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カテゴリー 文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 06年5月29日
タイトル 「谷間のゆり」(不幸への憧れ 編)
作者 オノレ・ド・バルザック
04年に「不幸への憧れ」というお題で、実に、長い文章を書きました。
その文章において、メールマガジンの最終回として予定している小説の主人公が、実にその典型だと書いております。
実は、その際には、このバルザックの小説「谷間のゆり」のアンリエットを想定していたわけです。
その「谷間のゆり」を最終回で取り上げることはなくなりましたが、その「谷間のゆり」でのアンリエットは、この「不幸への憧れ」に身を焦がす人間の典型的な存在と言えます。

ここでは、彼女が示す「不幸への憧れ」の具体的な事例をピックアップし、考えてみましょう。

1. てきとうな結婚・・・ここでのアンリエットはモルソーフ伯爵と結婚するわけですが、それがいかにもダメダメ家庭出身の人間らしく、「て・き・と・う」。
結婚する前に「この人とは長く一緒にやっていけるかしら?」とか、
「楽しい会話ができる人かしら?」とか、
「子供の父親としてはどうかしら?」とか、
「自分と性格は合った人だろうか?」とか、
「将来性はどうかしら?」
そんなことを、微塵も考えないで、本当に「て・き・と・う」に結婚してしまうわけ。

周囲の人はむしろ「あんな人と結婚して大丈夫かしら?」って心配していたくらいなんですからね。そうしておいて、後になって「あの人は、ワタシのことを全然わかってくれない!」と、グチるばかり。アンリエットは決してバカではありません。むしろソツなく物事をこなせる人と言えるくらい。しかし、「自分が幸福になるかどうか?」という問題に関しては実にいい加減なんですね。結局は、心の底では自分が不幸になることを望んでいるわけ。
まあ、この点は、19世紀のフランスでも、21世紀の日本でもまったく同じでしょ?

2. てきとうな子作り・・・アンリエットは言います。「私が子供の母親になるなんて考えてもみなかった!」。そりゃそうでしょ?ダメダメな母親に育てられたのですからね。母親という存在を考えた時点で、思考停止になってしまうわけ。しかし、母親になることを考えてもみないからこそ、母親になってしまうもの。「自分は母親としての資格があるのだろうか?」ということについて少しは自問自答してもいいんじゃないの?それに「つれあい」が、父親としての資格や能力があるかどうか?そんなことも考える必要があるでしょ?

そんな考えもなしに子供を作ってしまって「夫は子育てに非協力的だ!」とグチるなんて、それこそバカですよ。自分に母親としての能力・・・特に精神的な面・・・が欠如しているのに「て・き・と・う」に子作りをしてしまって、自分自身のストレスを子供に伝えてしまい、「ああ、ワタシの子供はどうしてこんなに弱いの?!」なんてグチったりする・・・ほとんどダメダメのお約束状態。

3. 改善への努力をしない・・・ブチブチとグチばかり言っている人間に限って、事態を改善する努力を何もしないもの。むしろ「自分の苦労」をわかってくれる人間を見つけ出し、グチを語ることに努力することになる。ここでは、自分と同じダメダメ家庭出身のフェリックスが登場してくれたので、このアンリエットは、フェリックスに対して「心行くまで」グチを言うわけ。人からアドヴァイスを受けても、「せっかくのあなたのお言葉ですけど・・・」と否定してしまう。そうして不幸に安住してしまう

4. 幸福のイメージがない・・・このアンリエットは具体的に、どんな状態だったら「自分は幸福だ!」と思うんでしょうか?現在の不幸な状況をグチるのはいいとして、「では、具体的にはどんな状態にしたいの?」そのイメージがないと、努力のしようがないでしょ?

5. お金に無頓着・・・お金のことばかり言っているのは心が貧しい。しかし、自分が幸福になるにも、家族に楽しみを与えるにも、子供に豊かな将来を与えるにも、相応のお金は必要でしょ?ここでのアンリエットはお金には実に無頓着です。それは美質といえば美質なんでしょうが、「お金を使って自分で何かしたい!」と自分自身で考えていないからなんですね。

その気になればお金が得られるのに何もせず、何かあると「ウチはお金がないからできない!」なんて言い訳する・・・そんな例は、ダメダメ人間にはポピュラーでしょ?アンリエットは貴族なので、そこまでお金に執着する必要はありませんが、「自分で何かをしたい!」と思っていないからこその、お金に無頓着であるわけ。これは決して美質とは言えないでしょ?

6. 被害者認定を求める・・・アンリエットは「自分はかわいそうな被害者だ!」と思い込んでいる。そしてそれを認めてほしいと熱望している。それこそ「さあ!もっとそうしてわたしの痛手を慰めて!」と言ったり、「もう一度、あなたがこうつぶやくのを聞きたいんです!『お気の毒な!お気の毒な!』」と、そんな調子。自分がかわいそうな被害者だと思っているので、他者に対しては本当の意味では配慮がないわけ。フェリックスの幸福を考えているという言葉だけは立派ですが、安全圏から遠巻きにアドヴァイスを送るだけ

7. 犠牲を強調する・・・「あなたのために抜けた髪よ!」なんて言って抜けた髪を渡したり、「わたしがあの子達のためにどんなに苦しんだか!」と、彼女が語ることは自分の犠牲だけ。逆に言うと、自分の犠牲を語ることが好きな人間は、自分が犠牲となるシチュエーションを自ら進んで作り出して行くわけ。そうして、自分が望んで得られた犠牲なり不幸を喜んで語るわけです。

8. 不幸自慢・・・アンリエットも、フェリックスも語ることと言えば、自分の不幸だけ。そして、「どっちがより不幸なのか?」と競争するようになる。それこそ「ボクはあなた以上に苦しんでいるのです!」なんて言葉になってしまうわけ。そもそもフェリックスの長い書簡だって、不幸自慢の典型ですしね。

しかし、このような自分の不幸をアンリエットは愛しているわけ。
だからこそ、
「その苦しさは、彼女の表現を借りると、彼女の好きな苦しさなのでした。」となるわけです。
まあ、そんな感情を、「文学研究者」ごときがわかるわけがありませんよ。
しかし、作者であるバルザックは、その面をちゃんと書いているわけです。

ダメダメ家庭の人間は、自分の不幸を愛している。そしてその「愛する不幸」を獲得するために、実に的確に行動するわけ。そして自分が獲得した不幸を、「理解してくれる」人に存分に語ることになる。
しかし、自分が幸福になるための努力なんて、これっぽちもやらないんですよねぇ・・・

そんな光景は、現実にもポピュラーでしょ?それこそ、結婚した後で、「同居しているお義父さん、お義母さんがイヤミな人で困った!」なんてグチっている女性もいますが、その義父や義母のイヤミさなんて、結婚前からそんな調子でしょ?だったら、そんな「こぶつき」の男性と結婚しなきゃいいじゃないの?どうしてもその男性と結婚したいのなら、せめて同居はしないように考えるとか・・・

そんな当然のこともしないで、「て・き・と・う」に結婚して、義父義母と同居をして「同居しているお義父さん、お義母さんがイヤミな人で困った!」なんて言われてもねぇ・・・
そしてそんなストレスが誰に向かうの?そんなこと火を見るより明らかでしょ?そうなると、そんな女性は、「ああ、子供がいつも困ったことをして・・・ワタシって、何てかわいそうなの?!」と、周囲に語ることになるわけ。

私は何もギャグを書いているわけではありませんよ。実にポピュラーな事例でしょ?そんな嘆きを語るヒマがあるのなら、事態改善のために努力すればいいじゃないの?しかし、そのような不幸は、実は、自分が求めて得られた不幸なので、事態を改善しようとはしないわけ。

むしろ「自分が獲得した不幸」を語るために、さらに努力することになる。相談という名目で自分の不幸を語ったり、自分の不幸を文章にまとめたり・・・
この「谷間のゆり」でのアンリエットも、フェリックスもそのような「不幸を語る」ことが好きな人間と言えます。そもそもこの小説自体そのようなスタイルで出来ているわけですからね。だから書簡体になっているわけ。

読み手は、その「不幸自慢」の書簡を読みながら、その不幸に同情するだけでなく、どこかで距離を置く必要があるわけです。
そして登場人物の主観の羅列から、客観を浮かび上がらせる必要があるわけ。
バルザックの意図は、そんなところにあるわけです。

最後に載っているナタリーからの返事は、そのあたりを強調するためのものなんでしょうね。「やりきれないわねぇ・・・あなたからのこの手紙!」そんなことが書いてありますからね。
しかし、これは当然のこと。「不幸」を自慢されてどうすればいいの?

不幸への憧れを持っていると、自分が幸福になるためには全然頭を使わないのに、自分の不幸を語るためには自分の持てる頭脳を最大限まで発揮する。その不幸話を聞かされた側はその見事な語り口に乗せられてしまう。
しかし、ヘタに同情すると、自分の不幸を語った方は、「自分の不幸」に自信を持ってしまい、ますます不幸に突進してしまう。

ここでのアンリエットのまさにそのパターン。
不幸な身の上話を聞かされて、「なんてお気の毒な!」などと同情するより、本来なら、こう言った方がいいんですね。
「アンリエットさん!・・・で、アナタ!結局はどうしたいの?」
冷たいようですが、それがアンリエットのため。

しかし、不幸への憧れを持っている人は、そんなことを言い出すような人は遠ざけ、自分に同情してくれる人だけを相手にするわけ。そうやってどんどんと「自分が望む」不幸を獲得していく。

そして「心もうれしく苦しむ」ことになるわけ。
以前にも書きましたが、不幸の実感は幸福の実感よりもはるかに大きいもの。
彼女だってこう言っています。
「悲しみには果てがありませんわ。喜びには限りがありますけど・・・」
不幸に憧れる人間は、大いなる生の実感を求め、幸福の方ではなく、より果て無き実感が得られる不幸の方を選ぶわけ。そして不幸の真っ只中で、自らの運命に絶望し、そして生の実感に歓喜する。

まさに「わたくしの生活は、ただそれ以来、ただもう耐えることのない苦痛となって、しかもその苦痛が、わたくしにはうれしかったのでした。」となる。
アンリエットは自分でちゃんと言っているんですよ。その意味がわかっていたわけではないのでしょうが。

この手の人間は、ダメダメ家庭を作る人間にはポピュラーなタイプですし、ダメダメ家庭出身者でも結構あったりします。そうやって見事なまでに自分が望む不幸を勝ち取り、語ることになるわけ。
さすがバルザックは見るところを見ている!
天才は、違うねぇ!

しかし、天才の驚異的な洞察力が一般の人間に理解されないのは、本の巻末に載っている文学研究者の「解説」のトンチンカン振りが余すところなく示している。
恋愛小説の傑作なんて・・・なんと、まあ!

しかし、世の中の多くの人は、映画などでも、何でもかんでも、「恋愛映画の傑作!」なんて「絶賛」していたりするでしょ?まあ、何とかの一つ覚えなんでしょうが、そんな映画だって、ちゃんとした人が見ると、作り手の意図が色々と見えてくるものです。

この「谷間のゆり」でのアンリエットが持つ「不幸への憧れ」は、バルザックの小説を読んだり、この私のメールマガジンの文章を読んだだけではピンと来ないでしょう。
実際の人間を真摯に見つめて、幸か不幸かそんな「不幸への憧れ」に執り付かれている人を身近に見ることによって、実感が得られるものだと思います。そんな人たちを理解するには、こんな「不幸を積極的に求めていく人が居る」という発想を取り入れるしかないんですね。

あるいは、その「不幸への憧れ」をまとめた際に触れましたが、スペインのバロック期のとある戯曲のセリフで言うと、「嘆きを並べるのはまことに心楽しいものだから、人は求めて嘆けとか・・・」も該当します。
この「谷間のゆり」でのアンリエットも、まさに「求めて嘆いて」いるでしょ?フランスだろうが、スペインだろうが、レヴェルの高い芸術家はちゃんと見ているわけ。

バルザックも、そんな人を実際に見たんでしょうね。というか、そんな人に育てられたのかな?

(終了)
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発信後記

04年の「不幸への憧れ」の文章を配信した時は、逆上メールをいただきました。
頻繁に書いていますが、逆上メールって結構ありがたいもの。
私としては、そもそも毒にも薬にもならない文章なんて書いても仕方がないと思っています。毒にもなれば薬にもなる・・・力がある文章ってそんなもの。だから反応が大きければ大きいほど、発信者としては、「よく出来た!」と思えるんですね。

それはともかく、購読者の方も、人からグチを聞かされて単純に同情する時もあるでしょうが、「こうならないためのチャンスはいっぱいあったのに、どうしてそのチャンスを生かさなかったの?」と、思ったこともあると思います。
どうして、あの時そのような選択をしたの?
どうして、今現在こんな選択をしているの?
当人は色々と理由を並べますが、どれも釈然としない。

そのような過去の情景を、今一度思い浮かべてくださいな。そして「不幸への憧れ」という考えを取り入れて、もう一度考えてみてください。
「不幸への憧れ」って、極端な発想だと思う方も多いでしょうが、多くの方は、そんな「憧れ」に執りつかれている人と実際に会っている・・・
と、思うんですが。
R.10/12/1