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カテゴリー | 会話のスタイル(発言側) |
配信日 | 09年6月8日 (11年1月9日 分離独立,,11年1月25日 記述を追加) |
タイトル | バッカじゃねーの? |
追記 | 「質問の質」という文章から分離独立 (11年1月9日) |
ダメダメ家庭の人間は、抑圧的であり、自分なりの希望を持つこと自体を抑圧している。そして、希望だけではなく、自身の感情なり、あるいは、不安のようなものも抑圧している。当然のこととして、自分なりに考えることも抑圧してしまっている。 だからこそ、自分なりの問題意識を持つこともない。問題意識も抑圧しているのがダメダメ家庭の人間と言うもの。 かと言って、的確な現状認識がないがゆえに、実際問題として、トラブルが多発することになる。 そのトラブルを踏まえて、周囲の人に対し質問したり相談することになるわけですが、現状認識や、その時点までの思考や、達成したいイメージを抑圧したままで質問されても、最も重要で基本的な視点が抜けていることが多いもの。 抑圧的と言うことは、自己逃避状態ということなので、自分に関係ある事項ほど、その質問から抜けてしまっているわけです。 だからこそ、そんな質問を受けた側が、つい言ってしまうのが「バッカじゃねーの?」と言うもの。 この「バッカじゃねーの?」という言葉は、以前に国会で話題になった「偽メール事件」での民主党の前原さんの行動について、自民党の人が言っていました。 前原さんは国政調査権云々で色々と食い下がっていましたが、まあ、「そんなもの、まず、調べたい銀行の口座番号を出せば済む話じゃん?!」と言うことなんでしょう。 「アンタ・・・何を小難しいこと言っているの?」 「そんなこと、カンタンなことじゃないの?」 「バッカじゃないの?」 と言うことなんでしょうね。 あるいは、自民党の大臣が、架空の出費の疑惑でモメていましたが・・・ 「法律にのっとって処理したから問題ない。」という言い訳も何も、その支出の領収書を出せば、それでオシマイでしょ? 色々と弁解すればするほど、「バッカじゃないの?」と思ってしまうだけ。 ダメダメ家庭の人とやり取りしていると、この「バッカじゃないの?」と思わされることも多いもの。 「誰でもできるこのことをやれば、問題は解決するのに、どうして、そんなに小難しいことを言ったり、方向違いの質問になってしまうの?」 「こちらとしては何も難しいことを要求しているわけではないのに、あーでもない、こーでもないとウダウダと・・・」 「アンタは一体、何が言いたいの?」 「何を分かりたいの?」 どうしても、そう思ってしまうことになる。 しかし、そんな明後日の方向を向いたことを言い出したりするような人間は、『ワタシたちは、○○なんだから、後はアンタたちでやってよ!』などと言い出す始末。まあ、この○○が以前の「偽メール事件」では、野党という言葉だったわけです。まあ、一般的なダメダメ人間とのやり取りでは、この○○は「被害者」という言葉になるケースが通常です。 何回も書いていますが「ワタシはアンタたちによる被害者なんだから、後はアンタたちの側が考えてよ!」なんて物言いになってしまうわけです。 しかし、そんな話を聞かされると、被害者かどうかはいいとして、「いったい、アンタはどうしたいの?」「そもそもの目的は何?」と思っちゃいますよね? そりゃ、「バッカじゃないの?」と思いますよ。 しかし、ダメダメ家庭はそもそも当事者意識がない。自分が本当にやりたいこと、やらなければならないことなんて自分でも分かっていない。 分かっていないというか、それを抑圧している。 「一番重要なことは何か?」 「一番解決したいことは何なのか?」 そんなことも明確になっていないような人の要求なんて、聞かされても分からないのは当然でしょ? そして、当事者意識がないダメダメ家庭では、そもそも物事を始めるにあたっても、「難しいことから始める」傾向があります。単純で効果的な方法を取るより、外面的な体裁のいいことに手をつけることが多い。外面的な体裁が重視されるので、当人からして、「何をしなきゃいけないのか?」が、ますます分からなくなってくる。発する側自身でも意味が分かっていないような話を聞かされる側は、キョトンとしてしまう。 当人が熱弁をふるっているのに、相手がキョトンとしているので、逆上してしまい、ますます何が何だか分からなくなる。こうなると、周囲の人にしてみれば、その物言いだけでなく、必死に語る様子そのものも「バッカじゃないの?」と見えてしまう。 だって、わけの分からないことを、顔を真っ赤にして言われても、「バッカじゃないの?」と思うのは当然でしょ? まあ、民主党の偽メール事件は、非常に分かりやすい例と言えるでしょう。 そのような、相手を途方に暮れさせるやり取りとなると、「で、結局は、アナタは何が言いたいの?」などと言った「素朴」な質問に対する対応の時にも頻発するもの。 「で、アナタは結局は、何が言いたいの?」と聞かれたら、『ワタシが言いたかったのは、このようなことだよ。』って、説明すれば済む話でしょ? 必要に応じ、補足説明をすればいいだけですし、その物言いを変える方法もある。 ところが対抗心が強く、被害者意識が強いダメダメ人間は、「アンタは結局はどうしたいの?」という質問に対して、『ワタシを追い込もうとしている!』と考え、逆襲に出たりする。 まあ、そのような逆襲に対して、「何なんだ?コイツは?オレも負けないぞ!」なんて逆に燃え上がる人もいるかもしれませんが、そんな人間も所詮はダメダメ。 そんなやり取りを見ていたマトモな人間の考えは「私が言いたかったのは○○だよ。」と言えば簡単に済むのに、何を熱くなっているの?と思うに決まっていますよね? そして「バッカじゃないの?」となってしまう。 そんなものでしょ? 「バッカじゃないの?」 という言葉は、知能程度が低いということを意味するものではなく、むしろ「アナタは自分の言っていることが、自分でも分かっていないでしょ?」そんな意味でしょ? 当事者意識がないダメダメ家庭の人間は、そのような状態に陥りがち。 本来は、自分の希望なり現状を的確に認識すれば、対処の方法なんて、簡単に見つかるし、簡単に手を付けられることも多い。それを踏まえ、誰かに相談したり質問したりすればいいだけ。 しかし、ダメダメ人間は自己逃避であって、だからこそ、自分の現状なり希望とは無縁の質問になってしまう。 トンチンカンな質問をする当人としても、実際に「困っている」。 質問自体も、それなりの論旨で質問してくる。 しかし、抑圧的で自己逃避状態のままなので、実際のトラブルと質問がリンクしていないわけです。 風邪で高熱でウンウンうなっている状態の解決として、数学の証明の問題についての解説を聞いてくるようなもの。そして、必死の形相で、その数学の問題について説明することになる。確かに、その数学の問題が解決できれば、もちろんのこと、いいことと言えるわけですが、「だからと言って、アンタの高熱は治らないんじゃないの?」と周囲は思うだけですよ。数学の例は極端ですが、政治的な陰謀史観のような事例だったら、意外とあったりするでしょ?それこそ「ユダヤの陰謀を阻止するためには、どうすればいいのでしょうか?」などと真顔で聞いてきたりするもの。そんな質問を受けても『で、結局は、アンタは何に困っているの?』そう思わされるだけ。そして、高邁な質問を聞かされた側としては、キョトンをしてしまう。 私くらいになると、そんなトンチンカンなやり取りは、その人の自己逃避から来ていることが分かりますから、その症状に対してはそれなりの理解がある。 しかし、一般の人は、そんなトンチンカンな質問をされたら、不快に思いますよ。 「コイツ・・・『ワタシに構って!』って、甘えているだけじゃないのか!」って思いますよ。 しかし、逆に言うと、構ってほしいという自覚があれば、それ相応の手段を取ることができるはずですよ。まがりなりにもユダヤの陰謀については、それっぽく説明できるくらいの知識はあるんですからね。この手の人は、自分の希望自体が自分でも分かっていないわけです。 そもそも希望を抑圧する習慣なので、事態を解決するという希望も明確にはなることはない。おまけにこの手の人は、自分の希望を抑圧しやすいように、物事を認識する段階から抑圧していることが多い。まさに、トルストイ描くアンナ・カレーニナのように、「ワタシに見せないで!」と周囲に要求し、現実から逃避している。 現実を見ることから逃避し、自分の心の声を聞くことから逃避しているんだから、そんな人からの質問が分かりにくいのは当然のことでしょ? 何もトラブル時の相談や質問ばかりではなく、抑圧的なダメダメ人間は、この手の「バッカじゃねーの?」と言いたくなるような行動ばかりをやっているもの。 それこそ、インターネットの掲示板に入り浸って「オマエのために、言ってやっているんだ!どうしてオマエは分からないんだ!」とかで、誰かにからんでいる人がいたりするでしょ? 相手に対して本当に分かってほしいことがあるのなら、分かりやすい物言いであることが必要ですし、必要に応じて、自分の連絡先を記載してもいいのでは? と言うよりも、「どうして分からないんだ?」と怒りたくなるような人間は放っておけばいいだけですよ。そんなアホに説明しても誤解するだけ。 相手をアホ扱いしながら、必死に絡んでいる姿を見た周囲の人は、まさに例外なく、「アイツ・・・何をやっているんだ?バッカじゃねーの?」と思うものでしょ? 自分で自分が見えていない人は、まさに自分を騙すために、過激な行動をしているもの。 そんな過激な姿が、周囲の人間には、ますますオバカに見えてしまう。 結局は、自分の目の前の現実なり、自分の心の声を聞くことから逃避しているわけです。 そして、現実を見ることを抑圧し、希望を持つことを抑圧するということは、別の言い方をすると、自分自身を否定しているようなもの。 自己否定が進行してしまうと、どうなってしまうのか? こうなると、オバカさんとかの次元では済まないような話になってしまう。 それこそ民主党の「偽メール事件」での永田議員とか、「法律にのっとって・・・」とおっしゃっていた松岡大臣がどうなったのか? 一番簡単で効果的なことをやれない・・・そして、関係の薄い分野ばかりに手を出す・・・ そんな行動スタイルは、「アンナ・カレーニナ」でも同じ。 そんな状態の結果は、まさにあんなことになってしまうわけです。 |
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R.11/1/25 |