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カテゴリー | ダメダメ家庭の人間の行動 | |
配信日 | 09年12月28日 (11年1月6日,11年2月3日 一部分を分離) | |
タイトル | 評価向上のための努力 | |
追記 | 配信時の文章から「評価は早く、判断は遅く」を分離独立 (11年1月6日) | |
元の文章から「評価のための勝利」を分離独立 (11年2月3日) | ||
ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。このことは、もはや、お約束レヴェルで頻繁に書いています。当事者意識がないから、「自分はこれを、どうしてもやりたい!」なんて思っていない。だから当然のように達成した実績もない。 そんなダメダメ人間は、自分自身というものを、自分自身の言葉ではなく、他者の言葉によって、表現せざるを得ない。 「周囲のミンナが、ボクのことを褒めてくれたよ!」 まあ、そのような心理は、マトモな人でもあるでしょう。褒められればうれしいのは誰って同じ。しかし、ダメダメ人間は、自分の信念がないがゆえに、「それしかない」。だから、どうして他者の評価の言葉が気になってしまう。 それに、当事者意識がないダメダメ人間は、他者からの指摘があっても、自分自身が考える際の「材料」とは受け取らず、決定事項的な「評価」と捉えることになる。「材料」として捉えることができるのなら、その「材料」を踏まえ、自分自身で考えていけばいいわけですが、「評価」と捉えてしまうので、「あの人たちは、ワタシたちのことを分かってくれている!」と大喜びしたり、「何だと!ケシカラン!どうして、オレたちのことを分かってくれないんだ?!」と逆上したりする。あるいは、ちょっとした注意なり指摘も、否定的な評価と勝手に受け取り、「このオレを非難するのか?!」と、逆上したり、あるいはちょっと同情されると、「あの○○さんから、ワタシがかわいそうな被害者だと認められた!」と大喜び。 大喜びして、何もアクションをしない。 そんな過激な対応をするからこそ、なおのこと「他者からの評価」には、過敏になってしまう・・・そんな過敏だからこそ・・・と、どんどんとスパイラル進行することになる。 自分で考えることから逃避する抑圧的な人は、あらゆる言葉から、評価を聞き取ろうとしてしまう。評価としてしか受け取らないので、考えるための視点を提示されても使いこなせない。 典型的に見られるのは、いつものように韓国の人たちです。 別に私は韓国人に対して、特別な感情を持っているわけではありませんよ。ダメダメのネタとしてこれ以上ないほどに有益だというだけです。 その韓国人は、まさに他者からの評価を異常に気にしますよね?想定よりいい評価だったら、大歓喜!希望より低かったら猛抗議! しかし、他者からの評価を踏まえて、自分自身を改善しようなんて全然やらないでしょ?抗議には熱心でも、自分たち自身では何もしませんよね? 何かアクションを起こすにも、「評価」のためにアクションを起こすだけで、自分たち自身の現状を改善したり、より良くするために行動するわけではないでしょ? だって、それって当然のこと。 「自分たちが、自分たちをどうしたいのか?」 そのことから逃避しているわけですからね。 逆に言うと、そのような「他者による評価」に対して異常にこだわりを持つ人間は、それだけ自分自身から逃避していることが推定できるわけです。 本来なら「人が自分のことをどう思っているのか?」よりも、「自分がどうしたいのか?」という点が重要だし、対応だって取りやすいじゃないの?他者による評価なんて、当人が抗議しても、どうなるものではないでしょ?そんな抗議こそが・・・まあ、アレですよね? 他者からの評価にこだわるがゆえに、他者の思考や判断に介入することになる。 自分自身から逃避している分だけ、他者からの評価の修正が目的化されてしまう。 韓国は、インターネットで韓国の評判をチェックして、修正を求めるようなことをやっているのでしょ?他国による評価はともかく、じゃあ、韓国という国自体をどうしたいの? 自分たち自身の目標が達成できればそれでいいのでは? 自己逃避のダメダメ人間は、評価にこだわる。 それこそ、学校での通知表においても、「人間を評価することはよくないことだから、生徒全員オール5にする。」とかの事例がありました。 いやぁ・・・ゼンエイ的だなぁ・・・ 本来なら何も学業成績が芳しくなくても、「じゃあ、ワタシは身体を使った分野の方をいかしていくか!」なんて考えれば済む話でしょ? あるいは、「もうちょっと勉強しなくちゃね!」と自分に言い聞かせて勉強に励めばいいじゃないの? しかし、それは当事者意識を持っているマトモな人間の発想。ダメダメ人間は、評価が絡んだりすると、自己の問題ではなく、評価システムだったり、評価をした他者の問題にしてしまう。 もちろん、その他者の評価だって、すべてがマトモなものではないでしょう。しかし、評価自体がダメダメなものだったら、そんな評価は、なおのこと考慮しなければいいわけでしょ? 「そんな評価をするなんてケシカラン!」なんて逆上するよりも、 「ワタシの、こんな点もわからないんだね!オ・バ・カ・サ・ン!!」でいいじゃないの? しかし、それは自分自身について、自分で語ることが出来る人の対応。 それが出来ない人は、やっぱり他者の評価を気にすることになる。 当事者意識がないものだから、自分でやりたいこともない。 むしろ、「やらなくても済む」ための言葉なり評価を求めている。 「アナタは悪くないわ!」という評価がほしいわけです。 じゃあ、「悪くない」と言う評価を、誰かから実際にもらったらどうするの? 「悪くない」という評価をもらったら、まさにそのまま何もしなくてもいいわけでしょ?だって「悪くない」んだから、そのままでいいじゃないの? ・・・そうなってしまうでしょ? ちなみに、このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、まさにダメダメ家庭というか機能不全家庭についてのメールマガジンであって、その文章を書いている私は、その手の問題にはそれなりに詳しいと言えるでしょう。しかし、私としては、特定の誰かやその家庭を評価するつもりはありません。何回も書いていますが「見えているものを、見えるようにする。」そんなスタンスです。 自分の家庭の問題は、その人自身が考えて対処するしかないじゃないの?私ができるのは、見過ごされがちな視点を提示する・・・ただそれだけです。 まあ、『こんな観点から、考えてみたら?』そんなスタンスなんですね。 しかし、そんなことを言われても、「やっぱり自分で考えるのはイヤ!」そんな人もいたりするもの。と言うか、ダメダメ家庭の人間にしてみれば、そっちの方がマジョリティー。 どうしても、評価をほしがってしまう。 「いいのか?悪いのか?」「マトモなのか?ダメダメなのか?」「もう、はっきりしてよ!」 私としては、『そんな評価をほしがる発想こそが、ダメダメじゃないの?』なんて言うしかありませんよ。まあ、そんな感じで言ったりすると、「キーっ!どうして、アナタはワタシのことを分かってくれないのっ?!」なんて逆上されるだけ。 評価をほしがる人は、その評価結果にこだわらざるを得ない。 指摘をした側が、評価を意図しているものではなくても、受け取る側が、それを評価と捉えてしまうことになる。だから自分が求める評価が得られなかったら逆上してしまう。 「で、どうなんでしょうか?」なんて言葉で評価を求められても、『こんな観点に注意して自分で考えなさいな!』と言うしかないわけですが、ヘタに『その調子で、いいんじゃないの?』なんて言おうとしたものなら、「この人はワタシの理解者!」と認定されて入れ込まれてしまう・・・可能性もあるわけです。可能性があるというか・・・まあ、ね・・・ ダメダメ人間は、評価を得るためには努力をしても、自分自身でやりたいことのためには努力をしない。 と言うか、そもそも自分でやりたいこと自体がない。 だから、とりあえず、人からの評価を上げることだけが目的となってしまう。 結果として、人からの見せ掛けの評価は上がっても、自分自身は幸福にならない。 だって、「自分の幸福とは何なのか?」について自分でも分かっていないんだから、その「幸福」を達成できるわけがないでしょ? 結果的には、「どうしてこんなことに?!」「誰が悪いんだ?!」と犯人探しで、つるし上げ。そんな人は、人から立派と評価されているものに異常にこだわることになる。だから権威主義。それこそ、オリンピックの開催などの立派なものにこだわってしまう。ダメダメ人間がするその手の誘致活動は、スポーツ・イヴェントを開催したいのではなく、人に評価されたいという願望があるわけです。 「ほめて!ほめて!ボクちゃんをほめて!」と絡む子供のようなもの。 オリンピックの開催くらいならポジティヴな評価なので、勝手にやらしておけばいいだけですが、ネガティヴな評価だと実に過激に反応するでしょ? それこそ北朝鮮は、テロ支援国家とされていることから解除するように、アメリカなどに対して執拗に要求してきますが、国民が「天国にいるように幸せ」ならそれでいいじゃないの?どうして関係のない国からの評価などにこだわるの? あるいは、東京都の石原知事が以前に「ババァ」云々でモメましたが、自分の亭主が「オマエと結婚してオレは幸せだ!」って言えばそれでいいのでは?子供が「ママの子供で幸せ!」って言えばいいのでは? どうして、顔の見えない他人による評価にこだわるの? あるいは、以前にも書きましたが、カルトの人たちは、他者からカルトと言われることを極端にいやがるでしょ?それがカルト団体の特徴と言えるくらい。それだけ自分から逃避して、他者からの評価に依存しているわけです。だから、その他者が持つ自分たちへの評価を「正したい!」と考える。そんな「あの○○を正そう!」という行為は、まさにテロ行為そのもの。オウム真理教だって、宗教団体だったら、当人たちが勝手に祈っていれば済む話ですよ。 他の人からネガティヴな評価であっても、「バカは勝手にほざいてな!」で済む話でしょ? そもそも他者からの評価にこだわるのはいいとして、じゃあ、自分自身での評価はどうなっているの? あるいは、ギャグのような実例もあります。 ある人が、どうやら、周囲の人からクレーマー呼ばわりされているらしい。 ということで、この私に質問してきました。 このサイトには、クレーマーについての文章もありますからね。 クレーマーについてそれなりに分かっているこの私に質問するのは理にかなっている。 しかし、私としては、クレーマーという評価そのものには関心はありません。クレーマーを考える視点を提示しているだけです。 私としては、『今後はこんな観点に注意しながら生きていくと、アナタの周囲に発生するトラブルも少なくなるのでは?』というスタイルの回答です。 そのような対応をしたら、相手の人に怒られてしまったんですよ。 「このワタシが人からクレーマー呼ばわりされていて、ワタシは本当に困っていて、悔しくて悔しくてたまらない!本当にこのワタシがクレーマーなのか、ちゃんと教えてよ!どうしてはっきり言ってくれないの?」と厳しく抗議されてしましました。 いや、まあ、激しい抗議だなぁ・・・ で、今回のやり取りのテーマはなんだったっけ? と、途方に暮れることに。 現実的にいうと、人からの評価にこだわればこだわるほど、やり取りの相手側からは、相手にされなくなってしまうものなんですね。 「嫌われたくない。」と、他者からの評価を気にする人は、人のことばかりを気にして、それが「アイツは自意識過剰なヤツだ。」と嫌われることになるものでしょ? 評価を上げるために血眼になっている姿を見た周囲の人は、その人に対する評価を下げてしまう。 評価を上げるための努力によって、その人の価値が上がったことなんて、未だかつてないでしょ?ダメダメ家庭の人間がやっている「評価を上げる努力」は、評価の言葉を上げる努力だったり、否定的な評価をさせない努力であって、相手からの敬意を得る努力ではない。相手から敬意を得ようと思ったら、逆に言うと、相手など必要はないものでしょ?相手を見すぎているがゆえに、相手からの評価を下げてしまう。 そんなことを血眼になってやっている人も、ダメダメ家庭の周囲にはいっぱいいるでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 本年09年も今週で最後です。 昨年の予定では、年を越すまでメールマガジンを配信しているつもりではありませんでしたし、そのために、1つの文章中に色々と詰め込み、できるだけメールマガジンの配信が終了できるようにしていたのですが、まだ、続いてしまっております。 ただ、なんとかして、もうすぐ終了したいと思ってやっているところです。 ちなみに年末年始の配信の予定ですが・・・ 基本的には通常通りの配信スケジュールです。 ただ、次回の水曜日の文章が、長大で悲劇的な文章を予定しているので、そのバランス上、木曜日にちょっと軽めの総集編的な文章を追加して配信いたします。 そして、金曜日も、土曜日も、総集編的で、比較的軽めの文章を配信する予定です。まあ、口直しってヤツです。逆に言うと、それくらい次回の文章は悲劇的な文章といえるかも? それ以降はまた完全に通常どおりです。 では、よろしくお願いいたします。 |
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R.11/2/3 |