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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神 |
配信日 | 10年1月18日 (11年1月10日に分離独立) |
タイトル | 自分への厳しさ |
追記 | 「尊厳」という文章から分離独立 (11年1月10日) |
ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がなく、常に被害者意識を持っている。何ごとも「やらされている」という受け身のスタンスで物事を認識している。「やらされているんだから、自分に厳しくする必要なんてないじゃないの?」そう思っている。 何かに手を付けても、ダメダメ人間は自分に甘い。最後までやり通すこともなく、結局は挫折して、「まっ、もういいかっ・・・」となってしまう。そもそも、始める段階で覚悟を持ってことに当たらないわけですし、やっている最中も、自分の信念や尊厳に配慮した、自分自身に厳しい態度にはならない。 「て・き・と・う」に始めて、「て・き・と・う」に進めて、いつのまにか止めている・・・そんなもの。 まあ、学生時代の日記のようなものなら、いつの間にか止めていても笑って済むわけですが、「これをやり遂げたい!」と思って始めたものなら、いつのまにか止めているようなら、大問題でしょ? そんな人は、一体何をやり遂げるの? あるいは、それまでにおいて、最後までやり遂げたものは何? そもそも忍耐とか自分への厳しさって、自分が好きなこと、やり遂げたいことのために、「あまり好きではないこと」「今の時点ではあまり必要性がないこと」と犠牲にすることでしょ? 一番重要と考えることに献身的にあたることでしょ? 基本的に言うと、プライオリティの問題でしょ? それこそ、いわゆるダイエットにおいても、体形を維持したいということと、おいしいものを食べたいということのプライオリティをどのように判断するかの問題と言えるでしょ?体形の維持を第一に考えているのなら、食べることを控えるという我慢は必要になるわけですが、体形に対して何も要求がないのなら、食べるのを我慢する必要も意味もないでしょ? 目的もなしに、食べるのを我慢していても、当人なりの成果がないだけでなく、そんな努力自体が安っぽくなってしまいますよ。それは自分に厳しいという態度ではなく、単なる意地っ張りと見た方が理解しやすいわけです。 自分に厳しく当たるためには、そもそもが「自分が本当に好きなこと」「自分が本当にやり遂げたいこと」がないと無理なんですね。 ただ単に我慢のための我慢をしても、それこそ我慢大会に終わっちゃいますよ。 自分の目標達成のための我慢でないと、意味がありませんよ。 別のところでも書いていますが、忍耐を持ってことにあたることと、単なる我慢は別のもの。 目標を達成するためには忍耐が必要になるわけですが、目標もなく、現状を耐え忍ぶことは忍耐ではなく我慢ですよ。 何回も書きますが、忍耐を持ってことに当たるためには、自分が本当にやり遂げたいものが当人自身に明確になっていないとダメでしょ? 我慢とか自分への厳しさって、自分の目標を達成するための方法論でしょ?それ自体が目的ではありませんよね? たとえば、ドメスティック・ヴァイオレンスに陥った夫婦において、 夫から暴力を振るわれている妻が、離婚もせずに夫からの暴力に耐えているのは我慢と言えるでしょう。 忍耐だったら、潔く離婚して、自立のための努力を必死になってし続けることになります。 当事者意識がないダメダメ人間は我慢はできても、忍耐はできないわけです。 ただ、心頭滅却の能力が高くなるばかり。 心頭滅却の能力が高くなっても、それが本当の意味での「自分への厳しさ」にはなっていない。何回も書きますが、自分への厳しさって、一番重要と考えることのために、二番目以降のものを犠牲にすることでしょ?つまり、本当にやりたいことがあってのものなんですね。 ダメダメ家庭の人間は、「自分が本当に好きなこと」そのこと自体がない。もちろん「自分が本当にやりとげたいこと」もない。 いつも「て・き・と・う」で、「やらされている」スタンス。 そして、「やらされている」という立ち位置だから、うまく行かなくても、「ワタシは言われたことをやっただけだ!」「ワタシは悪くない!」とスグに言い訳をすることになる。 逆に言うと、そんな言い訳がスグに言えるように、あくまで「やらされている」という受け身のスタンスにこだわってしまう。 そんな日常なんだから、周囲の人間から忍耐なり我慢を要求されると、単なる精神修養としてしか捉えられない。それどころか、そんな要求を受けて、持ち前の被害者意識が刺激されてしまい、ますます受け身のスタンスで物事を受け取るばかり。 受け身のスタンスなので、忍耐ではなく、我慢となる。 しかし、逆に言うと、受け身のスタンスで我慢することは、実に得意になってしまう。 受け身のスタンスで、周囲からの要求に従うことを、「自分への厳しさ」だと誤解してしまう。 そんないびつなスタイルの「自分への厳しさ」なので、その場限りで、結果につながらない。だって、求める結果そのものが当人にもわかっていないわけですからね。だから本質的な意味で自分に厳しいわけではない。 ただ、被害に耐えている・・・と言うだけ。 結局は、被害者意識が増大するだけになってしまう。 被害者意識が膨らんでしまうので、結局は自分に甘くなる。だって「ワタシはかわいそうな被害者なんだ!」と思っているので、どうしても自分に甘くなってしまう。逆説的になりますが、周囲から我慢を要求されるので、結果的に自分に甘くなるわけです。 人から要求されるという受け身の立ち位置となっているので、被害者として自分を認定して、被害者という言い訳ができるので、その状況から逃げ出す口実としてしまうわけです。 そして、自分に被害を与えたと認定した他者には、「アイツのせいで・・・ワタシは・・・」と厳しく出ることになる。その攻撃によって、犯人認定の儀式とし、そして、被害者としての自分の立ち位置を確定させる儀式としてしまう。 一般の人間は、細かくものを考えない人が多いから、我慢を覚えれば、その人が成長するなんて、勝手に思っていたりするもの。 しかし、当事者意識のない、つまり確たる目的を持っていないダメダメ家庭の子供に対して我慢を要求すると、それ自体で終わってしまう。むしろ、周囲から我慢を要求され続けて、結局は、「あ〜あ、生きていても何もいいことないなぁ・・・」なんて世を儚むばかり。世を儚んでいれば、忍耐を持って、ことに当たることはますますしなくなりますよ。 目標がない人間が、自分に厳しく接することなんて無理でしょ? 逆に言うと、本質的な意味で自分自身に厳しい人は、確たる目標があるわけです。 自分自身への厳しさがない人は、当事者意識がなく、つまり強い被害者意識があるわけですし、だからヘタに近寄ったりすると、勝手な理屈で犯人認定され、報復されたり、たかられるだけ。 そんな例は、現実に頻繁にあったりするでしょ? |