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カテゴリー ダメダメ家庭と学校
配信日 04年11月15日  (10年5月17日に大規模に改訂)
タイトル 学校と家庭のダブルスタンダード状態
よくいう言い方で、「ハレ」と「ケ」という言い方がありますね。
別の言い方だと、「本音」と「建前」の違いとか・・・
建前は建前として尊重はしても、実際のやり方はかなり違っている・・・
大人だったら当たり前のことです。
大人だったら、会社と家庭で言っていることは違って当然でしょう?
子供だって、家庭内と学校での言い方が全く同じというわけではありません。

通常のマトモ家庭でも、家庭の中で話し合われている考え方と、学校で標準となっている考え方にズレがあるでしょう。
ダメダメ家庭における「言い方」の個別の問題については、今まで色々と書いています。ダメダメ家庭ではこの学校と家庭での「言い方」のズレが非常に大きいわけ。双方で矛盾しているくらいなんですね。

「人間は努力してもダメだ!勉強してもしょうがない。」「障害者は生きる資格がない。」「あの教員は世間知らず。」「子供のために使った学費は将来は、親に返還しなくてはいけない。」等々・・・
ダメダメ家庭では、まさに身も蓋もない現実を子供に叩き込みますからね。

「そのような考えは間違っている。」とかの言葉で、周囲の人がその子供に言っても仕方がない。だってその家庭の支配者たる親が子供にそう語ったのなら、それが家庭内でのスタンダードでしょ?周囲の大人が何を言っても無意味ですよ。
家庭内におけるこのような考えが現実・・・少なくともダメダメ家庭が見ている現実・・・を反映しているのは確かでしょ?

そもそも、学校で教えている考え方は、実際の社会とは全く適用できないことが多くありますよね?
「数学なんて将来は使わないじゃないか!」と言うことではなくて、それこそ「横断歩道では手を上げましょう!」とか「人間の潜在的な能力はすべて同じ」とか・・・「人間は努力すれば必ず報われる。」とか・・・

このような現実離れした美辞麗句は、まずもって文部科学省の役人だってウソと思っているでしょう。当然のこととして、教える側の教員だって、本気には信じてはいないわけです。
ということで、どうしても「学校で教えるスタンダード」というのは現実的には無理があるわけです。
学校というものも、一種の空虚な体面の中にあるわけですね。
まあ、日本の学校も所詮は、北朝鮮のような面があるわけ。

学校に通う子供にして見ても、現実のスタンダードは学校以外の現実世界から得ることになる。
学校においては学校のスタンダード。家では家のスタンダード。
子供だって使い分けるようになるわけ。ただその学校と家庭の2つのスタンダード間における乖離の距離にも限度があります。単に「ハレ」と「ケ」の違いくらいならともかく、あまりに「夢を打ち砕くような現実」を家庭で展開していた場合、ちょっとした考え方の違いというより、どちらか一方が「ウソ」を言っているということになるわけです。

学校と家庭の考え方の違いが、ダメダメ家庭では非常に大きい。
大体において、ダメダメ家庭というのは現実の社会において、あまりいいポジションにいるわけではない。どうしても自分たちの希望がかなわない状況が日常化しているわけです。だから国家主導の理想的?スタンダードとは、実際的に合わなくなっている状態。
スタンダートの単なる微調整の問題ではなく、相互が矛盾しているわけ。

この場合においては、ダメダメ家庭の子供にとって、家庭でのスタンダードと学校でのスタンダードという2種類のスタンダードが存在することになります。このような場合、子供が「つい」気を許してしまって、家庭でのスタンダードを学校で話をしてしまったら大変なことになってしまう。

「勉強なんてしても意味ない。」とか「障害者は生きる価値がない。」とか「あそこは離婚家庭だからダメだ。」とか。

そんなことを言ったりすると、国家主導の正統的なスタンダードの支配下にある周囲の純真な子供たちから、集中砲火を浴びてしまいますよね?
「何をとんでもないことを言っているんだ?!」
「昨日、先生がそんなことを言ってはダメだって、言っていたばかりじゃないか?!」

一度そのような思いをすると、ダメダメ家庭の子供は学校での発言に非常に気を使うようになります。
子供同士での会話でも一言一言を慎重に発言するようになって来るわけ。まるで官僚作製の国会答弁のような発言をする子供が誕生するわけです。
「それについては諸般の事情を総合的に考えて・・・」
そうなると、子供同士での会話もぎこちないものになりますよね?

大人は「ハレ」と「ケ」を「それなりに」使い分けることができますが、子供には難しいものですので、今度はそのように「使い分けで失敗した」学校での話しを家庭で話をする場合もあるでしょう。そのような時には、ダメダメ家庭の親は「ウチの恥をバラしやがって!」と怒り出したりするんですね。普段は親自身がそんな実もフタもないことを子供に対して言っているにも関わらず、子供が学校でしゃべったりすると怒ったりするわけ。

ということで、それからは子供も家庭においても国会答弁のように「会話」してくれるようになります。
「学校ではいいことも、悪いこともあった・・・」
一体何を言っているのか子供自身でもわからない状態。まあ、親に対しては本音を言わなくなるわけ。こうなると親としては手がかからなくなるんですね。だって親に対しては自分が困っていることを言わないわけですから。まさに家庭の中がめんどうなことにならないように配慮するわけ。

また、これがもっと進展すると、学校でのスタンダードと家庭でのスタンダードの区分からもっと細分化して、父親向けの発言、母親向けの発言、友人A向けの発言、友人B向け、担任の教諭向け・・・と更に多様になってきます。

よく少年犯罪があったりすると、権威筋が「犯人は多重人格」とか、もっともらしいこと言ったりしていますが・・・
ダメダメ家庭では、子供時代から、相手に合わせて発言を変える習性で生きてきたわけですので、精神の病気というより、単なる処世術になっているんですね。
しかし、このようなダブルスタンダートを背景にした処世術が、将来的にどのような結果につながっていくのかは明白でしょう。だって、相手に合わせるだけで、自分自身がなくなってしまっている状態なんだから、人に合わせ切れなくなると、ドッカーンとなってしまいますよ。

今までダブルスタンダートについて書いてきました。
スタンダードの多様性と言っても、もちろん、それぞれの家庭にはそれぞれの考え方があるでしょう。
しかし、ダメダメ家庭とマトモ家庭は、単なるアナログ的な程度問題というよりも、その基本が全然違っているわけです。整合性もなく、相互に矛盾しているわけ。

ダブルスタンダート状態にいると、会話にはならない。
もともとの常識が違いすぎるので、お互いが「アイツは何を言っているんだ?!」と怪訝に思うだけ。
だから会話によって、相互理解につなげていくことにはならない。

あまりに違うと、認識の違いや発想の違いというものではなく、「どっちがウソを言っているのか?」という問題になってしまう。
だから相互理解ではなく、犯人認定の心理になってしまうだけ。
何かの意図があって、ワタシを陥れようとしているなんて、被害感情に至る場合もある。

それこそ、最近でたまに話題になったりしますが、テレビのニュース映像と、インターネット上の動画で映っている光景が違っている場合もありますよね?ちょっとした違いなら、撮影者の個性とか、撮影場所で説明できますが、あまりに違うと、アングルの違いとか、単純な編集の問題ではなくなってしまうものでしょ?
「どんな意図で、こんな差異が生じたのか?」という問題になってしまい、そんな発想は、被害感情と結びつき、犯人認定につながってしまう。表現において、差異が大きすぎると、「どっちが正しく、どっちがウソを言っているのか?」という疑問点が出てきてしまい、犯人探しにつながりやすいわけ。そんなことだから、事件も起こってしまう。

そんな感じで少年事件があったりすると、文部科学省なり、その事件の学校の関係者が「命の大切さを教える。」とかのもっともらしいことを言ったりしますが・・・
学校でいくら美辞麗句を展開しても、ダメダメ家庭の子供には全く無意味なんですね。
ダメダメ家庭の子供にしてみれば、「それはそれ、これはこれ。」
単に学校において要求されるスタンダードとしか受け取らないわけです。
マトモ家庭には有効な「物言い」も、ダメダメ家庭の子供には無意味。
しかし、事件を起こすのはダメダメ家庭の子供でしょ?
ダメダメ家庭の子供に、マトモ家庭で有効な「物言い」を言っても何の効果もないんですね。風邪を引いて熱を出してうなっている時に、「虫刺され」の薬を塗るようなもの。
背景とするスタンダートの乖離に目を向けないと、有効な対処にならないわけ。
別の言い方をすると、子供が直面している現実を無視して説教しても、子供にとって何の説得力もないわけ。

ダメダメ家庭の常識では、「学校は非常識な理想論だけを言っているもの。」という前提であるわけ。そのような常識を持っている子供に、更にもっともらしい理想論を押し付けるのは逆効果なんですね。そんな理想論だけを右翼の街宣車のように連呼するだけだから、ダメダメ家庭の子供が、ますます学校で相談を持ちかけられないわけ。だって、自分の家庭とはあまりに違っていますからね。自分の家庭と学校の格差を実感して、ますます孤立感を深めるだけなんです。

よく少年犯罪が起こったりしますと、学校の対応等が議論に上ったりしますが・・・
困っている子供が相談を持ち掛けれないこと自体に、その学校のダメダメ振りを示しているわけです。子供にとって価値のある学校とは、正論を連呼する学校ではなく、子供の話を聞いてくれる学校なんですね。

そのようスタンダートの乖離は、子供にとっての現時点の問題だけでなく、将来のイメージの問題においても現れてきます。

それこそ、中学や高校くらいになると、自分の将来に向き合う姿勢において、ダメダメ家庭のスタンダードの中にいる人間と、マトモ家庭の中にいる人間の間には、大きな差が発生することになるもの。

「自分は将来に何をしたいのか?」について、それなりに真剣に考えているマトモ家庭の子供と、家庭内で、「オマエは何をやってもムダだ!」「どうせロクなものにならないぞ!」「さっさとあきらめろ!」「とにもかくにも親に迷惑をかけるな!」と言われ続けているダメダメ家庭の子供の間で、たとえ将来についてやり取りをしても、実のあるやり取りにはならないでしょ?
日頃から接しているクラスメートとまったく話しがかみ合わないし、家にいたら、親から諦念を要求されるだけ。そんな状態で、どうやって自分の将来と向き合うの?希望を基本としたマトモ家庭のスタンダートと、諦念を基本としたダメダメ家庭のスタンダートの間で、どうやって将来についてディスカッションするの?

しかし、人に合わせることを要求されているダメダメ家庭の子供は、人とやり取りが出来なったという結果が怖い。だから、自分を偽って、人に合わせることになる。
つまり言葉の上では、相手のスタンダードに合わせるわけ。

つまり、子供にとっての現在の問題だけでなく、将来との向き合い方においても、マトモ家庭の子供とダメダメ家庭の子供の間ではダブルスタンダートになってしまう。
結局は、自分の将来イメージを持つことを抑圧し、ただ、単に人に合わせるだけの人間なってしまう。そして、単に人に合わせるだけの生き方を、「ふつうになりたい!」と言って、とりあえず語ることになる。

「ふつうになりたい!」とは言っても、自分の両親のような家庭を作りたいとはいえない。
ただ、現実から目を背けて、とりあえず周囲に合わせるだけ。つまり自分のスタンダードを捨ててしまうわけ。
しかし、そんな投げやりな態度を、学校なりクラスメートから非難されることになる。
となると、とりあえず、周囲に対して、とおりのいい希望を語ることになる。
それこそ、以前に長崎の古い事件であったように、「親と同じようにラーメン屋さんをやりたい。」なる言葉になるわけ。

その言葉を、学校認定の理想論的なスタンダートで見ると「親を尊敬しているから、将来は、親と同じことをやりたい。」とみなしてしまうわけですが、ダメダメ家庭の現実的なスタンダートで見ると「どうせボクは何をやってもダメなんだから、なりゆきでできる仕事くらいしかすることがないだろう・・・なりゆきでできる仕事となると、父親の仕事を継ぐことくらいだなぁ・・」となっているわけ。
その発言の背景となっているスタンダートを元に言葉を理解しないと、トンチンカンなことになってしまうだけ。

ちなみに、長崎県の“新しい”方の事件の小学校の校長が“不適切”発言をしたそうです。
何でも「あの加害者の子供はウソを言う。」とか何とか・・・
しかし、意識して、ウソを言うというより、相手に合せて言っているだけなんですね。

だって、今回の「お題」のように、ダメダメ家庭では相手に合せて考え方の基本を選択する必要があるわけですからね。そして往々にしてダメダメ家庭の子供は「相手に合わせ過ぎる傾向がある。」ことは以前に配信しております。

それを「子供はウソを言う。」という言葉でしか認識できない校長は、サスガ?と言えます。
まあ、「この校長にして、この学校あり。」「そんな学校にして、この事件あり。」なんでしょう。そんな学校に自分の子供を通わせる親も・・・ダメダメですが・・・

そのような事件が学校で起こった後で、「学校が悪いのか?家庭が悪いのか?」などと議論になりますが、「学校での困り事を家で相談できない。」わけだから、家に問題があるわけだし、「家での困り事を学校で相談できない。」わけだから、学校にも問題があるわけです。
学校か家庭かどちらか一方でもマトモだったら、事件には発展しませんよ。
結局は、どちらもダメダメなんですね。

(終了)
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発信後記

最近だいぶ落ち着いて来た日本のプロ野球の問題ですが・・・
近鉄バッファローズにいらっしゃった岩隈さんという選手が、新しく合併してできた「オリックス・バッファローズ」への参加を拒否しているそうです。
ちょっと岩隈さんの公式サイトを見てみたら、なんと岩隈さんはダメダメ家庭の出身とのこと。ご自分で書いておられました。
昔は色々とあったようです。

だからこそ、あんなにハンサムなのに若くに結婚し、スグ子供を作ったのでしょうね。
「自分は家族を大切にしよう!」というわけなんでしょう。
ダメダメ家庭出身者の再生には、ます「自分の出身家庭はダメダメ家庭だ。」と自覚することが第一。それから自分のできることをコツコツやっていく。
岩隈さんはそんな感じで、自分の再生のため、一歩ずつがんばっているんでしょうね。

しかし、そんな岩隈さんに「オレたちが決めたことには、文句を言わずに黙って従え!」と、合併球団への参加を上層部より強要されたら?
この言葉は、ダメダメ家庭出身者には一番キライな言葉ですよね?

「自分が初めて持った家族」と思っていた近鉄バッファローズというチームが無くなり、おまけに問答無用のオヤジたちにより、進路を決められてしまう・・・
そんな状況下では、精神的に、野球どころではありませんよ。

新しくできたオリックス・バッファローズというチームも、サスガに関西のチームだと・・・そのデリカシーのなさに感心してしまいます。
何か時代劇での好色悪代官と美人の芸者さんのやり取りを連想してしまいました。

「オイ、岩やっこ・・・ワシのオンナになれ!」
『お代官さま!お許しください。私には心に決めた人が・・・』
「そんな勝手は許さん!お前はワシに金で買われたんだ!ほら!証文もあるぞ!」
『お代官様!後生ですから!』
「芸者ふぜいが、つべこべ抜かすな!え〜い!」
『あ〜れ〜』

よくありましたよね?こんなシーン。
公衆の面前で好色悪代官を堂々と演じている、オリックス・バッファローズというチームは・・・本当にスゴイ。
言うまでも無くこのようなやり取りは、そのまま児童虐待のシーンと重なります。
関西で児童虐待が多発する理由を、野球の世界において説明してくれている・・・そんな価値もある騒動なんでしょうね。
R.10/5/17