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韓国・北朝鮮問題のトピックス(その1)
カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 03年12月19日 (10年10月20日 記述を追加)
タイトル 地縁,血縁にこだわる
追記 この文章には購読者さんよりの補足文章があります。 (10年10月31日 追加)
「本当に信頼できるのは血のつながった家族や親戚だけ!」
そのような血縁に対する信頼を持つ人も多いと思います。しかし、どのようなことだって程度問題がありますね?
ダメダメ家庭は、実に逆説的ですが、血のつながりを重要視する。また、地縁も結構重要視いたします。

最近での有名な例は、まさにイラクのサダム・フセイン。
彼が家族という血縁関係を大変重要視していたのは有名ですよね?
次に彼が重要視していたのは、地縁。
イラクのティクリットとかの出身者を優遇した・・・そのようなことを、ニュースで盛んに報道されていましたよね?

サダム・フセインは子供時代に両親に虐待されて育った、ダメダメ家庭のサラブレッド。典型的なダメダメ家庭の出身者と言えます。

そのような彼だからこそ、血縁や地縁を尊重してしまう。
本来は「家族なんて信じない!」と言い出したりする方が自然じゃないの?
だって、当人が一番よく知っている家族を元に考えれば、その結論の方が自然なのでは?
というか、彼が信頼している血縁者って、じゃあ、具体的には誰なの?

あるいは、日本のお隣の国である韓国では、地縁,血縁が本当に重要視されるようですね。
よく大統領選挙などで、全羅南道とかなんとか・・・色々と地域対立が説明されます。
そのような深刻な地域対立を聞くと多くの日本人は???ですよね?

あるいは、以前にドイツのアドルフ・ヒトラーの最後の日々を描いた映画がありましたが、秘書の採用にあたって、出身地で決めていました。「この地方の出身者なんだから、信頼できるだろう・・・」そんな感じで即決してしまう。

勿論のこと、日本でも高校野球とかで自分の出身県の代表を応援するケースは多くあるでしょう。しかし、それは単なる親近感で・・・心の奥底からの熱烈な・・・と言ったものではありませんよね?他の県がキライというわけではないでしょ?
まあ、アメリカ等の他の国でも自分の出身地方に親近感は持っていても、他の地方への嫌悪感は持っていないでしょう?
「肯定的な親近感なのか?否定的な排他性なのか?」
地域に対する受け止め方も、肯定と否定では違っているわけ。

また、地縁だけでなく、血縁の扱いも韓国と日本ではかなり違うようです。
韓国の気合のこもった血縁信仰は日本とは違っています。
日本ではそれこそ「遠くの親戚より、近くの他人。」という言い方もあるくらいですし・・・

念を押しますが、私はここで韓国問題を書くつもりはありませんよ。
このメールマガジンの趣旨ではありませんからね。
ただ、サダム・フセインといい、韓国といい、地縁,血縁を重要視するのはダメダメ家庭の特徴なんですね。

何故かって?

だって、地縁や血縁を考えて見てくださいな。
そのような「縁」は、本人がひとりの人間として、自らのコミュニケーションで作り上げていった「縁」ではないでしょ?
地縁や血縁は、その人間が「生まれた時」から持っている「縁」ですね?

本来は、人間の関係はその生まれた時から持っている「縁」を、自分自身で発展させていかないといけないものですよね?

地縁,血縁に拘るということは、結局のところ、自分自身で作り上げていった人間関係を信じていないことを示しているわけです。
つまり、それだけ自分自身のコミュニケーション能力の低さを表しているんですね。

以前に「ダメダメ家庭は議論において総論のみ主張」ということでも触れましたが、コミュニケーションは、相互理解を目的としているものでしょ?
相手側の意見や見解をちゃんと聞き、自分の意見をわかりやすく冷静に主張する・・・そのようなやり取りが必要でしょ?
そのやり取りを通じて、お互いを理解していく、そうやって、新たな「縁」ができていくわけです。
そうでしょ?

会話がない限り、「縁」は広がっていきませんよ。
そうなると、何も努力もなしに昔から存在している「縁」である地縁,血縁しか「あて」にできなくなるわけです。

ダメダメ家庭は、親のコミュニケーション能力が低いという特徴があります。
会話を進行させる意欲、技術を持っていないことが多いんですね。

親は家庭の外の社会とコミュニケートする能力が低い。だから家庭に拘らないといけなくなるわけです。
しかし、コミュニケートする能力が低い親は、当然のこととして自分の子供にコミュニケートする能力も高くはありませんよね?
だから、血縁を大切にすると言っても、言葉の上では「大切にされている」はずの血縁者に対しても、本当の意味では会話をしているわけではないし、理解し合っているわけでもないわけ。
だって、相互理解の精神そのものが欠落しているんだから、血縁者とも相互理解が達成しているわけもありませんよ。ただ、家族の場合は、命令によって従わせることができ、相手が逆らうことができないというだけ。

サダム・フセインの息子さんだって、「オレはオヤジのことは嫌い。」って言っていたそう。
それと同じように、ダメダメ家庭の親が言う「本当に信頼できるのは家族だけ!」という言葉を聞いた子供は「へぇ・・・じゃあ、あの親はボクのことは信じているのかな?そうは見えないなぁ・・」と思っちゃうんですね。

家族は地縁,血縁の集約です。
「我々は家族を大切にしている。」と、言葉だけでは聞こえがいいものですが、家族から社会へと人間関係が広がっていく場合の出発点として「家族」を大切にしているケースと、「社会にいる他人は、あてにならないから家族しか大切にしない。」という人間関係の終着点としてのケースでは全然違っています。
別の言い方をすると、家族への信頼を持っているという単純な肯定形のパターンと、家族以外の人とはやり取りがまったくできないという二重否定のパターンがあるわけです。

ダメダメ家庭の言う「家族を大切にしている。」は勿論のこと後者。
それゆえに、「大切にされている。」と言われる子供にとって、重荷にしかならないわけです。

大体において、これから社会に出て行こうとする自分の子供に向かって「世の中の人間は全部信じられない!本当に信じられるのは家族だけ!」なんて言葉を与えるような親は、完全にダメダメですよね?
そんな色眼鏡で他人を見るようにさせておいたら、それこそ他人とのコミュニケーションなんて出来ませんよ。
マトモな親だったら、「外の世界では色々と大変なこともあるだろうけど、何か困ったことがあったら、いつでも私のところに相談に来なさい。」と言った言葉を与えるでしょう?

ただ、「私は家族を大切にしている!」というと、大変に「聞こえ」がいいものですよね?
しかし、本当に良好な家族を運営している人は、逆に「最後に信じられるのは血のつながり。」なんて言わないものです。
家族が理解し合っているのは、会話の積み重ねや、体験の積み重ねがあるからであって、生物的なDNAとか、法律的な戸籍の問題ではないでしょ?
マトモな家庭における「最後には家族が支えてくれた!」という言葉は、相互を肯定した信頼関係に由来しているのに対し、ダメダメ家庭における「地縁、血縁」にこだわる姿は、他の人は信じられないという不信感に由来しているわけ。
だから、コミュニケーションもうまくいかない。

家族に対するコミュニケーションの方法も、他人とのコミュニケーションの方法も同じですよね?
他人とのコミュニケーションが取れない人間だからこそ、血縁,地縁とか民族とか部族とか・・・生まれながらの「縁」しか頼れないことになってしまう。

コミュニケーションのそもそもの目的は相互理解であると前に書いていますが、なぜに相互理解が必要になるかというと、自分なりに達成したいものがあり、その実現のために、周囲の人とのやり取りが必要になるからでしょ?
自分なりに達成したいものがなければ、リスクをとって、見知らぬ人とやり取りをする必要もなく、引きこもっていればいいだけ。

そして、周囲の人とのやり取りを避けていることを、「周囲の他人は信頼できない。」とかの言葉で言い訳をすればいいだけ。「周囲の他人は信頼できない。」という言葉は直接的すぎるので、それが「地縁、血縁にこだわる」姿となる。
「地縁、血縁にこだわっている」人は、その人なりの達成したい目標がない人と言えるでしょ?

自分なりに成果を出すことをまったく考えていないから、やたら人をカテゴリー分類して、同じカテゴリーの人の業績に乗っかる形を取りたがる。

それこそ、民族などにこだわったりして、「あの○○さんは立派なことをやり遂げた!オレも○○さんと同じ日本人として誇らしい!」などと喜んだりする。
喜ぶのは勝手ですし、ある意味において自然でしょうが、「誇らしい」って、いったい何?
どうせなら、「同じ日本人なのに、どうしてアイツにはできて、このワタシにはできないのだろうか?」と考えてみたら?
別の人のやっていることに乗っかって自分の価値を主張するだけなの?
地縁血縁にこだわる人は、新たに縁を開拓するという発想自体が存在しないだけでなく、自分のなりの成果を出そうという発想もない人とも言えるでしょ?
まさに当事者意識がない人なんですね。
当事者意識がないということは、被害者意識があるということ。

それこそ、「あの○○さんは立派だ!オレも同じ日本人として誇らしい!」と言い放つ人は、別のシチュエーションになると、よく「同じ日本人として、恥ずかしい。」とか言ったりするものでしょ?

同じ国の国民であれば、同じ言語であり、基本的な発想は似ているので、同じような間違いをしやすい・・・そのような注意点として、別の日本人の言動をチェックするのならわかりますが、「同じ日本人として、恥ずかしい。」という言葉は、「アイツのせいで、このオレは格好が悪い!」という被害者意識でしょ?

そして、その被害者意識がどんな行動になるのか?
そのように考えると、当事者意識の欠如の表層としての「地縁、血縁にこだわる」姿は、ある種の危険サインといえるわけです。
その心理として存在する排他性や当事者意識の欠如が、被害者意識につながり、報復という名目で、攻撃性に向かいやすいものなんですね。

(終了)
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発行後記

地縁とか血縁とかに妙に拘った作品って結構ありますよね?
あるいは前世からの因縁とか・・・
作品自体の価値はともかく、そのような作品を書く人は確実にダメダメ家庭の出身者です。
まあ、作品として楽しめばいいのでしょうが、作者本人は結構大変な実人生を送っているのでは?
下記の文章は購読者さんよりの補足文章です。(10年10月31日 アップ)
私が居住している地方は、地縁血縁へのこだわりが強い。
この地方の中でも比較的繁栄している地域においては、財産のある家では、「家制度」のような形態をとり、男子はあえて自立させないのが「栄えている家の証」となっているようだ。

余談だが、家によっては、特に長男を、あえて「嫡子」と呼んで、まるで王子様か何かのように特別扱いをし、幼い頃に相当甘やかして育てる家の話を聞くこともある。しかし、思春期を過ぎるとその嫡子を極端に厳しく育てる家もあるらしい。それでは非行に走る人も中にはいるだろう。と言うか、そのようなことをしている家庭でうまく行っているという話は聞いたことがない。

また、財産についてだが、家や土地などは出来る限り分割しないようにし、本家に財産を集中させるようにする傾向がある。本家を中心に、旧正月や旧盆などの年間行事の時などに親族や血族が集まり、物事を決めたり、また、時には食料品などを現物支給のような形で分配するという、この地方の昔ながらの家族形態を取っている家が多いようである。
遺産を相続する時や、財産を分与するにあたっても、兄弟の間で分割しないようにする家が未だにあるようである。

それは、税金として自分たちの財産を取られないようにするためと言う理由があるとのことだ。
このような人たちは、税金を国に納めると言うよりも、国に税金と言う名目で財産を取られてしまうという被害感情に結び付いてしまうようだ。だから必死で税金を取られまいと頑なになっている人が多い。その関係か、お金が十分にあるのに、国保税や市民税を納めない人も多い。

また、この地方では、よく「一度出会ったら皆兄弟」と言われたりするが、実際にこの地方で生まれ育った私にとっては、その言葉通りには受け取れないのである。
現実的には、人を出身地別にカテゴリー分類している人が意外と多い。
この地方に生まれ育った人同士の人間関係は、関係としては複雑であるが、その結びつきとしては希薄であるように思う。
そして、それは年々悪化する傾向にあるようだ。

この文章をお読みになる人の中には、「これはお前の偏見だ!」とか、「それはお前が機能不全家庭の出身だからだろう!」とおっしゃる方もおられると思うが、それが、この地に住む私の実感である。

外部から来たものに対しては、異邦人扱いとまでは言わないが、うわべだけの親切のレヴェルにとどまっている。それどころか、他人とは全く関りを持たないようになってしまっている人も結構いる。

他人とはなるべく関わりを持たない傾向の人についてだが、それは、財産の量に比例しているようで、その傾向は土地を持って大きな収益を上げている大地主に多く見られるようである。とにかく彼らは他人と会うのを極端に嫌がる傾向があるようだ。

とにかく、人をカテゴリーで見る傾向が強い。この地区の人間か、よそ者か、それは見た目(顔などの容姿や背格好)や苗字などで判断する。特に苗字が重要で、苗字を聞けばどこの出身か、どこの集落の出身か、または親がどのようなルーツを持つのかが大体分かるそうである。それを踏まえて、会って話をするかどうかを決めるらしい。

場合によっては、住んでいる地域、または集落名と苗字を言えば、名前や家族構成までわかってしまうような、いわば「生き字引」的な人もいるそうである。つまり、戦前の集落社会の発想なり価値観がいまだに残っている。それが私が住んでいる地方なのである。
封建的であり、閉鎖的な社会であるが、それゆえに、地縁血縁にはこだわるわけである。
逆に言うと、地縁血縁で人を判断することは、封建的なり閉鎖的な人間関係と表裏一体なのだろうと、自分の住んでいる地方を見ながら、私は考えている。 
R.10/10/31