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カテゴリー | ダメダメ家庭にないもの | |
配信日 | 10年1月18日 (11年1月10日,11年2月9日 一部分を分離独立) | |
タイトル | 尊厳 (安っぽい) | |
追記 | 「自分への厳しさ」という部分を分離独立 (11年1月10日) | |
「ミジメな姿」という部分を分離独立 (11年2月9日) | ||
アメリカにいる野球選手のイチローさんが以前にアメリカで子供たちに言っていました。 「自分を大切にしなさい!自分を大切にできない人は、周囲の人間も大切にできない。」 さすがイチローさんはいいことを言う! そう!ダメダメ家庭の人間は「自分を大切にしない。」 まあ、子供時代に親から大切にされてこなかったのだから、いたし方がない面もあります。しかし、だからこそ、ちゃんと自覚するようにならないとね。 自分を大切にするって、自分以外の人間を「大切にしない」ということではありませんヨ。 自分の「尊厳」に配慮するということの重要性と言えるでしょう。 自分の尊厳に配慮するから、他者の尊厳にも配慮できるんでしょ? 自分の尊厳に配慮がなければ、当然のこととして「安っぽく」なりますよね?だって自分を粗末に扱っていることなんですからね。 ダメダメ家庭の人間とやり取りすると、この「安っぽさ」にゲンナリすることが多いもの。 たとえば、メールのやり取りでもそう。 私の文章に気に入らないこともあるでしょう。反論したいこともあるでしょう。 それはある意味において、当然のこと。 それだったら、しっかり考えて、ちゃんとした反論をすればいいじゃないの? どうも、そのような人って、私に「勝とう」とするんですね。 しかし、勝ち負けが問題ではないでしょ?その人自身の問題を明確に意識し、将来に役に立てばいいじゃないの? しかし、逆に言うと、「自分自身がどうしたいのか?」ということから逃げている人は、「勝ち負け」で判断するしかない。別の言い方をすると、自身の確たる信念がないがゆえに、他者との関係性によってしか自分を認識できないわけです。 そんな人は、インターネットの掲示板ではいっぱいいますよね? この「安っぽさ」と「勝ち負け」の問題って、実に密接に関わってくるもの。現実でもそうでしょ? どうしてそんなに「安っぽい」ことをするのかなぁ・・・と思わされる人が真剣にやっていることといえば、「相手に勝とう」とすること。 「勝つためには手段を選ばない!」 なんて意気込んでいるのはいいとして、そんな人が使う過激な手段によって、ますます安っぽく見えてしまう・・・そんなもの。 あるいは、勝ち負けでしか判断できないので、自分が「負ける」相手には、「こそっと」逃げ出してしまう。 何も相手に対してパンチの効いた反論などしなくてもいいから、自身の考えを自分の言葉で、しっかり語ればいいじゃないの?無理して勝ち負けなど持ち込む必要なんてないでしょ? それが、自分の尊厳というものでしょ? 自分が責任を取れる言葉でしっかり語ることができない人間に尊厳があるわけがありませんよ。 そんな人がやっているツマンナイ言い合いで「相手に勝った!」「アイツを論破した!」・・・と喜んでいるような人って、結局は自分の尊厳への配慮がないわけですし、往々にして「やる前から勝つと判っている」なり「あえて反論してこない」相手をやり込めて喜んでいるだけ。 そんなことだから、その人の周囲も、自分より格下の人間ばかりになってしまう。そんな程度の低い人間に囲まれて、ますます「安っぽく」なってしまい、尊厳とは無縁になるばかり。 それこそ、インターネット掲示板において、やり取りの相手に勝とうとして罵詈雑言を書き込んでいる人に、尊厳はあるの? あるいは、そんな人の顏はどうなっているのかな? というか、そんなことをしている人の親の顔はどうなっているのかな? ・・・たぶん、実に似ているのでは? 自分にやらなければならないことがあって、それを明確に自覚していれば、相手に勝つとかはどうでもいいことですよ。自分なりに納得できればいいだけ。そんな態度が尊厳につながるわけでしょ? 信念がなければ、その人に一貫性は生まれませんし、そうなると、尊厳とも無縁となりますよ。そして、信念というものは、相手に勝つとか問題ではないでしょ?あくまで自分自身の問題でしょ? よく、スポーツマンシップとか騎士道精神とか言われますが、スポーツでも戦争のような状況でも、勝った負けたという結果ももちろん重要ですが、自分の信念に従って最後まで堂々と戦うことも重要でしょ?ヨーロッパの国々はそんな歴史がある。卑怯な手を使って勝っても、敬意は得られない。たとえば、韓国は勝ち負けにはこだわりますがが、勝つためには何をやってもいいと思っている雰囲気でしょ? だから、韓国とのスポーツの試合だと、正々堂々と戦って負けた側が尊敬を得ることになってしまう。 韓国としては、まさに「試合に勝って、勝負に負ける。」ことになる。 しかし、「自分はどうしたいのか?」と言うことを考えることから逃避しているんだから、どうしても目先の試合の結果にこだわってしまう。 そして「自分がどうしたいのか?」という問題から逃げているような人がすることは、程度の低い駆け引きによって、「自分を高く売ろう!」とすること。 面白いもので、「安っぽい」人ほど、「自分を高く売ろう!」とする。逆に言うと、それだけ他者による評価が気になっている。 人から何かを頼まれると「アナタがそのようにしてほしいのなら、してやるよ!」なる恩着せがましい態度をとって、自分の持ち出しを主張したりする。 そんな人は恩は着せることが出来ても、相手から感謝はされない。 相手から感謝されないから、なおのこと、相手に対しての恩をアピールすることで、自分を高く売ろうとする。そうやって、相手を見ることで、「自分では何をしたいのか?」という問題からますます逃避してしまう。 それこそ韓国は、以前には、バランサーになりたいなんて堂々と言っていましたが、その結果として、誰からも相手にされなくなっちゃって・・・ 「バランサーになるよ。」って、「自分たちは駆け引きをしますよ!」って言っているようなもの。そのような駆け引きの姿を見せないのが、オトナの駆け引き。まあ、そんな、ちょっと前の韓国のようなことを、今だったら日本がやっているわけですが・・・ しかし、そんな駆け引きをするより、自分がしなくてはならないことを、着実に実行することの方がマトモですし、最終的には「自分を高める」ことになるでしょ? そして、自分を高めるためには、信念を持って一貫した態度で取り組むことが必要ですよ。 目先の勝ち負けという断片に右顧左眄しない態度が必要になるでしょ? そして、そんな態度こそが、周囲からの信頼につながることになるわけでしょ? 個人として、自身の尊厳に対して配慮がなく、安っぽいままなので、カテゴリー分類による集団化によって、自尊心を持とうとしたりする。それこそ、韓国人がよく言う民族的自負心とかの意味不明の言葉にすがってしまう。だからこそ、ますます個人としての尊厳がないまま。 「オレたちはスゴイんだ!」 「オレたちはこうなんだ!」 と、連呼しても、結局は、個人レヴェルで「自分は○○なんだ!」とは言えない。 自分の目標や信念が自分で分かっていない人には尊厳などはないでしょ? 周囲に合わせているだけの人は、信念がないと言えるでしょ? そして、周囲に合わせいるだけの人は、自身のことを「ふつう」と言ったりするもの。 まさに、「周囲の間で違いがない」ことが「ふつう」なんだから、周囲に合わせているだけの人は、「自分はふつうだ。」と言えてしまう。 しかし、それゆえに、自分で自分自身を語れない。 自分で何も考えないが故に、やりとりに於いてちょっとでも突っ込まれると対応ができない。だから、周囲に過剰に配慮してしまう。 周囲に過剰に配慮している態度がどうしても顔の表情にでてしまう。 そうして、周囲の人から言われてしまう、 「なんか、あの顔・・・貧相なんんだよねぇ〜」 まあ、信念がないんだから、貧相になってしまいますよ。 そして、何かというと「ふつう」と言い出す人は、そんな貧相な顔をしているものでしょ? 「ふつう」という言葉を語る人は、「ふつう」の顔ではなく、周囲を伺った貧相な顔になっている。 まさに、自分で自分のことを語れないという点において、顔に出たり、「ふつう」という言葉に逃げたりするわけです。 自分で自分のことをちゃんと語れる人は、それ相応の顔の表情をしているものですよ。 確たる目標がないで、一人の人間として、筋を通すという行為とは無縁となる。 ダメダメ人間というものは、 高慢だが、高貴さはない、 うぬぼれはあるが、自信はない、 横柄であるが、威厳がない、 自負心はあるが、尊厳がない、 好意を求めるが、信頼を得ようとしない、 群れることはできても、連帯はできない。 ・・・そんな存在。 たとえば、韓国では自負心という言葉は出てきますが、尊厳という言葉は出てこない。 英語でも、DignityとPrideは、別の言葉でしょ? たびたび、引用しております、マルグリット・デュラスは与太者をこのように言っております。「与太者たちというものは、人と固く結ばれることがなく、自ら一人偉大ということもなく、不安の中に生きている。」 与太者は、まさに尊厳がないがゆえに、つまり自分を肯定していないがゆえに、自分以外の人間も肯定していない。そんな人間同士は、傷のなめ合いはできても、相手の尊厳を認め合った上での連帯には至らない。 結局は、子供を持ち、子供にすがることになるが、当然のこととして、子供を肯定した上で結び付くわけではない。だから、結局はトラブルとなってしまう。 尊厳は善悪とか法律の問題ではありませんよ。 この尊厳ということがテーマになっていた映画が「ニュルンベルク裁判」という昔の映画です。ナチスドイツに、その時の「空気に乗って」「何となく」協力してしまったドイツの法律関係者を裁く裁判を描いた映画です。 訴追された法律家を弁護する若いドイツ人弁護士の主張は、「彼は尊厳に基づいて行動したんだ!」「当時はみんなそうだったじゃないか?!」「彼は悪くない!」と言うもの。 しかし、その必死の弁護もむなしく、ナチスに協力した法律家は有罪になる。 なぜ? なぜなら、尊厳を持つものは義務が大きい。逆に言うと、一般人よりも大きな義務を背負う覚悟を持つものが尊厳を持つ。 法律論なら許されても、尊厳の立場からは許されないものもあるわけです。 若い弁護士が、尊厳の観点から弁護したがゆえに、逆に言うと、有罪になってしまうことになる。 尊厳は、結局は自己責任の問題ですよ。最後まで自分で責任を取れる考え方なり行動・・・それが尊厳でしょ?尊厳とは、信念に基づいているものであって、単に意地を張るのとは違っている。あるいは、倫理的な善悪の問題でもない。倫理的な善悪は、所詮は第3者的な問題ですよ。 そんな第3者の評価を気にしている段階で尊厳を得ることはできない。 関が原の合戦で右往左往した小早川秀秋よりも、大坂城で散った真田幸村がカッコイイのは、最後まで自らの信念を貫き通したからでしょ? 尊厳があれば、敗北もまた美しいもの。 「心意気」を持って、その門に入ることができるというものでは? (終了) *************************************************** 発信後記 本文中で審美眼の問題にちょっと言及しておりますが・・・ テレビのコーナーでファッションチェックなるコーナーがあるそう。 まあ、審美眼の問題はともかく、服装の関係で「あれっ?」と思わされることもありますよね?以前に日本の政治において、自民党と公明党が連立を組んでいましたが、たとえば首相が会談の部屋に入っていくと、自民党の関係者はスーツのボタンを留めなおし、公明党の関係者はボタンを外したままで挨拶・・・そんなシーンがありました。 最初の挨拶の際には、スーツのボタンを留めておくのが、まあ、マナー。 これは、昔はサスペンダー(吊りバンド)を使っていたので、その頃の風習の名残とか言われたりしますが、今でも、そんなマナーがあったりする。 公明党の関係者がなぜに、スーツのボタンを外したままだったのかはわかりません。しかし、そんなシーンはわりと多かったんですよ。マナーを知らなかったのか?それとも、首相よりもオレたちの方が立場が上なんだと主張していたのか? 最近、興味深い服装なのが、現在の話題の中心である民主党の小沢さん。 あまり人目にはでてくる人ではないにせよ、紹介されている写真には、コート姿で写っている。 どうしてコートを着ているの? 「そんなことは、決まっているだろう?冬だから、寒いからだよ!」 そう思われる購読者さんもいらっしゃるかもしれませんが、小沢さんは、電車の駅から目的の建物まで歩いていく人じゃない。建物の玄関前まで車で乗りつけられる立場なんだから、実際的には外気にはほとんど当たらない。むしろ車内や建物内でコートを脱ぐ手間が面倒。 それに相手の建物内ではコートを脱ぐのが、まあ、マナー。 どうして、コート姿の写真になるの? 逆に言うと、コートを着ていると、「今、たまたまここに寄ったけど、あるいは、何とか都合を付けてここに来たけど、スグに『おいとま』するよ!」という無言のメッセージになるわけ。つまり自分の言いたいことを言い放ったら、さっさとその場を離れるアピールなんですね。つまり相手の話を聞きたくないと思っているわけ。 小沢さんからは、人の話を聞くことに対する心理的な恐怖感が顕著ですが、まさにその点がファッションからもわかるわけです。 ・・・ということで、ファッションのチェックではなく、ファッションからのチェックでした。 |
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R.11/2/9 |