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カテゴリー | 会話のスタイル(発言側) |
配信日 | 09年6月8日 (11年1月9日に一部分を分離) |
タイトル | 質問の質 |
追記 | 配信時の文章から「バッカじゃねーの?」を分離独立 (11年1月9日) |
たとえば、こんな状況を考えて見ましょう。 明日台風が来そうだ。 今はまだ晴れている。 お昼ごろスーパーに買い物に出かけたら、知り合いに会った。 そして、その人が聞いてくる。 「明日台風が来そうね。明日の買い物はどうしよう?ここのスーパーだと安いし種類が豊富だけど、雨なのに自転車で来なくてはいけない。歩いて行ける家の近くのコンビニだと高いし、種類が少ない。ああ!明日は、どっちのお店に行こうか?」 さあ!台風の最中に、自転車でスーパーに行った方がいいのか? それとも、高いのを我慢して近くのコンビニで買い物をするのか? どっちの選択でも個人の自由と言えるでしょう。 しかし、マトモな人が考えるのは別のこと。 そう!「今日のうちに、明日の分までまとめて買い物をしておけばいいじゃないの?」 そんな回答は、上記の質問の回答とは言えないにせよ、直面している状況を解決するには最善の方法でしょ? 質問に添った形で答えることが、質問してきた人の事態の解決につながるとは必ずしも言えないでしょ? あるいは、似た事例を考えて見ましょう。 「自分とは何か?」そんな自分探しをしている人がいるとしましょう。 その人が聞いてくる。「ボクは自分というものを見つけたい!だから、昨年は1年間かけてアジアを回って自分探しの旅をした。しかし、ボクはまだ自分自身が分からない。だから今度は、アフリカかヨーロッパに自分探しに出かけようと思っている。アフリカとヨーロッパとどっちが自分を見つけられると思う?」 そんな質問に対して、ヨーロッパと答えても、アフリカと答えてもいいでしょう。 しかし、一番マトモな答えは、「自分自身を見つけたいのなら、ヨーロッパでもアフリカでもなく、どこかじっくりできるところで、自分自身を見つめ、自分自身と対話したら?時間があれば古典文学でも読んで。」そんな回答になるでしょ? 二者択一のスタイルの質問があったからと言って、その二者から回答を選ぶ必要はないのでは? その状況を解決するための、最善の方法は、提示された二者の内のどちらかとは限りませんよ。 あるいは、以前には「ワタシに対して『アンタは結局はどうしたいの?』なんてイジワルな質問をしてくる人がいる。そんな人とやり取りするとケンカになってしまう。そんな質問に対して反論した方がいいのか?それとも黙って耐え忍ぶのがいいのか?どっち?」 なんて質問もありました。 そんな質問に対する回答は、耐え忍ぶことでも、感情的に反論することでもなく、「自分は何をしたいのか?」それを丁寧に相手に説明することでしょ? ダメダメな人は、一種の誘導尋問のようなことをする・・・このことは以前に配信しております。やり取りの場において、「ワタシがかわいそうな被害者」という説明や認定を相手から導き出そうとすることが多い。 そして、求めていた被害者認定を、相手から得られれば、大満足することになる。 そして、「ワタシは被害者なんだから・・・後は加害者の側であるアンタたちがやってよ!」と主張し、自分では何もしない。 ダメダメな人は、そのようなことを意図的にやっているわけではない。 そもそもダメダメな人は、心理的に抑圧的であり、自分自身の希望なり感情を抑圧している。 当然のこととして、現状認識することもイヤ。 だから本当の意味での問題意識がない。 そんな人が周囲の人間にする質問は、自分の切実な問題意識に根ざしているものではない。 むしろ、目の前の問題を見ないようにするための質問なんですね。 自己逃避であるがゆえに、自分のトラブルについての質問だって、自分自身から遊離してしまう。 だから、問題の解決につながらないだけでなく、周囲の不快感もかってしまう。 おまけに、その手の抑圧的な人は、周囲に配慮した「いい子ちゃん」であることも多く、周囲の人、とりわけ自分の親に配慮してしまって、ますます現状とは遊離した質問になってしまう。 問題を解決するに役に立つ質問というよりも、自分自身なり周囲の人が傷つかない、議論のための議論にうってつけの質問になる。 そんな質問を受けたら、質問に回答することに意味があるのではなく、質問が無意味と説明することに意味があるわけです。 また、そんな質問をすること自体に目を向けていけていく必要があるもの。 それこそ、「ボクは自殺を考えている。リストカットがいいのか?首吊りがいいのか?どっちがいいと思う?」なんて質問に対して、その提示された二者のうちのどちらかを推奨すればいいというものではないでしょ? 抑圧的な人間は、自己逃避であり、たとえ問題意識があったとしても、その方向性は遠くに向かっていってしまう。 それこそ、家庭内暴力に陥った女性が周囲の人に対して質問する。 だから、「どうやってあんな暴力オトコを懲らしめればいいのか?」という質問になってしまう。 そんな質問に対して、どう答えればいいのか? しかし、どう答えても、本来はその女性のためにはならないでしょ? その女性が、「どうして、あんな暴力オトコと結婚してしまったのか?」と聞いてきたら、真摯に相談に乗ることの方が重要じゃないの? しかし、ダメダメな人は、「どうやってあんな暴力オトコを懲らしめればいいのか?」という質問を周囲に投げかけ、そしてダメダメな周囲も、その質問に対して、熱心に回答する。 そして当人たちは『そうね!そうね!こうすればいいのね!』『よしっ!ミンナでアイツをやっつけよう!』と大喜び。 しかし、その結果がどうなるのか?そんなことは分かりきったことでしょ? しかし、「どうやってあの暴力オトコを懲らしめればいいのか?」で盛り上がった人たちは、次のトラブルの際にも「今度は、どうやってあっちの暴力オトコを懲らしめればいいのか?」で盛り上がる。そうやって延々と続くことになる。かと言って、暴力オトコと一緒になる自分ということは何も変わらない。何も考えずに、そんな程度のオトコと一緒になって、実際に修羅場になって、「なんとかして、アイツを懲らしめるんだ!」と言うことだけは、一生懸命に考える。しっかし、そんなことを繰り返して、いったい何が楽しいのやら?と言うか、何も考えずに誰かとくっついて、相手を攻撃するだけの姿は、暴力オトコの側とどう違っているの? 質問を受ける際には、質問の言葉そのものというよりも、質問が発せられる背景なり、質問を発する土壌や、当人の状況・・・その点まで目を向ける必要があるわけです。しかし、自己逃避人間は、どんどんと、自分に関係のない分野に議論を移したがるもの。質問を受けた側としては、その無意味さの意味を説明し、理解してもらうことの方が重要なんですね。 トンチンカンな質問をする人は、自分の問題を解決するために質問しているのではなく、自分の問題から目をそらすために質問している。目をそらしているんだから、同じトラブルを繰り返しますよ。 自己逃避の人間は、本当の意味での問題意識がない。 だから、周囲に対する質問もトンチンカンになってしまう。 それこそ古代ギリシャのアルキメデスがお風呂に入って、問題を解決しましたよね? 抑圧的な人がそんな事例を聞いたら、アルキメデスに質問する場合、こんな感じになるわけです。 「へぇ・・・アナタ・・・お風呂に入って、問題を解決できたの?そのお風呂は何度くらいのお湯なの?右足から入ったの?左足からなの?入浴剤は使ったの?お風呂の大きさはどれくらい?」 しかし、本来なら、「お風呂に入る前に、その問題点をどんな感じで整理していたの?どんな観点から考えていったの?どんな試行錯誤をやっていたの?」と聞くのがスジと言うものでしょ? お風呂の入り方を質問されたら、アルキメデスさんも途方に暮れてしまいますよ。 『えっ?あれって、風呂の問題だったっけ・・・』 サスガにこの例は、極端な例ですが、そんなトンチンカンな質問を、21世紀の日本のダメダメ人間もやっていたりするもの。ダメダメ人間は目立つ事件には反応しても、その前の積み重ねには考慮が至らない。だからこそ問題も解決しない。質問の質や方向性によって、その人の精神的な抑圧が見えてくるものなんですよ。 頻繁に書いていますが、自己逃避状態となると、逃避の先に意味があるわけではない。 自分自身から逃避しているという、逃避の「元」に意味があるわけです。 しかし、自己逃避状態の人間が、自分は自己逃避であると認識できないのは、論理的に当然のこと。 だから、自分でもわからないまま、周囲にトンチンカンな質問を投げかけることになる。 そんな質問を受けたら、その質問してきた人の状況に身を置いたつもりでシミュレーションしてみると、往々にして一番効果的な対処法が無視されているもの。 まあ、その点を指摘すると、逆上されてしまうことになる。 自己逃避の人間に、自身に立ち戻ることを指摘すると、逆上するもの。 逆に言うと、それだけ思考停止が板についているわけです。 ダメダメな人は、自分が考えなくて済むようにするために、その人なりに考えることが多いことは、別のところで文章をまとめております。 トンチンカンな質問も、まさにそんな事例の典型なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 本文中に書きましたアルキメデスのたとえ話ですが・・・ そんなトンチンカンな質問をする歴史的な事実があったわけではありません。まあ、考えやすい極端な例として登場させただけです。 しかし、ちょっとシチュエーションを変えたら、そんなトンチンカンなシーンは、21世紀の日本でもあったりするもの。 購読者の皆様も、人から質問されて「私に質問するのはいいとして・・・そんなことが問題ではないだけどなぁ・・・」と途方に暮れたことがあるでは? お風呂に入る前の積み重ねよりも、お風呂というイヴェントに注目する発想は、たとえば、厚生省事務次官OBや中央大学の教授の殺害事件でもあるでしょ? 「どうしてあの人を殺害したのか?」「何が憎かったのか?」そんな議論があるようですが、重要なことは、そんな「きっかけ」ではなく、あのような殺害行為が当人にとって必要になってしまう心理の積み重ねの方。「誰を殺すのか?」とか「どうして殺したのか?」は、そのような事件の心理としては重要ではないわけ。そんな議論は、お風呂に右足から入るのか?左足から入るのか?そんな議論と同じ次元のレヴェル。 だからこそ、最後になって「よーわからん」となってしまう。 まあ、そもそも質問の質というか、問題意識の方向性が間違っているわけです。 |
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R.11/1/9 |