トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る 「不幸への憧れ」トピックス
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ 検索すると上位に来る文章
カテゴリー 文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 06年9月12日 (10年8月13日 記述を追加)
タイトル エミリー・ディキンソンの詩から
このメールマガジンにおいて度々取り上げていますが、ダメダメ家庭を作る人間は「不幸への憧れ」を持っていることが多い。
幸福になろうとして、失敗して、不幸な家庭であるダメダメ家庭を作ってしまった・・・と言うより、不幸になろうとして、その望みを達成してしまい、不幸な家庭であるダメダメ家庭ができてしまう・・・
現実のダメダメ家庭を見てみると、人間の無意識の世界に潜む、そんな、「不幸になりたい!」という「憧れ」を想定しないと理解できないんですね。
不幸な境遇にいる人は、まさに不幸になるために、嘆きの声をあげることができるように、各局面において、的確な選択をし続けているもの。

この「不幸への憧れ」については、04年11月に長い文章を配信しております。

この文章は、リーダース・チョイスでも選定していただいておりますし、逆上メールをいただいた文章のチョイスにも入っています。
両方に選定されているのは、この文章だけ。

まあ、それだけインパクトがあったわけでしょう。
私も書いた「かい」があったというもの。

上記の「不幸への憧れ」の文章の中で、フェリペ2世時代のスペインの劇作家カルデロンの戯曲の中のセリフである、
「嘆きを並べるのはまことに心楽しいものだから、人は求めても嘆けとか・・・」と言う言葉も引用いたしました。
「人は、自らが嘆くことを求めて、そして嘆きの状況を自らが作り上げて、嘆く。」わけ。

サスガに大芸術家はちゃんと見ているねぇ・・・

また、今年(06年)になってバルザックの小説「谷間のゆり」を集中的に取り上げましたが、その小説を、この「不幸への憧れ」の観点から考えてみた文章を配信しております。

まあ、カルデロンやバルザックなどの超が付く大芸術家と、この私が、同じことを言っている・・・わけですが、言っていることは同じでも、文章の格が同じなどと申し上げるつもりはありませんよ。いくらなんでもねぇ・・・

この「不幸への憧れ」がダメダメ家庭を考える重要な視点であり、ダメダメ家庭というものは、どんな時代や地域にも存在していることを考えれば、カルデロンやバルザック以外にも、私の「お仲間」というか「同志」が、いるはずですよね?

ということで、今回はアメリカの女流詩人のエミリー・ディキンソンの詩を取り上げます。
エミリー・ディキンソンという詩人については、本なりインターネットでお調べくださいな。
19世紀のアメリカで、誰にも知られずに、ひっそりと創作を続けていた人。

死んだ後になって、色々と詩が見つかって、「こりゃ、スゴイ!」と言うことになったわけです。今ではホイットマンとならぶアメリカの大詩人との称号を受けています。
このパターンは芸術家の王道ですよね?

今回のメールマガジンでは、そのエミリー・ディキンソンのある詩を取り上げます。
それはこの詩。

********************************
経験とは 逆説的にも
己に逆らって逆方向に
行ってしまうと内心知りつつ ついつい
選んでしまう曲がりくねった道のこと

人の試練がどんなに
錯綜していようとも
結局 予定の苦しみを
自ずと選んでしまうもの

*************************
この訳は、桐原書店発行のエミリー・ディキンソンの選集からのものです。
実は、その選集では、ディキンソンの詩から多くを選んで取り上げ、それぞれの詩に対して、訳者さんによる「解説」というか「一口コメント」が付いているのですが、上記の詩だけは、解説もコメントもないんですね。

しかし、この私が書いた「不幸への憧れ」という文章が、このディキンソンの詩の「意味」の完璧な解説となっているのは、私の文章をお読みいただければお分かりになると思います。
私があの文章を書いた時には、このディキンソンの詩を知りませんでした。しかし、まあ、こういうことってあったりするもの。全然別の機会に書いた文章が、結果として、ディキンソンの詩の的確な解説にもなってしまったわけ。

ただ、上記の訳は、ちょっとわかりにくい。
ということで、原文も書いて見ましょう。

Experience is the Angled Road
Preferred against the Mind
By−Paradox−the Mind itself−
Presuming it to lead

Quite Opposite−How Complicate
The Disciplin of Man−
Compelling Him to Choose Himself
His Preappointed Pain−

ディキンソンは「喪失の詩人」とか「蜂の詩人」とか、あと「逆説の詩人」とか言われたりするようです。
蜂のように、鋭く刺して痛みを与える・・・と言うわけでしょうか?
また、逆説の詩人ということで、この詩においても、「逆説的に(Paradox)」という言葉が使われています。

色々と親近感が沸く人だなぁ・・・

ちなみに、上記の訳がわかりにくいのは、「訳」がある。
最初の単語である experience の意味を、訳者さんが取り違っているからなんですね。
Experienceを「経験」と訳すと、詩の全体の意味がわからなくなる。
Experienceを「経験によって得られた英知」・・・いわば「経験知」と理解すると、この詩の意味もわかってくるわけ。

あと、最初の行のAngled Roadですが、Angled Road であって、Curved Road でもWinding Road でもないわけ。いわば「見通しの悪さ」の言う意味が強く出ているわけです。

つまり最初の行は、「経験によって、知を得ようとしても、見通しが悪くて、簡単には行かない・・・」そんな意味になるわけです。

その最初の、
Experience is the Angled Road
という文ですが、これとよく似た文で、より一般的な表現となると、
Life is the Winding Road
となります。日本語にすると「人生は曲がりくねった道。」
このような文だったら、誰でも書ける。

Experience is the Angled Road
という文は、Experience  つまり経験知を得たものだけが書ける文。
天才と凡人の差なんて、見た目にはそれほど差はないわけ。
その小さな差が、実は、とんでもなく大きい・・・そんなものなんですね。

まあ、この私が1万字程度を使って書いた文章が、ディキンソンによって、たった8行で書かれてしまっていて・・・「やっぱり天才はスゴイ!」としか言いようがありませんよ。
しかし、ここまで凝縮しちゃうと、言っていることを理解できる人が、本当に少数になってしまう。
このあたりが文章に限らず、表現というものが持つ難しいところ。

このメールマガジンは詩の解説のメールマガジンではありませんので、細かな解説はいたしませんが、私が書いた「不幸への憧れ」を、見いだしている人間が、意外にもアチコチにいたりする・・・そのことをわかっていただければ、それでOKです。

ちなみに、上記のディキンソンの詩には、ハイフォン(−)が多く出てきます。これはディキンソンの詩の特徴のようです。
いわば、間を作り上げ、その間の中に、喪失感なり憧憬なり英知を込めていく・・・そんなスタイルなんですね。

言っていることはこの私と同じでも、文章のスタイルは全然違っています。私の文章は疑問型を多用して、切迫感を作って行くスタイルなのに対して、ディキンソンは、もっと落ち着いて、ジワリジワリと言ったスタイル。だからディキンソンの詩は、ある種のセレモニアルな趣があったりします。喪失感とセレモニアル・・・が合わさると、「お葬式」。
ということで、ディキンソンにはお葬式にまつわる作品も多くあったりします。

前にも書きましたが、ディキンソンは喪失の詩人とされています。
しかし、彼女は、喪失感を単純に詠ったわけではない。ディキンソンが詠う喪失には、単に何かを失うというだけでなく、充足のニュアンスがある。充足とはすべての望みがかなう地点であり、それは望みの喪失とも言える。
結局は、完全な充足と、完全な喪失とはイコールなんですね。
そして、その完全な喪失は、死の時であることは、誰でもわかること。
彼女は、死がもたらす、完全な喪失と、完全な充足の合一に執りつかれていたのでは?
そして、それをセレモニアルな形にして、永遠に残そうとしたのでは?

さて、このようにセレモニアルなスタイルで、「間」をたっぷりとって、その中に喪失感や憧憬を満たしていく・・・そんな趣がある他の芸術作品となると、全然別のジャンルですが、「ペレアスとメリザンド」というオペラがあります。

もともとはベルギーのモーリス・メーテルリンクの戯曲に、フランスの作曲家のクロード・ドビュッシーが音楽をつけたオペラ。20世紀オペラの嚆矢となった重要な作品です。
この「ペレアスとメリザンド」も、なんともまあ、ゆっくりと、おだやかに喪失感や憧憬が漂ってくる。

まあ、万人向けとはチョット言いがたいオペラ。数多くのオペラの中でも一番繊細なオペラと言えるでしょうね。ディキンソンがハイフォンに重要な意味を込めたように、オペラ「ペレアスとメリザンド」は場面転換の音楽に味わいがある・・・そんなオペラ。

ちなみに、その戯曲の作者のモーリス・メーテルリンクは、チルチルとミチルの幸福の青い鳥の話の作者として、皆さんも名前は聞いたことがあるでしょ?
幸福の青い鳥を探して、方々を旅したけれど見つからない。しかし、その青い鳥は自分の身近にいた・・・そんな話でしたよね?

さて、その「ペレアスとメリザンド」の中の登場人物の一人である老王のアルケルは、このように言います。
「人は運命の裏側しか見えないもの。」
(・・・nous ne voyons jamais que l’envers des destinees ・・・)

いやぁ・・・タマラナイなぁ・・・
悶絶しちゃうよ。
どうやったら、こんなすごいセリフを、さらっと書いちゃうんだろう?

そう!人は運命の裏側しか見えないもの。全くそのとおり!
幸福の青い鳥を探して旅をし、最後には、自分の身近に見つけるチルチルとミチルだって、まさに「運命の裏側しか見えない」我々人間の姿そのものですよね?

さて、メーテルリンクの、「人は運命の裏側しか見えないもの」という言葉と、ディキンソンの「Experience is the Angled Road」って、なんともまあ、同じことを言っているでしょ?

ディキンソンは生前は全く無名でしたので、メーテルリンクがその名前や作品を知っていたわけがありませんが、結局は「見える人は、見える」というわけです。
あるいは、よく言う言い方をすると、「天才の作品は、天才しかわからない。」というパターン。運命の表側から見ることができる人だけが見える「運命の綾」があるわけ。

運命の裏側からしか見えない人たちは、色々と試行錯誤する。
錯綜して、混乱して・・・そして「どうしてこんなことに?!」と自分たちは思ってしまうけど、運命の「表側」から見てみると、「今現在の境遇」を獲得するために、実に的確に選択したことがわかるもの。

もし、その人の現在が不幸な境遇なら、折々の選択の場において、現在の「不幸を獲得」するように的確に選択していたものなんですね。
運命の表側から見る・・・なんてことは、簡単ではありませんが、ふと立ち止まって自問自答するくらいなら誰にだってできるでしょ?

Experience・・・経験知って、ただ闇雲に試行錯誤することではなくて、ちょっと立ち止まって、視点を変えることで得られたりするもの。
チルチルとミチルだってそうだったじゃないですか?

現在の状況がダメダメだったら、その原因って、結局は自分の身近なところにあるわけ。しかし、人は、往々にして、自分から遠いところに原因を求め、それを犯人認定し、対抗心を膨らませ、ますますダメダメになってしまう。
そうして、予定していた苦しみを味わい、自分が求めていた嘆きの声を上げるわけ。


ちなみに、詩人のエミリー・ディキンソンについては、本なり各種サイトで紹介されているでしょうから、ここで素人の私が、彼女の略歴や特徴を書いたりはいたしません。
しかし、オペラ「ペレアスとメリザント」の最後のセリフ・・・またもや老王アルケルによる・・・が、彼女について実に的確に語っていると言えるでしょう。

前にも書きましたが、メーテルリンクはディキンソンの顔も名前も作品も知らなかったでしょうし、その戯曲によってディキンソンについて語りたいとは思っていなかったでしょうが、戯曲の主人公であるメリザンドについての言葉が、結果として、ディキンソンという人物の的確な解説にもなってしまったわけ。

それは、この言葉。

「あれは実に静かで、慎み深い、
ひっそりとした存在だった。
まるで、この世のように不可思議で、不憫な存在だった・・・」

(終了)
***************************************************
発信後記

今回使ったディキンソンの詩の原文は、
『 faber and faber 社刊行の、
EMILY DICKINSON The Comlete Poems 』
を元にしております。

さて、今回の文章を書くために、ディキンソンの詩の原文を入手するにあたって、某区立のM図書館のスタッフの方々にお世話になりました。
ここで感謝の意を表したいと思います。

アメリカの詩の原文を入手するのは結構ホネが折れました。
図書館のスタッフの方に相談しながら、色々なディキンソン関連の本を取り寄せて、「これにも入っていない。ここにもない・・・」などと、試行錯誤していたわけ。
結局は、全作品集(と言っても本1冊ですが・・)を取り寄せないとダメだとわかりました。
と言っても、洋書ですしねぇ・・・

その図書館のスタッフの方は、「こんな本は日比谷の都立図書館に行かないとないかも・・・」
と言っておられました。まあ、東京の区立の図書館はお互いにネットワークを組んでいるので、足りない本は相互に貸し借りができたりします。ということで、その図書館に取り寄せを依頼しておきました。

数日後、その図書館より、本が入ったとのメールがありました。「へぇ・・・あったんだねぇ・・・」と思って受け取りに行って、「一体、どこが、こんな珍しい本を収蔵していたんだろう?」と思って、本の裏側を見ると、その本には、なんと、その某区の別の区立図書館所蔵のラヴェル。「あれっ?ここの区内にあったんですかぁ?」とビックリ。
図書館の人も苦笑いでした。

まあ、求める本を探すのはAngled Roadというわけ。
エミリー!全くもって、アナタの言うとおりですよ!

そして、探しているものは、実に身近にあったわけ。
モーリス!全くもって、アナタの言うとおりですよ!
上記の本が 今回参考にした『 faber and faber 社刊行の、EMILY DICKINSON The Comlete Poems 』、です。
R.10/10/16