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カテゴリー | 弁解と謝罪 |
配信日 | 09年12月16日 (11年1月23日 分離独立) |
タイトル | 謝罪より言い訳 |
追記 | 「好意志向のリカヴァリー」から分離独立 (11年1月23日) |
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。 不都合な事態になっても、直面する事態に自分で対処する発想がない。 それに、日頃から受け身の立ち位置となっていて、自分自身で判断しながら行動していないんだから、「自分の判断ミス」は存在しない。 自分が判断して、その上で判断ミスをしたのなら、その点を反省し、次の判断に生かすことが必要でしょ? しかし、自分が判断したわけではなく、単に流れに乗っていただけだったら、それは、「自分のせいではない。」と言えますよね? と言うことで、トラブルが発生した際には、「自分の判断ミスではなく」「単に流れていただけだった」ことを周囲に対して主張しようとする。 「ワタシのせいじゃない!」 「ワタシは悪くない!」 と、周囲に主張することになる。 いわば、言い訳が多くなってしまう。 そもそも、ダメダメ家庭の人間は、信頼と好意の区別ができない。というよりも、信頼というものが心理的な実感を持って理解できない。 事態に対処するに当たっても、まずは好意という感情の問題に対処しようとする。 トラブルに対処する際にも、そのトラブルによって自分が嫌われる可能性があることに視線が行っている。だから、その点に集中的に対処することになる。と言うことで、「今回のトラブルはワタシのせいじゃない!」ということを周囲に対して執拗に主張するわけです。 そんな人は、当事者意識がないので、言い訳はしても、「今後どうするのか?」という点については言おうとしない。と言うか、当人自身でも何も考えない。自分から逃避しているんだから、その判断なり行動に一貫性があるわけもなく、常に断片的なものに留まっている。言動が断片的で予測不可能なので、周囲の人間としてみれば、信頼とは無縁なのは言うまでもないこと。つまり、人からの好意を求めて、言い訳を繰り返し、周囲からの信頼をますます失うことになる。 信頼と好意の区別がつかないというか、以前に集中的に配信いたしましたが、信頼の心理的ベースが不在となっているダメダメ人間は、何かトラブルがあったとしても、その場その場を収めればいいと考えるだけで、まさに人に合わせてその場を乗り切ろうとしてしまう。 本来は、何かトラブルを起こした際には、言い訳ではなく謝罪をする必要があるわけですが、その謝罪もマトモとダメダメでは大きく違っている。 謝罪というものは、その人なりの事態の認識を語り、そして、もう2度としないことを伝えることでしょ?もう2度としないから、それ以降はその人を信頼できることになる。 ダメダメ人間は、謝罪という言葉を使っても、実質的には言い訳となっている。 だって、事態を認識してもいないし、今後の方向性も語らないんだから、それは形の上では謝罪であっても、中身的には言い訳ですよ。 そのような、立ち位置不明の謝罪の言葉の代表としては、こんな言葉がありますよね? 「もし、このワタシが、アナタに対して不快なことをしたのなら、謝る。」 上記の『謝罪』の言葉は、問題点を自覚していないわけでしょ? むしろ問題点は、「気を悪くした側」だと言っているわけでしょ? だから、同じ状況になったら、自分としてはまた同じことをする・・・そう言っているようなもの。 言い訳は、「ワタシは悪くない。」んだから、また同じことをする。 謝罪は、「ワタシが悪かった。」んだから、次には同じことをしない。 言い訳は好意を志向したもので、謝罪を信頼を志向したもの。 ダメダメ人間にしてみれば、謝罪の言葉であっても、心理の上では言い訳なんですね。 そもそも、ダメダメ家庭は被害者意識が強く、ダメダメな親は、謝罪の言葉を子供から求めることになる。謝罪の言葉を受けることによって、自分の被害者意識を満足させることになる。ダメダメな親は子供に対し「ごめんなさい!」という言葉を言わせたがることは以前に配信しております。子供から「ごめんなさい。」という言葉を受けると、まさに「ワタシは、子育てという迷惑を、子供から背負わされた被害者なんだ!」と確認できるでしょ? だから、そんな環境で育った子供は、謝罪の言葉が軽くなってしまう。「とりあえず、謝っておけ!」くらいのズボラな雰囲気が出てきてしまう。まあ、ダメダメ家庭においては、実際に、それで十分と言えます。ダメダメ家庭においての謝罪の言葉は、「被害者と加害者」という関係性を確認するための儀式なのであって、問題発生の反省や今後に対する責任を言うものではない。子供の側が親からの謝罪要求に抗していても、「いったい、誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」と逆切れされるだけ。だから、とにもかくにも謝罪の言葉を言う必要がある。それに、言っておけば、その場はそれでオシマイになるし、言おうが言うまいが、どうせまた同じような謝罪を要求されるだけ。 それこそ、韓国人が日本にする謝罪要求とまったく同じ様相なんですね。 とにもかくにも、「自分は被害者なんだ!」という立ち位置を相手から認めてほしいわけです。 しかし、一般のマトモな社会においては、謝罪というのは、「もう2度としない。」という意味になるでしょ?まずは、事態の問題点の把握と、今後の対応を明らかにしてくれないと、謝罪の意味はありませんよ。 だから、「とりあえず、謝っておけばいいや!」なんて雰囲気の謝罪をすれば、信頼につながるどころか、マトモな人から相手にされなくなってしまう。 しかし、被害者意識が強い環境だったら、ヘタに「ワタシが悪かった。」などと認めてしまったら、後々責められることになる。まさに犯人認定の材料になり、実際に加害者認定をされてしまう。だから、一旦、謝罪してしまうと、「支配・被支配の関係性」で人間関係を見るダメダメな環境においては、被支配を受け入れることを意味してしまう。 これが、ダメダメ家庭の中においては、「親=被害者,子供=加害者」という関係性が既に確定している状態となっている。だから、その関係性を謝罪の言葉で再度確認しても、大きな影響はない。しかし、そんな関係性がまだ確立されていない状態だったら、ヘタに謝罪すると、自分が加害者の立場であることを認めてしまうことになるでしょ?だからこそ、謝罪を拒否することになる。しかし、謝罪を拒否しているということは、事態の問題点なり、今後の方向性について、当事者として何も考えていないということになる。つまり、周囲の人間としては、今後、また同じようなトラブルが起る可能性が否定できない。こうやって、ますます信頼からは遠い存在になって行くんですね。 しかし、ダメダメな環境においては、ヘタに謝罪してしまうと、「被害者と加害者の関係性」が固定化されてしまって、今後「たかられる」ことになってしまう。周囲がマトモだからこそ、謝罪もできるわけです。 それこそ、初代のアメリカ大統領のワシントンが、桜の木を切ってしまって、それを後になって正直に謝罪した・・・とかの話がありますよね?その話は実話ではないようですが、この例え話を使って、謝罪と言い訳について考えてみましょう。 マトモな環境だからこそ、「自分にはこんな問題点があり、こんな事態になってしまった。今後はこのようにします。」と謝罪もできるわけで、それこそ周囲の人間が韓国人のような人間ばかりだったら、ヘタに謝罪したら、後々とんでもないことになりますよ。 その後、延々と、『謝罪せよ!補償せよ!』と顔を見るたびに言われることになってしまうでしょ?だから、そうならないように「ボクは悪くない!」「斧があったのが悪いんだ!」「桜が立っているのが悪いんだ!」「ああ!なんてヒドイ時代なんだ!」と言い訳をするようにならざるを得ない。 その言い訳も、普段から現状認識から逃避していて、人の気持ちが分からないんだから、トンチンカンなものになってしまう。方向として明後日の方向を向いている。 自分自身から逃避しているので、自分とは無縁の「どーでもいい方向」に議論を持っていこうとすることになる。それこそユダヤ人の陰謀のせいとか・・・ 上記のワシントンの謝罪の例だって、それこそ「桜の木と斧があったのは、ユダヤ人の陰謀だ!」なんて言いかねない・・・と言うか、それに近いような言葉を実際に聞いた方もいらっしゃるのでは?いや、まあ、この私も力が抜けましたよ〜、トホホ。 謝罪をして、それが正当に受け入れられるという信頼がないから、議論だっておざなり。ただ、犯人認定が自分に降りかかってこないようにしたいだけ。 事態を解決させようという意欲を持ったもの同士が議論するから、実際に解決策が出るわけでしょ?しかし、「ワタシは悪くない!」なんて、相互に敵認定するだけの人間が集まるから、議論しても何も得るものがない。 逆に言うと、議論しても何も進まないと言っている人は、逃避してばかりのダメダメな人と議論しているわけです。いわば同類同士で議論のための議論を重ねているだけ。 真剣さを共有できず、自己逃避を共有しているだけ。 問題点なり今後の展望がちゃんと自覚できるから、謝罪もできるのであって、それがないんだから、言い訳しかしませんよ。 ダメダメな環境においては、謝罪をしても、それが受け入れられる信頼感がない。 だからこそ、ますます信頼とは無縁の状況になってしまう。 言い訳しか通用しない環境では、事態が改善せず、どんどんとダメダメが進行する。 そんな環境で育った人間が、親になり子育てをしたら? まさに謝罪を受け入れない家庭を作ることになる。 そして言い訳ばかりの家庭になり、ますます信頼から遠くなってしまう。 以前にも書きましたが、言い訳というのは、判断を相手に投げること。いわば自分の現状認識や判断から逃避し、自身が発した「言い訳」を相手の側が受けるか?受けないか?という相手方の判断に委ねることができる行為と言えます。だから、言い訳ばかりの人は、相手から言い訳をされると、判断を投げつけられたように感じて逆上するもの。また、言い訳ではない単なる追加説明に対しても、それを言い訳と受け取り逆上する。 ちょっと説明をされただけで逆上する人って、実際にいるでしょ? その手の人って、例外なく言い訳ばかりでしょ? 要は相手の話に対し自分で判断することが怖いんですね。 そして、そんな人は、現実を真剣に認識せず、当人自身では何も判断せず、「悪いのはアイツのせいだ!」と犯人認定を繰り返し、そして、トラブルを繰り返しているものでしょ? 言い訳というのは「ワタシは悪くない。」ということだから、その時点で、「また、やります。」と言っているようなもの。 言い訳の本質とは、むしろ、その再現性なんですね。 言い訳の言葉も再現するわけですし、そんなトラブルも再現してしまう。 だから、そんな人からはさっさと避難しないとマズイわけです。 |