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カテゴリー 「約束の地」に関して
配信日 07年8月24日 (10年9月25日 記述を追加)
タイトル 約束の地
追記 購読者さんからの補足文章があります。(10年10月20日)
先日、山口県で高校生が祖父を殺害した事件がありました。
まあ、あの手の事件は、いまさらなので、このメールマガジンにおいて喜んで取り上げるようなことはしたくはありません。それに、ありふれた事件なので、私としては報道されても無視していました。
ただ、私が関心を持ち始めたのは、その犯人の高校生が、東京の秋葉原で逮捕されたからです。

山口県で事件を起こしたのに、どうして秋葉原?
警察からの逃亡だったら、それこそ国外の方がマシ。
潜伏するのだって、東京だったら、新宿あたりの方がいいのでは?
どうして秋葉原なんだろう?

しかし、ダメダメ家庭の周囲では、なぜか秋葉原にこだわりを持つ人が多い。
何もパソコン愛好家とか、電気製品が好きとかの問題ではありません。それだったら、大阪の日本橋でもいいわけでしょ?山口県だったら、東京より大阪の方が近いでしょ?
「大阪の日本橋より秋葉原の方が、価格が安いのでは?」って言っても・・・交通費だってバカにならないし・・・どうして秋葉原なの?

たぶん、電気街云々ではなく、秋葉原が持つ、オタクと言うかサブカルチャーの聖地のような雰囲気(・・・とされるようです・・・)に憧れを持っている・・・んだろうと思います。
単純な憧れではなく、常に意識し必要とする存在なんでしょうね。

山口県のご近所の鳥取でも、以前に、「東京タワー,霞ヶ関,秋葉原」を爆破するという予告をして逮捕された鳥取大学生がいました。
その事件を考えた際に触れましたが、「東京タワー,霞ヶ関,秋葉原」の3箇所のセットは異常でしょ?どうせ爆破するんだったら、皇居とか国会議事堂とか新宿駅とか東京都庁とかお台場の放送局とか・・・東京にも、もっとそれらしいものがありますよ。

しかし、東京タワーも霞ヶ関も、いわば「上から命令を下す存在」の象徴と捉えると理解できるようになる。つまり、それらは、父親という存在のメタファーなんですね。犯人の鳥取大学生は、父親を殺害したいと、深層心理的には思っていたわけ。
父親の代替としての霞が関という構図は、今回の文章で取り上げております山口県の祖父殺害事件の後で起こった、厚生労働省事務次官OB殺害事件でも、同じようにみえてくるでしょ?
そんな人の心の中では、自分の身近に存在する問答無用の権威者に対する対抗軸として、秋葉原という存在があるわけ。

自分自身が陥っている抑圧的な状況を一気に解放し、救済する、いわば「約束の地」として、秋葉原という場所が捉えられているわけです。
普段からの抑圧的な状況がなければ、秋葉原なんて、単なる電気街ですよ。あるいはオタクグッズがいっぱい売っている街というだけ。いわばプラグマティックな意味でコンビニエントな存在。しかし、山口県の高校生も鳥取の大学生も、買い物がしやすいというプラグマティックな感覚で秋葉原を見ていたわけではないでしょ?もっと精神的な意味での救済の場所として、秋葉原を捉えていたのでは?

逆に言うと、それだけ、問答無用の存在に対する反発があったわけ。それだけ抑圧状況だったのでしょうね。
秋葉原の近所に住んでいると、秋葉原に対し、精神的な意味での期待なんて持ちようがないわけですが、離れた場所に住んでいるがゆえに、理想郷なり約束の地としての価値が上がってしまう。約束の地なり、その手の理想郷って、到達することに対して現実感がないがゆえに価値を持つ・・・そんなものでしょ?

「秋葉原に行きさえすれば、今までの自分の問題が一気に解決する!」
「おお!秋葉原こそ、乳と蜜の流れる、我々の理想郷だ!」

まあ、こんな感じで思っているんでしょね。

まあ、恋に恋するように、秋葉原に夢を託すのはいいとして、じゃあ、今現在の状況はどう認識しているの?
今現在のどんな問題を解決したいの?

「約束の地に行けば、すべて解決!」なんて思ってしまっているので、逆に言うと、現状認識はしなくてもよくなってしまう。
どんな問題点があるのか?そして自分としてはどうしたいのか?
そのような具体性を持った現状認識が出来ていれば、「とりあえず、この点は解決したい!」とかの順序付けもできるでしょ?あるいは、「ひとまず簡単に解決できる問題はどれなのか?」そんな思考もできるでしょ?
しかし、そんな現実的な思考には至らないわけ。
ただひたすら、「秋葉原に行きさえすればなんとかなる!」の一点張り。

さて、今回の山口県の事件ですが・・・
今のところ報道されているところでは、

犯人の高校生は、祖父母と同居。
両親は離婚して、親の双方とも犯人の高校生とは別居。
母親が歯科医で、父親が医師。
祖父は、「勉強しろ!」とうるさかった。
高校生は、中学卒業後に自衛隊に入隊。除隊して、その後、高校に入学。

今のところは、こんなところが報道されているようです。
まあ、そんな状況を見れば、「そりゃ、事件も起こるわなぁ・・・」と思う人も多いのでは?

両親が離婚したのはいいとして、どうして、どっちかと同居しないの?
祖父を殺害するまで思いつめる前に、親には相談できないの?
と言うか、その高校生の親も、別居している自分の子供と、日頃はどのようにコンタクトしていたの?
「オマエの母親のように勉強しろ!」と祖父が孫を叱るのはいいとして、その自慢の娘は離婚して、自分の子供と同居もしない。どこが自慢の娘なんだか?
その孫も母親を見習って、離婚でもして、自分の子供を見捨てればいいの?
あるいは、どうして自衛隊なんかに入隊したの?入隊するにせよ、大学を卒業した後でいいじゃないの?たぶん、親とか祖父母と一緒に住みたくないとか、親の経済的な負担が気苦労とか・・・つまり、それだけ親と精神的に疎遠だったわけでしょ?

これでは事件も起きますよ。何も「祖父は殺されるに値する人間だ。」と申し上げているわけではありませんよ。事件には十分な理由があると申し上げているだけです。
現実的には、こんな事例は結構ポピュラーでしょ?

強圧的で問答無用の祖父。影が薄いけど下の序列のものには容赦がない祖母。お金は持っているのに、やたらケチな家庭。だから何もレジャーなどはしない。自分の子供の自慢はするけど、その自慢の子供とやらとは、現実的には疎遠。
そんな封建的な家庭って、みなさんの周囲にも結構あったりするものなんですね。
まあ、その手の家庭にはペットはいないし、写真もほとんどないもの。
はっきり言って「うるおい」なんてゼロ。まさに殺伐とした状態。

つまり、犯人となった高校生にしてみれば、ニッチもサッチも行かない閉塞状況だったわけ。
そのような状況だと、現実的には一点突破するしかない。
自分の希望にプライオリティーをつけて、最重要なものだけに集中するわけ。

しかし、そんな一点突破をするためには、自分自身の希望なり、自分の周囲の現状の認識が必要でしょ?自分から逃避してしまうと、そんな認識から逃避して、「あの○○に行きさえすればすべてが解決!」なんて妄想状態になってしまう。

「あの○○に行きさえすれば、今の問題はすべて解決!」というのは、自分の問題の解決も他力本願となっていることでしょ?自分の力で事態を解決する気があるのなら、たとえ、周囲からの協力を得るにせよ、自分の至らない点をサポートしてもらうためにも、「どの点について協力を求めるのか?」「どんな人に対して協力してもらうのか?」そのようなことを自分なりに考える必要がある。
しかし、「○○さえすれば、すべて解決。」という発想は、そのような具体的な各論から逃避した状態。当人が主体的に利用するのではなく、まさに「すがっている」という他力本願なスタイルになっているわけです。

そのような、包括的で、かつ他力本願な発想を、このサイトにおいて集中的に取り上げておりますエーリッヒ・フロムは「魔術的助け手」と呼んでいます。フロムによると「魔術的助け手によって、この人生において期待できる一切のものを、獲得しようと望んでいるのである。」とのことで、まさに「約束の地」そのものといえるでしょう。
そして、それだけ期待し、「すがっている」わけだから、その「魔術的助け手」に失望した場合には、「アイツに支配されていた。」と被害者意識に転ずることになってしまう。
そんな流れは、別のところだと、韓国の大統領の周辺でいつも起こっていることでしょ?
「約束の地」という呼称なり、あるいはエーリッヒ・フロム流でいう「魔術的助け手」という呼称になっても、そこに「逃げ込む」抑圧的な心理と深い関わりがあるわけです。

逆に言うと、「どんな種類の『約束の地』を抱いているのか?」ということから、その人が陥っている閉塞状況も見えてくるわけ。秋葉原という「約束の地」は、「強圧的な存在による抑圧」に対応しているわけです。
あるいは、「うるおい」のない家庭にも対応しているわけです。犯人の高校生にしてみれば、秋葉原のオタクグッズも、「うるおい」の象徴なんでしょうね。
抑圧状況でなかったら、こんなにも「憧れ」はしませんよ。

この「約束の地」の対象は、何も場所だけではありません。それこそ、「結婚したら、すべてが解決するわ!」なんて思ってしまっている人もいたりするでしょ?あるいは、「子供を持って親になったら、すべて解決するはずだ!」なんて根拠のない確信を持っている人もいますよね?
あるいは、「共産主義社会になったら、あらゆる問題があっという間に解決!」なんて本気に言っている人もいますよね?
あるいは、世の中で非常に頻繁に言及される例だと、「いつか白馬に乗った王子様が、ワタシの苦境を救ってくれるはずだわ!」という物言いもあるでしょ?

現実を認識することを拒否して、「こうなればすべて解決するわ!」と連呼するだけ。
この状態は、以前に取り上げたプッチーニのオペラ「蝶々夫人」においても顕著です。
チョーチョーさんは、自分の現状を見ることを拒否して、「夫は帰ってくるわ!」の一点張り。逆に言うと、そのような妄想に執着することで、現実を見ることから逃避するわけ。
そんなチョーチョーさんがどうなったのかについては、オペラに詳しくない方でもご存知でしょ?

夢を持ったり、憧れを持つのは結構だし、逆に、それがないような人だったら、寂しすぎるもの。しかし、夢をかなえるためには、自分自身の現状をしっかり認識する必要があるでしょ?困難な状況だからこそ、一点突破しかない。だからこそ最重要な問題は何なのかについて、やっぱり自分で考えないとね。「こうなれば、すべてが解決!」という「約束の地」のようなスタイルで、自分の願望がとりあえずはまとまっていても、それって結局は自己逃避でしょ?当人の具体的なアクションにはつながらないというか、その点から逃避するための「約束の地」であるわけ。つまり「約束の地」というものは、具現化された自己逃避なんですね。
「約束の地」の妄想に浸っているだけだと、現実はどんどんと悪化していくだけ。
結局は、今回の山口県の青年の事件のように、ドッカーンとなってしまうわけ。

「約束の地」というスタイルの逃避は、具体的な各論からの逃避。
そして、今回の青年が持っていたそんなスタイルは、「オマエの母親を見習え!」と孫に言い渡しながら、「どの点を見習えばいいのか?」という個別の具体論はまるで説明できない祖父にも共通しているわけ。
その家庭がダメダメであるほど、そして、その地域環境がダメダメであるほど、「欠損」というか「機能不全」の面からみると、共通性が高いものなんですよ。

逆に言うと、この手の事件は、防止することが可能なんですね。
と言っても、今回の事件のような絵に描いたような典型的なシチュエーションでも、放置されたわけですので、実際には難しい。
部外者だったらせめて避けるしかないわけ。だって、みなさんの周囲でも、あんな封建的なジジババの家庭って、結構あったりするでしょ?
避けることは可能だし、避ける必要もあるわけです。それに部外者ができるのはそれくらいでしょ?

(終了)
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発信後記

ちなみに、この手の事件があると、「仲がよさそうに見えたのに・・・」なんてお約束の言葉を言う周囲の人がいたりしますが・・・
ダメダメ家庭の、特に、子供は「人に合わせすぎる」傾向があります。
だから、家族と「仲がよさそうな」子供の姿に、自分を合わせることくらいは、朝飯前なんですね。しかし、だからこそ精神的に疲れてしまう。「あの○○に行けばなんとかなる!」なんて自分をだましていても、いつまでも持つわけもなく・・・だからこそドッカーンとなってしまう。
この手の「流れ」は、まさに王道のレヴェル。
皆様の周囲だって、程度は別として、現実に起こっていることなんですね。

山口県の警察の連中がどのように考えるのかは、ともかく、警察なりマスコミが、このような事件に対し説得力のある説明をしたことって、一回もないでしょ?
だからこそ、自分の周囲の問題は、自分で判断する必要があるわけです。
 以下は、購読者さんからの補足文章です。
 私は二人兄弟の弟である。私たち兄弟は現在中年で、二人とも独身である。
もし私に結婚したい女性がいて、その女性と実際に結婚し家庭を持ち、子供を作ったとしても、私は父親としての機能はおろか、夫としての機能、つまり家族を養っていく点について私は全く自信がない。
また、私の兄の方であるが、父の死後、家業を継ぎ、新築で店舗付きの家を建てたのだが、仕事をする意欲があまりないせいか家業による収入はほとんどないに等しい。だから未だに嫁の紹介がない。

しかし、兄は以前から、何かの一つ覚えかのように、「近いうちに必ず嫁の紹介がある!」などと言い続けていた。しかし、実際としては、彼の行動は全く逆のものだった。嫁の紹介が来ないように振舞っていると、この私には思えるのである。

例えば数年前、家業が自分の思い通りにならないのが気に入らなかったのか、家業を勝手に放棄し、廃業することを宣言したことがあった。そのようなことをすれば収入の問題が発生し、嫁の紹介などはあり得ないことは明白であるにもかかわらず、それでも兄は嫁の紹介があると頑固に主張していたことがあった。

兄の話では、ある地元の人から、財産を含めて家業を継げば、長男なのだからそれなりの家から嫁の紹介があると言われたそうで、それを根拠に頑なになっているようだった。しかし、当人自身として、いわば結婚するにふさわしい人間になるように努力をしているかと言えば、そのそぶりすら見せることはなかった。
それどころか、自分の生き方については聞く耳持たぬの頑な姿勢であり続けるつもりのようである。

しかし、だからと言って何年経っても嫁の紹介がないのだから、今度は自分から結婚相手を探し求めるかと言うと、そのような行動をする意思は全くないようである。
彼は本当のところは結婚したいのか?したくないのか?どちらなのだろう?
私としては、兄を見て、そのような怪訝な思いにとらわれることも多かった。

彼は、「嫁が来ればすべてが解決するはずだ!」と自分を騙しているだけのように見える。
逆に言うと、そのように自分に言い聞かせることによって、自分が直面している現実から目をそらしているのではないだろうか?実際に嫁が来てしまえば、兄としても新たなる現実と向き合うことになってしまう。だから、「嫁さえ来れば」と自分に言い聞かせていれば済む状態こそが、彼の望みなのだろう。まさに、この本文で記述されている「約束の地」という発想そのものといえるかもしれない。
R.10/10/20