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「不幸への憧れ」トピックス リーダース・チョイスのトップに戻る
カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 04年11月5日  (10年12月19日 記述を追加)
タイトル 不幸への憧れ
幸福ではない家庭、つまり「ダメダメ家庭」を作る原因として、当事者たるその親が「不幸への憧れ」を持っているからだ。
私は以前から、そんなことを言ったりします。
幸福になりたいのではなく、「不幸になりたい。」と思っている。だから、不幸な家庭であるダメダメ家庭を作るのだ。

まあ、こんな感じで言ったりすると、マトモ家庭の人は、取り合おうとはしませんね。
「オマエは、何をアホなこと言っているんだ?!」
これは当然の反応でしょう。
「人間は誰しも『自分自身が幸福になりたい。』と思っているものだ!」
そのように考えていることは当然でしょう。実際にマトモ家庭ではそうなんでしょうね。

逆に、激昂するタイプの人もいます。
激昂する人は、ダメダメ家庭出身者で、自分自身もダメダメな親となり、まさにダメダメ家庭を作っている人です。
この手の人は確実に激昂します。
自分自身が作り上げた家庭がうまく行かないのは、「アンタが、内心で、そう望んでいるからだ!」と人から言われれば、まあ、怒りたくもなるでしょうね。

しかし、また別の反応をされる方もあります。
「世の中には不幸への憧れを持つ人がいて、そのような人は、自分が不幸になるために、わざわざダメダメ家庭を作ってしまうのだ。」
そのような話に、ちょっと間をおいて、『うーん、そうかもしれないわね。そうとも言えるかも?ワタシの親がそうなのかも?ワタシ自身もそんなところがあるのかも?』
と、考えたりするような人もいます。

このような反応をする人は、ダメダメ家庭出身の人でありながら、今現在において、その人自身が作っている家庭はある程度は改善している人です。
それだけ、自分自身を見つめることができているわけ。

何もこれは日本だけの話ではありません。
「不幸への憧れ」というものは、世界的に見てもダメダメ家庭の人間にありがちな発想なんですね。
以前にちょっと引用したことがありますが、17世紀のスペインの戯曲である「人生は夢」という作品においてこのようなセリフがあります。
「嘆きを並べるのは誠に心楽しいものだから、人は求めても嘆けとか・・・」

「嘆きを並べる」と言うと、文学的表現と言えますが、このメールマガジンでよく使う表現にしますと、「グチを並べる」と言うことになります。
「グチを並べる。」のは、楽しい・・・
マトモな人間には理解できない世界でしょうが、親のグチを常に聞きながら成長してきた人間には、「そう思わないと理解できない」類の人間がいることは、納得できるのでは?

だから「辛い境遇をグチる。」のではなく、「グチを並べるために、辛い境遇を求めていく。」そんな行動もあるわけです。
ダメダメ家庭の心理では、そんなことがあったりするわけ。

例えば上記の「人生は夢」という戯曲は、ポーランド王室を舞台とした作品です。シチュエーション的には、21世紀の日本とはまったく違っていますが、発想や言動だけを見ると、現在の日本に通じるダメダメ家庭の発想が顕著にあったりするんですね。

例えば、その「嘆きを並べるのは誠に心楽しいものだから、人は求めても嘆けとか・・・」というセリフを言った女性は、母子家庭の出身の貴族です。母親が結婚前に男性と関係を持って妊娠し、男から捨てられちゃったわけ。それで母子家庭になってしまったわけです。まあ、それはそれでいいとして・・・
実は、そのセリフを語った女性も、結婚前に男性と関係を持って、その男性が自分の前からいなくなったので、その男性を追っかけてきたというわけです。
王室という、本来は古風で堅苦しいはずのところを舞台とした話にしては、現代的ですよね?
その母娘は、シングルマザーの辛い境遇を、内心では求めて、実現させて・・・嘆くわけ。

ダメダメ家庭では嘆きが実に頻繁。嘆きを聞かされる子供や周囲の人間にしてみれば、「この人は何故に嘆くの?」と、どうしても考えずにはいられない。
そして、嘆きの言葉そのものに疑問を持つことになる。

「あ〜あ、お父さんの給料が少なくて困ってしまうわ!!」・・・『えっ?そんなことは、結婚前から分かっていたことじゃないの?』

ウチの亭主は、いつも私に暴力を振るうのよ!」・・・『えっ?あの暴力オトコと結局は結婚しちゃったの?そもそも、どうして結婚したの?』

お父さんは、本当に家事に非協力的!」・・・『って、アンタは、そんなこと予想できなかったの?バッカじゃないの?』

「あの人、頼りないったらありゃしない!」・・・『あの人は生まれてこの方、ずっと頼りない人だよ!今更になって何を言っているの?』

「あの人、ホントにデリカシーがないんだから。」・・・『じゃあ、結婚前はデリカシーがあったとでも言うの?』

「ウチの子はいつまで経っても甘えん坊で困っちゃう!」・・・『アンタの育て方では、子供の自立の意欲や能力が育たないことくらいは当たり前でしょ?』

「今の仕事は、全然楽しくないわ!」・・・『つーか、仕事を決める際に事前に調べたの?楽しくないのも当たり前でしょ?』

「ああ、私は子供を虐待してしまう!悪い親だわ!」・・・『アナタ自身が虐待されたのだから、覚悟もなく子供を作ると、こうなってしまうのは当たり前でしょ?』

「子育って、大変!ワタシの人生を棒に振っちゃった!」・・・『アンタが子供を好きじゃないことくらい、妊娠前から自覚できなかったの?それに、じゃあ、どうして二人目を作っちゃったの?』

と、そんな感じ。
「不幸な境遇に陥ってしまったから、我が身の不幸を嘆く。」そのような流れとは違った流れによる嘆きを常に見ているわけです。
むしろ「嘆きたいがために、不幸な状況にしてしまう。」
そう考えないと、そのような嘆きは理解できないんですね。

それとも、結婚前に自分を殴っていた男性と結婚したら、結婚後も自分を殴ったりするのは、全くの偶然なの?サルやイヌだって、そんなこと予想できることですよね?
むしろ内心では予想しているわけ。だからこそ、そんな男性と結婚し、殴られる。そして「誠に心楽しいこと」である「嘆きを並べる」わけ。
「もうっ!なんてヒドイ夫なの?!ああ、可哀想なワタシ!」

一人目の子供の育児で困っていたら、二人目の子供ができれば育児の困難は劇的に解決するものなの?違うでしょ?ますます困るだけでしょ?そうやって嘆きの頻度もますます上がって来ることになる。
「もうっ!子育てって、イヤ!私の人生を返してよ!」

嘆きを並べるのは、実際に心楽しいものなんですね。いや、不幸という状態は心楽しい時間とも言える。
だって、では、幸福って、そんなに心楽しいものなの?というか、楽しいと実感できるの?

人が幸福の時に、「ああ、私は今、幸福だわ・・・楽しいわ!」と、楽しく思ったりするでしょうか?
たまにはあります。しかし、長続きしないでしょ?
ちょっとお風呂に入った時、ちょっとおいしいものを食べた時・・・そんなちょっとした幸福の時って確かにあります。しかし、それって長続きはしませんよね?スグにそんなこと考えなくなるでしょ?「私は今、幸福の真っ最中だ!」なんてね。

だって、幸福とは「考えずに済む」状態なんですからね。な〜んにも考えずにいられる状態。これこそが幸福というものでしょ?
だからこそ、「今現在、自分自身は幸福だ!」という「考え」や「認識」は長続きしない。
本当に幸福だったら、「何も考えなくてもいい」わけですから。

だから、幸福と言うものは実感できないものです。むしろ記憶の中にあるものです。「ああ、あの時は幸せだったなぁ・・・」そんな感じで実感するものでしょ?
「考えなくても済む状態を、現在進行形では考えられない。」って、当たり前のことなんですね。

しかし、不幸は違う。
不幸というものは現在進行形で認識し考えることができる。
「ああ!私って、何て不幸なんだろう?!」そんな「考え」は持続して持つことができる。現在進行形で実感できるわけ。
それこそ春の暖かな太陽の下、そよ風の中にいながら幸福を実感するより、嵐吹きすさぶ中に一人で立ちすくんでいたほうが、生きている実感があるでしょ?
不幸というものは、現在進行形で得られる、強烈な「生の実感」を味わえるんですね。

不幸な時間と言うものは、そのような「生の実感」を得られる甘美な時間と言えるわけ。
ダメダメ家庭の人間は、「生の実感」が希薄。生きている実感なんて、生まれてこの方なかなか味わったことがない。だから、たとえ不幸という形でも、「生の実感」を味わえるのは甘美なことでしょ?

別のところでまとめておりますが、人は人それぞれに、認識なり考え方の枠組みを持っています。不幸を認識しやすい枠組みを持っている人は、その不幸ばかりに目を向け、その隣にある幸福には目も向けない。不幸ばかりを見つめ、その不幸を減らそうとし、あるいは、相手に不幸を与えることで報復しようとしたりする。
不幸を中心に物事を考えるわけです。しかし、だからこそ、自身の不幸が進行してしまう。
自分の不幸を減らすよりも、その隣にある幸福への可能性に対処した方がいい場合も多いわけですが、幸福の可能性は無視してしまう。

そして、そんな不幸を中心とした枠組みは、親から子へ、子から孫へと連鎖して、どんどんと濃くなってしまう。そして、そんな枠組みの人同士で、不幸の共鳴が起こり、それが不幸への憧れを持っている人間にしてみれば、何とも心地いい。
不幸の共鳴というと、別の言い方をすると、傷の舐め合い
そのようなことは現実に頻繁に起こっていること。
不幸を通じて、人と結ばれることもできるわけです。
だからこそ、ますます不幸に目を向け、その不幸から「生の実感」を得ることになる。

「不幸」というものは、「生の実感」以外にもダメダメ家庭の人間に与えてくれるものがある。
それは、「語る喜び。」

ダメダメ家庭の人間はコミュニケーション能力が低い。そのことはこのメールマガジンで何回も書いています。人の話を聞くことが不得手だし、自分の見解を相手にわかりやすく伝えることも不得手。それだけではなく、話したい内容自体もないわけ。

文学でも、美術でも、政治でも、投資でも、料理でも、スポーツでも、芸能でも・・・話したい内容そのものがないんですね。だからコミュニケーション能力が低いだけでなく、コミュニケーションの意欲も低いし、その機会も少ないわけ。

話のネタのないダメダメ家庭の人間にとって、自分自身の不幸というものは、実に語りがいのあるネタなんですね。
だから、「私にも、やっと人に話せるネタが出来た!!」と、歓喜して、自らの不幸を語ることになる。

このメールマガジンでは、以前に「不幸自慢,苦労自慢」と言うことで取り上げたこともあります。
私の夫は、こんなにダメダメ!
「私は今まで、こんなに苦労してきたのよ!」
そのような内容を懇切丁寧に話す。

本人にとっての唯一のネタなので、さすがに話も上手になる。
その話を聞いている相手側は、同情してしまうわけ。
不幸自慢のダメダメ人間は、相手から同情を勝ち取ることができた自分の不幸話に磨きを掛けるべく、さらなる不幸に突進する。
とんでもないないようなことを書いていると思われる方もいらっしゃるとは思いますが、現実に結構見られる光景です。

実際にメールマガジンの世界などで、「家庭のグチ系」って多いでしょ?だからと言って、そのメールマガジンの書き手が、自分自身の問題について考えたり、改善の方法について考えている例って、ほとんどありませんよね?常に自分の被害者意識を元に書かれていますよね?

あるいは、家庭問題のインターネットの掲示板でも、グチ系って多いですよね?確かにグチの一つも言いたいこともあるでしょう。しかし、たまには改善のために考えていくことも必要でしょ?
ある人に言われてドメスティック・ヴァイオレンス関係の掲示板を見たことがありますが、自分の夫の悪口は盛り上がっているのですが、「何故に、このような男と結婚してしまったのか?」「どうやったら現状の問題を改善できるのか?」そんなやり取りがないんですね。

パソコンを使ってインターネット掲示板に書き込むのに際し、特段の明晰な頭脳は必要ないでしょう。しかし、バカではできませんよね?それくらいのちゃんとした頭脳があるのだから、グチを書き込むだけでなく改善の方法を考えればいいのに・・・

あるいは、メールマガジンを発行するのだって、色々と手続きが必要だったりします。結構面倒でもあるわけです。そんな面倒な手続きをクリアできるくらいの判断や対処能力があるのだから、グチばっかりの文章にせず、状況の改善のための考えをまとめることくらいは、できるはずなんですね。
それなりの能力があるのに、何故にグチばかりになってしまい、事態を改善しようとしないの?

あるいは、こんな嘆きの例もあります。「オレの妻は娘たちを虐待しているんだ!困った、困った。」シリアスな嘆きですので、その夫に同情する人もいるでしょう。しかし、どうしてそのような女性と結婚したの?あるいは妻としてはともかく、母親に不適格な女性なんだから、子供を作らなければいいわけでしょ?しかし、その男性は、妻が一人目の娘を虐待しているのに、二人目,三人目の子供を作ったりするわけ。そうして嘆く「ああ、悪い女房で困った、困った。娘たちがかわいそうだ!」

そのような男性は、妻が困っていても助けないわけです。だから妻も精神的に追い詰められるわけでしょ?それに、離婚にも踏み切らない。結局は、自分の前で子供の虐待が繰り広げられるシーンを見て嘆くだけ。
「ああ、オレって、何てかわいそうなんだ?!」

結局は、この嘆きの言葉を言いたいがために結婚し、子供を作ったわけです。そう考えないと理解できないでしょ?
本気で事態を改善したいのなら、妻と話し合いを持ったり、妻の相談に乗ったり、子供を連れて離婚したりするでしょ?

結局は、実際の会話でも、インターネットの世界でも、ダメダメ家庭では「嘆きを並べている」だけで、不幸な状況を改善しようとはしないんですね。
なぜなら、「嘆きを並べる」こと、そのものが目的なんですから。

ひたすら不幸自慢の世界。
そう!不幸というものは語りがいのあることなんです。語ってうれしいことと言える。これは何もダメダメ家庭の世界だけではありません。だって、幸福を語る言葉は実に少ない。それに対し、不幸を語る言葉の何と豊富なこと!!

「私は何と不幸なことか?!」と嘆くこと。
その嘆きをしたいがために、人生の様々な局面において、「嘆きを導くのにベストの選択」をしてしまう。
ロクでもない人間と結婚し、自分にフィットしない職業に就き、子供がキライなのにも関わらず子供を作り、そして更に子供の数を増やす。
そして、ダメダメ家庭を実際に築き、嘆く。
「ああ、ワタシは何と不幸なことか!」

しかし、「幸福を求めない人間って、本当にいるの?」「すべての人間が幸福を求めるものでしょ?」
そのように疑問に思われる人の方が多いでしょう?
しかし、ダメダメ家庭を作っている当人自身が、自分自身で証言しているじゃないですか?

「私は幸福なんか求めていないわ!ただ『普通』の生活がしたいだけよ!」
そう「自分は幸福を求めていない。」って、当人自身でも言っているでしょ?
普通の生活」という言葉については、このメールマガジンの創刊期において文章を配信しています。ダメダメ家庭では「普通」という言葉がご用達となっている。

「普通」という言葉をいつも使っているのに、「じゃあ、アンタの言う『普通』って何?どういう意味なの?」と聞かれても何も答えられない。「普通って、普通のことじゃないの・・・」そんな意味不明な回答でオシマイなんですね。
だから、その本人がおっしゃる「普通の生活」を実現のための具体的な努力なり行動について、周囲の誰かから尋ねられると何も答えられない。

本人にしてみれば、「幸福」という高望みをしていなくて、ただ「普通」を望んでいるだけという意識なんですね。
「高望みをしていないから、自分では何も努力しなくてもいい。」そんな理屈であるわけ。
しかし、何も考えないから、ロクでもない結婚をすることになる。
だって、付き合っている当時から自分を殴っているような男性と結婚したら、「結婚後はどうなるか?」なんて、ちょっとでも「考えれば」予想できることでしょ?

あるいは会話ができない人間と結婚したら、「その後はどうなるか?」なんてことを考えるのに明晰な頭脳が必要なことなの?
給料が安い男性と結婚したら、結婚後も当然のこととして経済的に豊かとは行きませんよね?そんなことは子供でもわかることですよね?

人間って、そこまでバカではないわけ。自分なりに考えれば、予想は大きく外れることなどありません。むしろ「不幸に憧れる」人は、誰にでも予想される結果を見ないようにするんですね。自分が不幸になるために障害になることは、見ない。

「ふつう」を大義名分にして、何も考えない自分を、何も見ようとしない自分を肯定して行き、どんどん不幸に突進してしまう。
自分を殴っている男性と結婚し、結婚後も殴られ、そんな状況を改善しようとはしない。
挙句の果てには、子供を作ったりするわけ。
そして、「子供がいるから離婚できない。」と理由をつけて離婚もせず、やっぱり殴られる。
そして子供相手に嘆くわけ。
「ああ、私って、何て不幸なの?!」

しかし、その嘆きを聞かされる子供としては、「そんなダメな男と結婚して、スグに離婚もせず、子供まで作っちゃって・・・、そもそも、アンタは状況を改善する意欲が本当にあるの?」って思うに決まっているでしょ?
そんなこと子供でもわかるんですね。大の大人がわからないの?

子供がいるから離婚できない。」と言いつつ、じゃあ、子供の前では仲良し夫婦なの?違うでしょ?子供の前で繰り広げられる夫婦の状態は修羅場そのものでしょ?それがどうして子供のためなの?そんなこと大人がわからないの?

大人がわからないわけがない。結局は、当人が改善への障害と指摘する事項も、理由のための理由に過ぎないわけです。当人自身はこの不幸な状況を改善する意欲がないわけ。まさに「嘆きを並べるために、そのような状況を、自らが求めている。」わけです。

信じがたい人も多いでしょう。ダメダメ家庭とは無縁の人は、別に理解できなくてもいいわけです。
しかし、ダメダメ家庭の当事者や関係者は、絶対に頭の中に入れておく必要がある考え方なんですね。
ダメダメ家庭は、「求めて得られた」ものだ、と言うことを。

求めて得られたダメダメ家庭なので、そのダメダメ振りは加速度がついてしまう。もっともっと嘆くことが出来るように、もっともっと不幸な状況を作っていく。
多くの事例は、これほど極端ではありません。悪い方向に進むように積極的に行動するというより、改善の努力は何もしないというパターンです。改善の努力をしない理由を見つけようとするんですね。

子供がいるから・・・何も出来ない。
親に迷惑を掛けたくないから・・・何も出来ない。
自分に経済力がないから・・・何も出来ない。
あるいは、よくあるセリフと言える・・・あの人、私がいないとダメになっちゃうの!
そのような理由を見つけることだけに頭が働いてしまうわけ。
そのような理由を人に説明し、そして嘆く。

マトモ家庭の人は、そのような理由を聞かされ、嘆きを聞かされると単純に同情してしまう。そうなると、改善への努力の方向性が間違ってくるんですね。
だって、本人は嘆きを並べるのが目的なんですから・・・
相手方から同情を受けたら、ますます自分の不幸話に自信を持ってしまうだけ。

その手の人に不幸話を聞かされたら、試しに聞いてみてご覧なさいな。
「どうして、そんなことになってしまったの?」
「アナタは、自分でどうしたいの?」
「私にどうしてほしいの?」
「じゃあ、さっさと離婚すればいいじゃないの!」
「あなたは自分で親失格と自覚しているんだから、子供を養子に出せばいいじゃないの?子供もアナタもそれでハッピーじゃん!!」
このような問い掛けやアドヴァイスに対しては、明確には答えられないんですね。
だって、その手の不幸話をする人は、不幸話を語ることそのものが目的で、不幸な状況の改善が目的ではないからです。

「アナタはどうして、解決することについて考えないの?こうすればいいじゃないの?」とヘタに問題点を指摘したりすると、わけの分からない理由をつけて、逆上されるだけなんですね。グチっぽい人ほどそんな逆上するものです。
こうなってしまった原因や、改善のための方策を考えるのを拒否して、ひたすら嘆くだけ。
なぜなら、グチそのものを楽しんでいるので、その楽しみを取り上げられたくはないわけです。

だから、その時点でのトラブルがたまたま多少改善されても、別の不幸を求めてしまう。
社会に存在するサポートシステムがまともに働かないのは、根本理解が間違っているからです。ドメスティック・ヴァイオレンスの権威者の処方がトンチンカンなのも致し方がない。

不幸が好きな当人自身はそれでいいでしょう。切望していた不幸を得て、嘆きを並べられたわけですからね。趣味は人それぞれですよ。
しかし、親の「不幸への憧れ」に付き合わされる子供にとっては、堪ったものではありませんよね?だって、子供が不幸になれば、親の不幸度は進行し、ますます嘆きを並べることができるでしょ?その手の親は、自分の不幸を増進させるために、子供の不幸まで進行させようとするわけです。

それこそ子供の進学や結婚においても、とんでもないような選択をしたりするわけ。
「なぜ、こんな人との結婚を許したの?」「どうして子供をこんな道に進ませたの?」と周囲から言われるような相手と結婚させたり、就職させて、子供をメチャクチャにしてしまう。
そして嘆く。
「あ〜あ、ウチは家族そろって不幸だ!」

また子供が意を決して、ダメダメな現状から離脱しようとする場合には、妨害したりすることになる。進学を妨害したり、ちゃんとした会社への就職を妨害したり、マトモな人間との結婚を認めないように行動する。本人は実際に「子供のため」と言葉の上では思っている。
そして子供にアドヴァイスする「アンタにはこっちの方がお似合いだよ!」。

しかし、このような場合には「不幸話」に毒されていない子供の判断の方が、幸福につながるものなんですね。しかし、不幸になりたい親の側は、子供の幸福への道を妨害する。「オマエのために人生を棒に振った。」「一体、誰のためにこんなに苦労したと思っているんだ?!」「オマエのことは、親であるワタシが一番よく分かっているんだ!」
そんな決めセリフを使って・・・
そうして、結果的には、望んだとおりの家族そろっての不幸になるわけ。

こうなると、わけわからないような新興宗教にのめりこんだりして・・・
ますます不幸から抜け出られなくなってしまう

多くの人が、私がここで書いた「不幸への憧れ」という考えが理解できないでしょう。
しかし、ダメダメ家庭の改善は、当事者が自分自身を見つめ、自分自身との会話から出発しないことには絶対に不可能です。
そしてダメダメ家庭出身者でも、自分自身を見つめることができる人は、この「不幸への憧れ」という考えには否定的反応をしないものです。どんな重症のダメダメ家庭の人も、自分自身に自覚があれば、少しずつでも改善は可能なんですね。

逆に激昂するような人は、常に自分自身から目をそらしているわけです。「悪いのは社会だ!」「悪いのは自分の親だ!」「悪いのは時代だ!」「夫がダメなのよ!!」「私は普通の生活がしたいだけ!!」
「私は何も悪くないのよ!!!」
しかし、そこには自分自身の問題が何もないでしょ?星の数ほどいる男性から、わざわざそんなハズレを選んで結婚したのは誰だったの?
いくら現状がダメダメだって、本来は様々な改善策を取ることができるじゃないの?どうして取らないの?

自分自身から目をそらしている人間がマトモに子育てできるわけもなく・・・
ダメダメ家庭のダメダメ振りがますます進行し、嘆きがますます活発になっているのは・・・必然なんですね。

実に厳しいことを書いていますが・・・
「不幸への憧れ」は、無意識的なものです。間違った選択を意識して行うことで不幸になると言うより、意識すれば間違わずに済むのに、その選択の場を避けたり考えないことによって、不幸に突進する、そんなものなんですね。
無意識のものなので、自覚しにくい。また周囲も認識しにくい。

しかし、状況を改善するためには、意識すること、自覚することが第一歩。
「不幸な状況を改善したい!」と、自分自身で本当に思うこと・・・
そして、そのための手段を少しずつでも確実に実行すること。
しかし、それができる人は、実に、少ないのですが・・・

私は何も、そのような考えを押し付けるつもりはありません。
皆様が一度、自分自身を見つめて、考えて見る必要があると思うだけです。虚心坦懐に自分自身と対話をしてみることからしか、問題は改善しないんですね。

「不幸な境遇だから嘆く。」のではなく、「嘆きたいがために不幸な境遇を求める。」
私は何も家庭問題のコペルニクスたらんと思っているわけではありませんよ。

しかし、天文学において、コペルニクスの地動説が、それまでの天動説に比べて格段に優れていたのは、その記述のシンプルさでしたよね?
地球の周りを太陽が回っているという天動説だと、地球以外の惑星が時々逆に動くことが必要だったし、記述された惑星の軌道も非常に不規則なものになる。
それに対し、コペルニクスの地動説は太陽の周りを惑星が規則的に回っているだけ。記述が実にシンプルです。

真理というものは、どんな分野でもシンプルなもの。不規則や例外や偶然が多い考えは、ある時期では認められていても、結局は間違いだったと分ったりするもの。

しかし、コペルニクスの地動説は社会から中々認められなかった。
まあ、地球自身が動くということは、地球人にとって実感的に認めることは困難でしょう。
それは私にも分かりますよ。

しかし、地球自身が動く・・・自分自身が動いていることを認めれば、記述は実にシンプルになる。ダメダメ家庭の問題も、「例外」とか「たまたま」とかの言葉で自分の不幸を説明するより、記述しやすいでしょ?
「自分自身が動いた」結果と見れば実に理解しやすいわけです。ただ「自分の不幸を語りたい。」と思っている人間にとっては、「たまたま」などの言葉で語ってしまった方が、面白い話になるし、自身としても精神的にラク。
「自分自身が動いた結果」という考えは、「改善」に向かうための考えです。

自分の不幸を語りたいのなら、存分に語ればいいこと。それも当人の自由ですよ。
しかし、自分の不幸話に子供を巻き込むのは、いただけないでしょ?
しかし現実では、自分の子供を巻き込んで、更なる不幸に突進するケースが多いわけです。典型的な例は、以前ちょっと取り上げた「積み木くずし」という本の作者さんです。たしか穂積さんという俳優さん。

自分の娘の登校拒否や家庭内暴力を「積み木くずし」という本にして公表し、その挙句、娘を拒食症で死なせ、妻を自殺に追い込んだ人。
何故に娘が登校拒否になったのか?
まあ、そんな親なら当然でしょ?しかし、本を書くことで、見事に「不幸自慢」が出来たわけ。おまけに講演会などで自分の不幸をライブで自慢できる。この上なくおいしい体験なんですね。しかし、「そんな本を書くとどうなるか?」なんてことは、子供でも予想できることでしょ?

まさに内心での希望どおりに、娘が拒食症になって死んだり、妻が自殺することになり、さらに不幸が進行することになる。それをまた別の本にして、心楽しい「嘆きを並べる。」わけ。
「ああ、オレって、何て不幸なんだ?!」

この人の発想を理解するには、「不幸への憧れ」という考えを取り入れるのが一番分かりやすいでしょ?この手の人は、自分自身の不幸を実現させるために、家族を連れ立って不幸に導こうとするわけです。

これほど極端で完璧な事例ばかりではなくても、ダメダメ家庭というものは、本人が「不幸を求める」発想の結果なんですね。まさに自分が内心では望んでいるとおりに事が運んだわけ。人間というものは、そんなにバカではないわけです。大体においては自分が望んだ状態を実現させているものなんです。結果の方が、上辺だけの言葉よりも、その人の本当の望みを語っているものなんです。

(終了)
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発信後記

長い文章をお読みいただきありがとうございました。
実は、このメールマガジンの最終回は「作品の中で描かれたダメダメ家庭」というカテゴリーにおいて、とある小説を取り上げることを予定しております。
その主人公が典型的に、「不幸への憧れ」を持っているんですね。

メールマガジンの最終回といっても、ほぼ書きあがっている文章だけでも、50本くらいありますので、最終回はあと半年以上先の話ですが・・・
ご興味がありましたら、それまでよろしくお願いいたします。
R.10/12/19