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カテゴリー | 文芸作品に描かれたダメダメ家庭 | |
配信日 | 08年10月20日 | |
取り上げた作品 | アンナ・カレーニナ | |
作者 | レフ・トルストイ | |
テーマ | 自己逃避型キャラクターについて | |
このメールマガジンで、ロシアの文豪トルストイの言葉である「およそ幸福な家庭はみな似たりよったりのものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれである。」という言葉に言及したりしています。 私個人は、その見解には賛成いたしません。不幸な家庭・・・つまりダメダメ家庭というものは、多少の違いはあっても実に共通性が多いもの・・・私はそのように考え、その共通性の実例を、このメールマガジンで取り上げております。 実際に、この私が書いているダメダメ家庭の諸相は、購読者さんが実際に体験したダメダメ家庭と実に「似たりよったり」でしょ? つまり、不幸な家庭というものは、共通性が高いと見た方が理解しやすいわけです。 じゃあ、この私とトルストイは、まったく別の考えなのか? トルストイと私は、まったく違ったスタイルの「不幸な家庭」を想定しているの? 「不幸な家庭」を考える視点は、時代なり場所なり、あるいは、まさにその家庭によって、そんなに違いがあるの? ある人が見ると、多様性が見えてきて、別の人が見ると、共通性が見えてくるものなの? そうとは言い切れない。 そもそも、私はロシア語なんて全然わからないんだから、上記のトルストイの言葉だって日本語に翻訳したものから取っています。日本語訳にあたっては、翻訳者の判断が介在してしまい、原作者の当初の意図が違ったものになることが多い。それに、文章全体の中に言葉があるのであって、その一部だけを取り上げて云々するのは、フェアーじゃない。 と言うことで、その言葉が入っている作品全体を読んでみたい・・・と以前より思っていました。 上記のトルストイの言葉が入っているのは、有名な長編小説である「アンナ・カレーニナ」です。文庫本だと合計3冊くらいになる、冗談抜きで長い小説。まあ、合計して900ページ以上はあります。 トルストイの言葉は、その「アンナ・カレーニナ」の冒頭・・・正確には第1章の冒頭に記されています。 この「アンナ・カレーニナ」の簡単なあらすじは、以下のようになります。 かなり年上の夫を持つアンナ・カレーニナは、夫との関係にも特に問題はなく、一人息子とも問題はない。ちなみに夫のアレクセイ・カレーニンは貴族で有力政治家。列車の中でお軽い若い貴族のウロンスキー伯爵と偶然に知り合ったアンナ・カレーニナは、口説かれて、結局は関係を持ってしまう。やがては、アンナはウロンスキー伯爵との間に子供もできてしまう。 夫との関係、子供との関係、そして恋人であるウロンスキー伯爵との関係に苦悩するアンナ。結局、アンナは、列車に飛び込んで自殺する。 ・・・という作品です。 この作品は、このアンナの行動を一方の軸に、そして、レーウィンという貴族とその妻のキティの行動を、もう一方の軸に展開いたします。 なんでも、「偉大なる恋愛小説!!!」なんだそう・・・ しかし、たとえ翻訳であっても、全文を読んでみると、とてもじゃないけど、恋愛小説とは言えないでしょう。全体のテーマは、まさに作品の冒頭にあるように、「幸福な家庭と不幸な家庭」の問題なんですね。 しっかし、読者に誤解されないように、作者がわざわざ最初に書いているのに、どうして恋愛小説と読んじゃうんだろう?トルストイもお墓の中で泣いていますよ。 読むだけの人間だったり、翻訳する人間だったり、あるいは研究する人間なら、この「アンナ・カレーニナ」という作品を恋愛小説と思うのかもしれませんが、たとえメールマガジンであっても、まがりなりにも文章を書いている私が見ると、トルストイの工夫なり表現の意図も実にわかりやすい。 というか、この「アンナ・カレーニナ」を読んでいると、「ああ!このシーンで描かれている心理は、以前にメールマガジンの文章としてまとめたよ!」とか、それどころか「このシーンって、ほぼ同じ言葉で自分も実際にやったよ!」と苦笑いすることになる。 作品を「外から」研究し、その研究成果を発表するのも勝手ですが、コッチは、実際の体験として、作品で描写されている事件をやってきたり、登場人物と似たキャラクターの人とのやり取りを実際にやったりしているんだから、実感のレヴェルが違いますよ。やっぱり「書き手」と「読み手」は本質的に違うものなんでしょうね。 では、作者であるトルストイは、この「アンナ・カレーニナ」という作品を制作するにあたって、どんな状況を見て書いたのか?アンナ・カレーニナという人物に何を見たのか?あるいは、作品を通じて読者に何を見せようとしたのか? それは実にシンプルです。 アンナ・カレーニナを、特徴つける中心的なキャラクターは「見ない」ということ。 トルストイは「アンナ・カレーニナ」という作品によって、「見ない」人間の姿を、読者に「見せよう」としているんですね。 アンナは、周囲の人から、「彼女は、現実を見ようとしない。」などと言われている。 それどころか、「ワタシは、現実を見たくない!」「そんなものを見せないで!」と自分でも言っていて、周囲に要求する。 そのような「見ない」という言葉が、この「アンナ・カレーニナ」では頻繁に出てきます。 それに対して、レーウィンとキティ夫婦は、現実に逃げずに向かい合っている。だから夫婦で激しい口論があっても、一つ一つの問題を解決し、前に進むことができる。 アンナは、事態がマズくなると、「そんな困った事態は見たくない!」と、現実逃避するだけ。だから何も解決できずに、出口がどんどんと無くなってしまう。 そんな現実逃避の人間なんだから、周囲の人も、その「現実逃避を許容してくれる」人だけをはべらすようになってしまうわけ。現実から目を背けさせてくれる人を、「ああ!あの人って、ワタシのことをわかってくれる人だ!」「あの人だったらキツイことを言わないから安心だわ!」と受け入れることになる。 それに対し「で、君は結局はどうしたいの?」などと言われたら、逆上してしまい、そんな人との関係が悪くなる・・・アンナはそんな人。 「現実を見なさい!」と『言われない』うちは、良好な関係でも、いざ「現実を見なさい!」「アナタは、いったいどうしたいの?」と言われるようになったら、メチャクチャな関係になってしまう。 それこそ、アンナの夫の名前はアレクセイで、情夫であるウロンスキー伯爵の名前もアレクセイです。 2人とも、最初のうちは、アンナの現実逃避を許していた。しかし、事態がシビアーになってきたら、一緒になって現実逃避しているわけにはいかない。 事態の解決にあたって、一番の当事者であるアンナがどのように考えているか?どんな希望を持っているのか?当人に確認する必要がある。 しかし、現実逃避で、抑圧的なアンナは、「自分はどうしたいのか?」「自分がどのように考えているのか?」そのことを考えること自体がイヤ。そのことを聞かれると、まさに「どうしてそんなことを聞くのよ!キーっ!」と逆上するだけ。 そのような流れにおいて、夫も情夫のウロンスキーも同じ。 同じアレクセイという名前は、2人が同じキャラクターであることを暗示しているわけ。 本来なら、早めに対処すれば、キズは小さくて済むもの。 それこそ情夫であるウロンスキー伯爵との関係が深くなり、妊娠までしてしまう。 それを知った夫であるアレクセイ・カレーニンは、「その情夫ウロンスキー伯爵ときっぱり別れ、戻ってきたら、一緒にやり直す。」あるいは「もうきっぱり離婚する。ただし、一人息子の養育は夫である自分が行う。」そのように条件を出しています。そして情夫のウロンスキー伯爵も「ボクと結婚しよう!彼との間の子供もボクが責任を持つよ!」と言ってくれる。 夫からのそんな条件を受けて、アンナは離婚してウロンスキー伯爵と結婚するの?それとも、元の鞘に戻るの?それとも、修道院にでも行くの? 結局は、アンナがやった行動は、「夫と離婚もしないし、情夫ウロンスキー伯爵との関係はそのまま。」という問題先送りなんですね。ウロンスキーとは一緒に住むけど、結婚はしないわけ。 よく言う「内縁の妻」というヤツ。 夫と離婚するのも、元の鞘に収まるのも、どっちでもいいわけですが、アンナは何も判断しないわけ。「あのようなことをすれば、この面で不都合が起こる。」と減点部分に目が行ってしまって、どんどんと問題を先送りにして、自分で出口をふさいでしまって、結局は、列車に飛び込むという究極の出口だけになってしまう。 私はサスガに貴族のご夫人とのやり取りはやったことがありませんが、そのようなキャラクターの人とのやり取りは、結構ありますよ。 「どのような選択をするのか?」が問題なのではなく、そもそも「選択しないこと」が問題であるわけ。だから、何もアクションをせず、まさにドッカーンとなってしまう。 自分で判断なり選択するつもりがないものだから、現状認識もいい加減で、周囲の人もいい加減。そんな人間と一緒になっている人間も、所詮は同じ穴の狢。 幸福な家庭というものは、現実を直視して、その問題を一つ一つ解決していく家庭。 不幸な家庭は、現実から逃避して、問題をどんどんと先送りして、結局はドッカーンとなってしまう家庭。 トルストイは「アンナ・カレーニナ」という作品で、そんなシンプルなメッセージを発信しているわけです。そもそも長編小説だったら、逆に言うと、中心となるキャラクターや、中心となる「流れ」はシンプルなものにしないと、読む側以上に書く側がタイヘンですよ。それはいくら天才トルストイでも同じこと。 皆様が「アンナ・カレーニナ」をお読みになる際には、「見ない」という言葉に注目すると、作者の意図が見えてくるでしょう。 19世紀のロシアの貴族社会を背景にしていますが、この作品で描写されたやり取りは、21世紀の日本でも、やっているもの。 恋愛小説どころか、問題を先送り続けて、結局はドッカーン・・・という流れにおいて、まるで日本経済についての本と言えるくらい。まさにダメダメって、みんなこんなものだよねぇ・・・ということがよくわかる作品です。ホント、不幸な家庭のみならず、トラブルを抱えた集団は、いつも同じ様相をしているものなんですね。 なにぶん、やたら長い作品ですので、お読みになるのはホネが折れるでしょうが、長い作品は、構成もキャラクターもシンプルなものなので、実は、時間さえあれば、読むのはラクなんですよ。ちなみに、この「アンナ・カレーニナ」をお読みになる際には、事前に映画化されたものをご覧になっておくと、ラクだと思います。映像に接しておくと、ある程度イメージも浮かびやすいものですからね。そもそもロシアの人名はわかりにくいし・・・ 皆さんがこの作品を読まれる際には、周囲にアンナ・カレーニナのような人が実際にいたら、どんなアドヴァイスを送るのか?そんな当事者意識を持って読んでくださいな。 実に「見えて」きますよ。 見ない人間だからこそ、どんどんと追い込まれ、究極の「見ない」方法である列車へのダイビングとなってしまう。 「見ない」ために列車へダイビングするという方法はともかく、「あ〜あ、このまま現実逃避を続けると、やっちゃうだろうなぁ・・・」と思わされる人も、残念ながらいるんですよ。 そんな人は、皆様の周囲にも、実際にいるのでは? (終了) *************************************************** 発信後記 700回記念の号なので、モニュメンタルな長編作品を取り上げました。 ちなみに、今回は、「アンナ・カレーニナ」という作品においては、自己逃避というものが中心テーマとなっていることについてまとめておりますが、次回は、そのアンナ・カレーニナさんの自己逃避の様々な諸相を取り出してみます。続きの内容なので、配信は明日の火曜日です。 この「アンナ・カレーニナ」を取り上げることは、以前より予定していて、準備をしていて、多少匂わせたりしていたわけですが、とある芥川賞作家さんが、この「アンナ・カレーニナ」についての文章を公表していらっしゃいました。 なんでも「夕刊フジ」に書いたものらしい・・・私は「夕刊フジ」などは読みませんので、その作家さんが発行していらっしゃるメールマガジンで、先日その文章を読みました。 それが失笑するようなレヴェル。 「この作品は、気に入らない!」と、感情的に書いている。 しかし、そのようなことは、起こるもの。 自己逃避する人間の姿を描いた作品に対して、実際に自己逃避状態の人間は、感情的に反発するものなんですね。まるで自分がバカにされたように感じるんでしょう。それを自覚できればいいわけですが、そもそも自己逃避人間がそんな自覚に至るわけもない。 だから感情的な怒りをぶつけるしかない。 そんなことは、このメールマガジンの文章に対する反応で、実に多いパターン。 まさに「なじみ」のものですよ。 しかし、現実逃避をしている人間を厳しく描いた作品よりも、現実逃避している人間によって書かれた「ぼんやり」とした文章の方が、『商業的』な結果を得やすいのは、簡単にわかること。 だって、「自分自身を見なさい。」「現実を見なさい。」と言われ、それに納得すれば、実際に自分自身なり目の前の問題についてよく見つめ考えればいいだけ。 だから、そんな自分自身へ視点をもたらす作品は、基本的には一つあれば十分。 しかし、自分自身なり現実から目を逸らすためには、次々と新しい作品が必要になる。 見たくない現実が自分の目の前に入ってきたら、「新しい作品」で、それを塞ぐわけ。 そんな人は、次々と「新しい作品」を購入して、それによって目を逸らす。 だから、本も売れる。 いわゆる文学愛好者と称される人間のかなりの割合が、そんな自己逃避人間でしょ? そんな人のニーズに応える作品は、やっぱり自己逃避の「甘〜い」作品。 自己逃避の人間の周囲には、そんな「甘〜い」作品や、「甘〜い」人間ばかりのことが多いものなんですよ。 芸術というものにおいては、「使命」と「仕事」は大きく違うもの。読み手にとって厳しい文章は、商業的に売れないって、現実的には当然のことですし、何よりも歴史が証明している。 しかし、仕事のために、使命を放棄している人が、一番タチが悪い。 とは言え、現実的には、芸術業界で仕事としている人のほとんどは、そんな使命感なり問題意識すらないことも歴史が証明していること。 「作り手」と、研究者のような人たちとは、本質的に別物なんですね。 だから研究者による解説は、ビックリするほどトンチンカンなもの。 しかし、逆に言うと、一般の人は、そんな「解説」でないと、受け入れられない。 そんな現実があるので、まさにトルストイのような最後になってしまう。 これは芸術家にとって避けられないこと。しかし、逆にいうと、一般人は、この「アンナ・カレーニナ」で示された視点を参考にすれば、マトモな方向に進むこともできるわけ。 ということで、一度お読みになってみてくださいな。 |
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このアンナ・カレーニナのキャラクターについては、「11年1月18日 アップの 自己逃避における男女の違い」という文章において、考えております。 | ||
R.10/12/14 |