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カテゴリー | ダメダメ家庭の親のキャラクター | |
配信日 | 08年9月12日 (10年10月8日 記述を追加) | |
タイトル | いちいち面倒な姿 (背中で被害を語る) | |
個人的なことになりますが、以前にちょっと街を歩いていたら、犬がトボトボと歩いていました。法律的にはロープがないといけないのでしょうが、犬が単独で歩いている。 その後ろを、飼い主らしきオバサンが、やっぱりトボトボと歩いていました。 その犬も、年齢を経たメス犬のようで、まあ、犬と人間のオバサン・コンビと言うわけなんでしょう。その犬も、走り出すような元気がありそうもない。実質的には、ロープがなくても問題ないんでしょうね。 見ていると、いかにもトボトボと歩いている。 その犬の口から、「はぁ〜ドッコイショ。」とでも言っていそうな雰囲気。 いやぁ・・・いい味、出しているじゃん。 人間も犬も、歳を取ったら、やっぱり何をするにも、疲れたりするんでしょう。やっぱり億劫になるんでしょうね。「ドッコイショ」とでも言って、ちょっとした気合を入れるのもアリなのかも? ドッコイショと言って、自分に気合を入れたり、勢いを付けたりするのはともかく、ダメダメ家庭の人間は、周囲の人に『見せる』ために、そんな行動をしたりするもの。 いちいち億劫な姿を、周囲に見せたりするんですね。 そもそもダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強い。 当事者意識がないので、自分自身では何も判断しないので、常に受け身の姿勢。だから、あらゆることを自分が被った被害と認識する。何をするにも、自分の持ち出しなり、被害を考えることになる。 だから、子育てだって、親である自分が背負わされた被害と認識して疑いがない状態。 「誰のために、こんな苦労をしていると思っているんだ?」と、子供に対してお約束のように言っている。 そんな人間なんだから、周囲に自分の子供がいれば、その子供に対して、自分の億劫な姿を「見せ付ける」わけ。あるいは、直接には言わなくても、いわば独り言に近い形で、グチったりするわけ。 「ハァ〜疲れた!」 「もおぅ〜」 「ほんとうに、いつになったら・・・」 当然のこととして、休日に家族でどこかに出かけるなんてことも、タイヘンな被害と考える。 「ハァ〜面倒くさい!」 「お金がもったいない!」 「休日くらいは・・・ノンビリ。」 あるいは、別のところで書いていますが、子供が進む学校を選択するような折にも、「面倒な姿」を子供に見せつけることになる。 「もう、一番近い学校でいいじゃないの・・・」 「色々と、比較するなんて、面倒だわ。」 「遠くの学校だと、入学した後でも、色々と面倒なんだから、コッチはイヤだよ。」 「まあ、どうでもいいから、さっさと決めてよ。こっちは色々と忙しいんだからね。」 そんな「あ〜あ、めんどくさ・・・」という雰囲気が如実に漂ってくる。 学校を選択する際だけでなく、それこそ病院のような命に係わる選択においても、「もう、どうでもいいじゃないの・・・」とズボラ一直線。 学校なり病院なりの選択とか、休日にどこかに出かけることについての鬱陶しさについては、それなりに一理あるわけですが、それだったら、本来は子供なんて作ってはダメでしょ?子供がいれば、それ相応の手間がかかるものですよ。 手間がイヤなら、子供を持たなければいいだけ。 しかし、ダメダメ人間ができるのは、子作りだけ。 グチばかり言っているダメダメ人間の相手をしてくれるのは、自分の子供だけ。 そして、そんな人の唯一のアイデンティティは「ワタシはかわいそうな被害者なんだ。」ということ。 だから、自分の子供に対し「自分は子供による被害者なんだ!」と主張したい。そんな人は、子供に関わる行動のすべてが、子供による迷惑という位置づけ。 だから、自分の子供の存在による被害を、その『姿』で語るわけ。 何をするにも、そんな「いちいち面倒な姿」が伴い、その姿を子供に見せるわけです。 日頃から、そんな「いちいち面倒な姿」を見せられたら、子供としては「親に迷惑をかけないように」と思うでしょ? だから、子供だけで問題を全部解決しようとして、うまく対処できずにトラブルが大きくなってしまう。 そんな家庭で育った子供は、当然のこととして、結婚後にトラブルがあっても、実家には相談できない。そもそも結婚前にも親に相談できないもの。 親に相談を持ち込んでも、まさに「もう、てきとうでいいじゃん。・・・いざとなったらなんとかなるわよ!」と投げやりな回答になるだけ。 そんな環境なんだから、そんな家庭で育った人間は、まさに「て・き・と・う」に結婚してしまう。 そんなことだから、結婚後にドメスティック・ヴァイオレンスにもなりますよ。 子供が進学する学校を「てきとう」に選ぶ親の子供は、大人になって、自分の結婚相手を「てきとう」に選んでしまうは、実に自然な流れでしょ?まさに「子は親の鏡」そのもの。 そんな「いちいち面倒な姿」の元で育ってしまうと、それこそそんな人の書いた文章には、実に略字が多いもの。それこそメールマガジンをMMと略したり、ドメスティック・ヴァイオレンスをDVと略したりする。「これからはメールマガジンをMMを呼称します。」と最初に記述を入れておけばいいわけですが、そんな記述もない。 そんな略字からは、いかにも面倒というニュアンスが漂ってくるものでしょ? まあ、そんな人は、その他の部分も、わかりやすい記述にはなっていなくて、ズボラなものなんですね。 そんな略字にするくらいに急いでいるの?いったい何に急いでいるの? そんな急いでいる姿を見せられれば、その記述内容を読んで疑問に思っても、追加して質問なんてできないでしょ? しかし、自分の被害を真っ先に考えるダメダメ人間にしてみれば、そんな「いちいち面倒な姿」こそが、自分の被害を「背中で」語ることになるわけ。 自分の被害を客観的で詳細な形で説明することはせず、「あ〜あ、鬱陶しいなぁ・・・」という投げやりな態度でもって自分の被害を語るわけ。 文章中のそんな略字を見るだけでも、その人の親の姿がわかってしまう。 そんな人は、往々にして、「自分は自分の親を反面教師にしている!」なんて言ったりするものですが、「いちいち億劫な姿」という点において、まさに親譲りそのもの。 棺おけに片足を突っ込んだ年齢だったら、実際にお疲れでしょうから、そんな億劫な姿もしょうがないところでしょう。しかし、そんな年齢になる前から、億劫な姿を見せる・・・そんな姿は、その根底にある被害者意識を、つまり、何事も自分が「やらされている」と考えてしまう発想を「背中で」見せているものなんですね。 「やりたくないけど、しょうがないから、やらなくてはならない・・・」 そんな被害者意識と漠然とした義務感ばかりで、当人の判断は霧散している。 それこそ、子育てだって、国民の義務だから、しょうがなく、やっているだけ。 だからこそ、その人自身にしてみれば、被害となる。 何事も、イヤイヤやらされることが大前提になってしまっている。 誰かからの依頼を受けるにあたっても、「渋々従う」ということがデフォルトになっている。 「渋々従う」ことが基本なので、合意には意味はない。合意があろうがなかろうが、どのみち「渋々従う」だけなんですからね。だから、合意を取って、相手に納得してもらうという発想がなく、命令と服従の関係だけ。 むしろ、「渋々従う」ことがデフォルトとなっていると、その「従わなければならない」状況から解放してアゲることは、相手から感謝されるに値する立派なことと考えることになる。 たとえば、お葬式のようなイヴェントも、「渋々呼び出される」という発想が大前提となっている。 そんな人にしてみれば、ある人に対して葬式の連絡をしなかったら、「お祖母さんのお葬式には、オマエを呼ばないでやったんだから感謝しろ!」となるわけ。 「アナタをお葬式という面倒な事態に巻き込まないでアゲた、このワタシはなんて親切な人なんだろう?!」そのように自画自賛する気分なんですね。 まあ、ダメダメ家庭においては、親戚が死んでも葬式の連絡が来ないことは、実際に慶賀することでしょうが、そんな常識は、一般社会では通用しないでしょ? いやいややらされることが常識となっていると、何かをするということが、その人にとって被害という位置づけになってしまう。だからこそ、面倒で億劫な姿を周囲に見せることになる。 そもそも自己逃避の人間なので、そんな姿を見せていることについて本人は自覚がないもの。まったく無意識的に、自然にそんな姿になってしまう。だから当人はその自覚がない。だから、その人の子供がトラブルを起こした際には、「どうして、こんなことに?!」「ワタシたちは、いつも会話があった!」「困ったことがあったら、相談してくれればよかったのに・・・」などと周囲に主張したりするもの。 しかし、言葉以上に、背中で「ワタシは子供による被害者だ。」と語っているわけ。 だから、子供が独りで問題を抱え、切羽詰った子供が、ドッカーンと行ってしまうわけです。 そうして、お約束のように「どうして、こんなことに?!」「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くことになる。 しっかし、どうしても何も・・・親がそんな人間だったら、子供がそうなってしまうのは、本来なら誰でもわかることでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 ダメダメというものは大脳の器質の異常が原因である・・・ そんな考えの人もいらっしゃるようです。学問的にもそのような主張をなさっておられる方もいらっしゃるとのこと。この私へのお便りでそんな考えについて言及なさっておられた方もいらっしゃいました。 ・・・まあ、だから・・・ワタシの子供の異常行動については、脳の器質の問題だから・・・親である、ワタシは悪くない!・・・ということを言いたいんでしょうネ。 なんでも統合失調症・・・昔の言い方でいうと精神分裂病・・・は、脳の器質的な問題であるとの研究があったそうで、ヤフーのサイトにニュースで載っていました。 そのような症状のある方の脳が、いわゆる健常人の脳と差異があるからと言って、これすなわち、脳の器質的な異常が、統合失調症の原因であるとは言えないでしょう? 脳は成長するものであって、生まれたばかりの赤ちゃんの脳と、大人の脳は違うでしょ? 脳の機能を使うから、その部位が発達したり、正常に動くようになるのでは?強いストレスがある環境だったら、脳に器質的な悪影響も及ぼすのでは? 生まれたあとで、スグに地下牢に放り込まれてしまったら、元々は正常な脳だったとしても、その後で、器質的な問題も出てくるんじゃないの?それこそ人工的に、統合失調症にすることもできるでしょう。もちろん、そんな実験は人道に反していますが。 ただ、ダメダメ家庭というものは、いわば地下牢と同じようなもの。出口のない閉塞した状態なんですね。そんな環境で暮らしていたら、統合失調症にもなりますよ。 人間は、環境に順応するものであることを前提に考えないと、学問的な思考も、トンチンカンなものになってしまう。8月において集中的にご紹介いたしましたエーリッヒ・フロムによる著作「自由からの逃走」においても、そのような、「環境に順応しようとする性質」に非常に注意を払っていました。 抑圧的な家庭環境だったら、そんな家庭にいる子供は、自分の感情を抑圧するようになってしまい、自分の希望を抑圧しているがゆえに、妄想に救いを求めたりして、まさに統合失調症になる・・・ その結果として、脳にも障害が起こるかもしれませんが、被害者意識が強い家庭では、子供は自分の希望や感情を抑圧しなくてはならないので、あらゆるものを、自分の被害と考えたり、それを妄想に発展されてしまうことなんて、ダメダメ家庭においては、程度の問題は別として、実にポピュラーなことですよ。 器質的な原因から妄想が生じる例もあるのでしょうが、妄想しか救いがない環境も、現実としてあるわけ。 たとえ、脳の器質の問題を医療的に処置しても、その患者さんをダメダメ家庭に戻したらどうなるか? そんなことは、子供でもわかることでしょ? |
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R.10/10/8 |