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カテゴリー ダメダメ家庭の認定行動
配信日 07年5月18日 (10年12月9日,11年1月3日 記述を追加)
タイトル 敵認定の儀式
「ダメダメ家庭の人間は被害者意識が強い。」・・・なんて、いつもの書き出しですが・・・
ダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強く、いつだって「ワタシって、何てかわいそうなの?!」と勝手に自己憐憫している。そのような人は、単に自分を哀れんでいるだけならまだしも、「このワタシに被害を与えた犯人は誰なんだ?」と、犯人探しをしている状態。
自分を被害者として設定するためには、加害者の存在が必要になる。
だから、まったくの自己都合によって、加害者探しにいそしむことになる。

ダメダメ人間にしてみれば、「あの人のこのような点がヘンだ → その点がワタシに悪影響を及ぼしている →だから、あの人が犯人なんだ!」そんな流れではないんですね。むしろ、「何か上手く行かないなぁ → きっと誰かがワタシに悪さをしているせいなんだ → きっとあの人が犯人だ!」
そんな流れになっているわけ。
考え方が時系列的に違っているわけです。原因があるから結果があるのではなく、状態から、原因を設定するわけ。

もちろん、人間の思考としては、自分の現状認識から考察を出発するでしょう。しかし、「じゃあ、実際にこの○○が原因だとすると・・・」と、時系列順にと言うか因果律に従って推論をやり直すものでしょ?
あるいは、当人自身に問題がある場合も多い。「自分自身には問題はないのか?」という点について、ちゃんと考察した上で、周囲の問題も考える必要があるでしょ?
しかし、ダメダメ人間は、そんな推論はしない。とにもかくにも、自分の不満を静めたいだけ。論理的な整合性は考えない。

結局は当人自身の問題を他者のせいにしているだけなんですね。だから、犯人が具体的に誰なのかは、実は重要ではないわけ。とにもかくにも、自分以外の犯人がいることが重要となっている。
犯人がいさえすれば、つまり加害者がいさえすれば、自分を被害者として設定できるでしょ?だから、とにもかくにも、加害者を設定しようとするわけです。

このメールマガジンでは、ダメダメな人間とはヘタに関わると危険なので離れるしかない、なんてよく書きますが、そのような事情があるわけです。ダメダメな人間と、たまたまグチで盛り上がって、楽しい気分になっても、いつのまにか自分の側が犯人認定されてしまう・・・そんなこともあるうるわけ。ありうると言うか、実に頻繁に起こっていること。

「あの人のこのような点が問題がある → だから、あの人が犯人。」そのような流れでなく、「誰か犯人となる人はいないかなぁ・・・→ あの人が犯人とするとちょうどいい!」と言ったスタイルになっている。はっきり言って根拠なんてあったものではない。明確な根拠がないが故に、自分がとりあえず設定した犯人を、自分自身に納得させる行為が必要になってくる。「やっぱり、悪いのは全部コイツのせいなんだ!」と言えるように、「自分とっての敵が誰なのか?」「この人こそがその犯人なんだ!」と確定させる儀式のようなものがあるんですね。

そのヴァリエーションを、このメールマガジンでは頻繁に取り上げております。
インターネットの掲示板にいやがらせをするようなことだって、本来は、本人にしてみれば何も得にもならないわけでしょ?あるいは、いたずら電話を掛けるような人もいますが、そんなことをしても、当人には何もメリットはないでしょ?しかし、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と自分自身に確認するには有効でしょ?
自分たちに確認するには有効となると、集団で誰かを犯人認定する「つるし上げ」なども、その典型でしょう。

「つるし上げ」のように集団で犯人確定する儀式もあるわけですが、個人だったら誰かを「つるし上げる」ことも難しい。まあ、「つるし上げ」を個人が家庭内で行うと、ドメスティック・ヴァイオレンスなり児童虐待になる。
そのような行為は、「オレは悪くない!悪いのは全部オマエのせいだ!」と言う「被害者と加害者」の関係性を、確定させる儀式なんですね。

お互いが、その儀式を通じて、「被害者と加害者」の位置関係を確定させることになる。だからそんな儀式は、お互いにとって分かりやすいものである必要がある。
当然のこととして、言葉ではなく、誰にでも分かるような肉体的なものになってしまいますよ。まさに痛みを通じて、お互いが認識し確認し合うことになる。
そして、その痛みの度合いが強いほど、お互いの認識に、お互いの関係性が強く刻み込まれることになる。
自分自身でも自信がなく、言葉では説明できないことだからこそ、その犯人確定の儀式に必要とされる「痛み」が大きくないといけない。

あるいは、誰かを処刑するという儀式を行うことにより、その周囲の人たちが「ワタシは悪くない!」という立ち位置を獲得できることになる。まさにスケープゴートを決定するための儀式となるわけです。
それこそ、中世のヨーロッパとか現在のイスラムでも、ロバとか羊とかの動物が暴れたとかで、その動物を裁判にして、処刑するような事例があったりしますよね?
動物が暴れたのだったら、「出来の悪い」その動物をさっさと解体してお肉でもすればいいだけ。わざわざ裁判などにする必要はありませんよ。

しかし、逆に言うと、その動物の関係者が「ワタシは悪くない!」と言えるようにするためには、「この動物が全部悪いんだ!」としておくと好都合でしょ?
逆に言うと、そのような形式を踏むことは、「動物のせいにしておかないと、自分のせいになってしまうかも?」という動物の周囲の人間の恐怖心が背景として存在するわけです。
だからこそ、裁判という儀式が要請されることになる。裁判によって、動物が有罪になったというよりも、周囲の人間が無罪放免されたとみた方がその内面を表しているわけです。
大がかりな犯人認定の行為は、それだけ、「そうしておかないと、よりマズイ事態になってしまうかも?」という「する側」の恐怖心があるわけです。

と同時に、処刑してしまうことにより、その事案から解放されたいと思っている。
自己逃避で抑圧的なダメダメ人間は、自分で考えることに対して恐怖を持っている。
処刑という犯人確定の儀式を行えば、「それ以上は」その件について考える必要はないでしょ?
逆に言うと、そのような思考停止状態を求めて、処刑を求めることになる。
それこそ、何か事件があったりすると、やたら「死刑にしろ!」なんて息巻く人も実際にいるでしょ?
そのような過激な言葉は、その内面にある恐怖心を表しているわけです。
「見たくない!」「考えたくない!」と必死なんですね。

それこそ、別のところで取り上げております、アルベール・カミュの「異邦人」で描かれた民衆がみせる「やさしい無関心」そのもの。
儀式を求める心理は、思考停止を求める心理を想定すると、実に見通しがよくなるわけです。

さて、福島県で、何か猟奇的な事件(07年)があったようですが・・・
少年が母親の首をチョン切ってしまった事件です。
このメールマガジンは、エグイことを書いていますが、意外や意外、あの手の血なまぐさいシーンは、どっちかと言うと回避しています。私は、心の痛いところを言葉で突くタイプで、どっちかと言うとフランス人的な文章です。サディストと言ってもプラトニックなタイプなんですよ。まあ、それはいいとして・・・

ノコギリで切断なんて・・・そもそもが面倒。
しかし、その手間と痛みこそが、必要とされる、そのような儀式もあるわけです。それだけ、自分の考えや、やっていることに自信がないわけです。だからこそ、強引にでも、自分自身に被害者と加害者の関係性を確定させる必要が出てくる。
まさに「コイツのせいで!コイツのせいで!」と、自分自身に確認しながら、「作業」を行うことになる。

ダメダメな人間は、自分から逃避している。だから自分が上手くいかない理由だって、自分でも分かっていない。かと言って、現状として上手く行っていないのだから、「誰かを犯人認定したい!」と切望している。そして、とりあえず認定した犯人を、自分自身で確認し、確定する。
「コイツが我々の敵なんだ!」
そのような自分への確認が必要とされるわけです。

実際、「首」を持ってくるとなると、まさに戦国時代でしょ?
『敵の武将を討ち取った!』
心理的にはそんな状態があるんでしょう。もちろん、無意識的にですが。

本来は、自分と母親との間に問題があるのなら、話し合いで解決すれば済む話ですが、ダメダメ家庭というものは会話不全の家庭。そして会話不全というだけでなく、親の被害者意識が強いので、そんな家庭で育った子供は「親に迷惑を掛けてはいけない!」と親に関する認識や思考はアンタッチャブルになってしまう。

こうなると、誰か自分とは関係ない人間を、勝手に犯人認定して、その認定した犯人を襲撃したり、あるいは「政治が悪い!」ということでテロ行為に走ってしまう。
あるいは、「時代が悪い。」と言いだし、時代という抽象的な存在を犯人認定することになる。
アンタッチャブルとなっている自分の親以外から、犯人を捜すことをする。

しかし、親との関係に目を向ける・・・そんなケースだってやっぱりあるわけです。なんと言っても、毎日のように顔を合わせているわけですからね。しかし、「親に迷惑を掛けられない」と思っているので、冷静な思考なんてできない。
「親に迷惑を掛けられない」状態で、親との問題を考える・・・そんな必要が出てくる。
「親のどの点が問題なのか?」そのような個別で具体的な思考にはならない。
現状を認識し、その背景となる心理を考え、その心理の影響を論理だって解析していくような・・・このメールマガジンの分析のような思考はできない。
むしろ、自分の親を一気に犯人認定する儀式をすることになる。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ上で爆発するわけです。
まさに「敵の大将を討ち取ったり!我々の積年の恨みを晴らしたぞ!」

そんなシーンは、忠臣蔵のような日本の事例だけでなく、旧約聖書の時代からやっていること。敵の武将ホロフェルネスを討ち果たして、その首を持ち帰る女性ユーディットを描いた絵を見たことがある方も多いでしょ?
逆に言うと、首を持参するという行為によって、その首の持ち主が「敵の武将」であると自分に認定させる行為となるわけです。

「自分の親のどの点が問題なのか?」「自分にとってどのように不快なのか?」それを具体的に考えられないからこその、敵認定の儀式なんですね。
もちろん、親の問題を考えることをアンタッチャブル状態にしたのは、その子供当人ではない。
自分の子供に対して「親に迷惑を掛けるな!」と言い続けだったその成れの果てが、首を切断されるような結果につながるわけです。

子供にしてみれば、「親に迷惑をかけてはいけない。」がゆえに、親に関する問題はアンタッチャブルになっている。
だからこそ、親の問題を考えること、それ自体に心理的な負荷がかかってしまう。
大きなアンタッチャブル領域があり、それゆえに、思考の空白となっている部分を一気に埋めようとする行為であり儀式が求められる。だからこそ、その行為は、極端で激しいものにならざるを得ない。大きなアンタッチャブル領域を埋めるためには、首を切断するような過激な手段が必要になってくるわけです。
普段から話し合いがあれば、あんな面倒なことは必要ありませんよ。

逆に言うと、「あの人は、どうも、あの人自身の親の問題はアンタッチャブルだなぁ・・・」と思わされる人は、あんなことをする可能性もあるわけです。
まあ、その人自身の親の『み印』を頂戴するくらいならまだしも、勝手に犯人認定されて、犯人確定の儀式に巻き込まれたら、たまったモンじゃあありませんよ。しかし、そんな人って結構いたりするでしょ?

自分の親の問題がアンタッチャブルになっている状態で、そのアンタッチャブルを埋めて、自分の親の問題と対峙するケース以外にも、親を素通りして、それ以外のものを犯人認定するケースも多い。
そのような場合には、親と「心理的につながりがある」ものを犯人認定することになる。

それこそ、上の立場から一方的に命令を下すという強圧的な親のイメージを、官僚に拡大投影し、霞ヶ関の官僚を攻撃する事例は、意外にもポピュラーでしょ?
それこそ、政府転覆を目指す左翼学生運動のようなものから、08年に起こった厚生省事務次官OBの殺害事件もそのパターンと言えます。あるいは、09年に中央大学で指導教官を殺害した事件がありましたが、その指導教官も、犯人にしてみれば、自分の親がアンタッチャブルになっているので、自身の親のイメージを教授に投影している面もあるわけです。

あの手の事件があったりすると、「犯人はどんな恨みがあったから、あのような事件を起こしたのか?」などと脳天気な疑問を発する人もいますが、その種の事件を起こす人は、発想の方向性が違っているわけです。
「恨みがあったから、○○を殺害する。」のではなく、「恨みがあったと『思いたいがために』、あの○○を殺害する。」という心理の流れになっているわけです。
自分を騙したいわけ。
本当に不満に思っている対象とは別の対象を凝視することによって、アンタッチャブルな対象を考えることから逃避するわけです。
自分を騙すのが、その深層心理的な目的であるので、その「騙すための儀式」は大がかりで、痛みを伴うものにならざるを得ない。

アンタッチャブル領域の大きさは、いわば触れれば爆発する地雷の大きさのようなもの。シャレでもなんでもなく、ドッカーンとなっちゃうわけです。
だからこそ、そうならないためには、日頃から自分自身のことについて考え、自分のアンタッチャブル領域を自覚するとともに、それをできるだけ小さくしていく・・・そんなことが必要になってくるんですね。

(終了)
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発信後記

まあ、期待もあったでしょうから、事件のお題にいたしました。
今回の事件で、少年と母親との間には何の問題もなかった・・・とか、言っている関係者もいるらしいのですが、それって実際に何も問題がなかったというより、親との関係における問題がアンタッチャブルだったというだけ。

そもそも自分から逃避していて、会話の能力のない人の「言葉」を鵜呑みにしたら、バカですよ。このメールマガジンで何回も書いていますが、「言われていること」から考えるよりも、「言われていないこと」「言おうとしないこと」そこから考える必要があるわけです。
まあ、福島県の警察の連中がどんなマトメにするのかは、興味がありますが・・・

何回も書いていますが、ダメダメというのは、問題があることではなく、問題を見ようとしないこと、なんですね。
問題がなかった・・・と言えてしまうこと事態が、大問題というわけです。

まあ、皆さんは、あのような大きなアンタッチャブル領域を持った人を避ける・・・そんな必要があるでしょう。そんなアンタッチャブル領域を抱えた人は、スグに逆上する人と重なることが通例。
今回の事件だって、ある意味、静かなる逆上なんですね。

ちなみに、犯人の少年の父親が手記を出したそうですが、今のところはその文面を見ることができないので、何とも申し上げられません。ただ、署名が「被害者の夫」だったとのことで・・・まあ、そのような表記にすること自体が、この事件の原因をよく表していると言えるでしょうね。
R.11/1/3