人にも安全に暮らせるように、社会を変えていこう!」と熱く語り、周囲の人から呆れられるだけ。
しかし、そんなクレームを付ける姿に共感した人が寄ってきて・・・
「一緒になって社会と戦って行きましょう!!」と大合唱となったりする。

何回も書きますが、現実的には、視力の問題くらいでは、そんな騒動にはならないでしょう。
視力の問題で例示すると、いかにも不自然ですからね。
しかし、そんな不自然なことを、視力以外の分野では、やっていたりするものでしょ?

それこそ、このメールマガジンでたびたび言及しております家庭内暴力(ドメスティック・ヴァイオレンス)も、いわば「人を見る目」の問題でしょ?
人を見る目がないのなら、それを向上させたり、あるいは、「人を見る目」のある人のサポートを受ければいいだけ。しかし、現実の「活動家」は、「どんなバカな人でも、そんな悲惨な目に合わないように、社会を変えていきましょう!」という主張でしょ?

その主張は、ある意味においては正論であっても、現実に根ざした見解ではありませんよね?だって、「人を見る目」がないという状態は、そのままなんだから、そんな人は別のところでコケますよ。また、ダメダメな人とくっついてしまいますよ。そうならないためには、自分の「人を見る眼のなさ」について、自覚した方が現実的じゃないの?
「どうやって『人を見る目』を矯正していくのか?」
それって、まさに視力の問題と一緒ですよ。
逆に言えば、「見る目」を矯正すればいいだけ。

ダメダメ人間は、当事者意識がない。だから達成したいものそれ自体がない。
そしてダメダメ人間は、被害者意識が強い。だから不都合な事態を自分の被害と認識し、他者にクレームをつけることで解決しようとしてしまう。
そして、ダメダメ人間は、自己逃避であって、自分自身の問題から目を背ける。

ほんのちょっとした出費なり努力で済む問題でも、他者の問題にするから、解決できない。
自分の目標がない、自分の未来が見えていない、そして自分自身の現状も見えていない・・・そんな近視眼というわけ。
ホント、目の矯正が必要ですし、まずは、その問題の自覚と解決を最初に行う必要があるわけ。
しかし、自己逃避の人は、自分から逃避して、倫理の体系にすがってしまうう。
自己逃避に根ざしているがゆえの倫理なんだから、そんな人の言う倫理は、全部他者の問題になってしまう。そうして、ますます自分自身から逃避してしまう。
そして、過激なクレームを付けることが、自分で自分を騙す儀式の役割となり、ますますクレームのレヴェルが上がってしまう。
ということで、クレーマーのような社会に迷惑を掛ける存在となってしまう。
しかし、当人としては、まさに倫理的な視点からのクレームなので、その限界もないし、周囲への配慮もないわけ。
倫理的に見るがゆえに、そんな人の行動は、倫理から外れてしまう・・・それが現実でしょ?

(終了)
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発信後記

抑圧された人ほど、その視点なり、その言葉において、倫理的なものが多くなるものです。
だって「自分は何をしたいのか?」そんなことを考えることを抑圧しているので、逆に言うと、第3者的な観点といえる「倫理」を持ち出してくるわけ。

しかし、そんな人は、結局は自己逃避なのであって、だからこそ「汝自身を知れ!」という倫理の基本を持ち合わせていないわけ。だから自分の問題が自覚できず、周囲にクレームをつけ続け、その周囲に報復することになる。
「悪いのは全部○○のせいだから、アイツには何をやってもいいんだ!」
倫理的な人が、そのような行為を平気でやってしまうことは、皆さんの周囲にも頻繁に見られることでしょ?
R.10/12/12