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カテゴリー | 文芸作品に描かれたダメダメ家庭 | |
配信日 | 07年12月28日 | |
タイトル | 若き詩人への手紙 | |
作者 | ライオネル・マリア・リルケ | |
他人の文章を読んでいて、ちょっと笑ってしまうことがあるのは、自分が書いた文章と似た表現が出て来たりする時です。 「あれっ?この人も、私と同じことを言っているじゃん?!」と、ちょっと苦笑い。 まあ、考え方が似ているというだけではなく、直面している現状が同じというわけなんでしょうネ。 似たキャラクターの人間が、似たような状況に遭遇すると、似た表現で文章にする・・・って、ある意味において当然のこと。 と言うことで、今回は、「あれっ?こんな表現の文章を、この自分も、あの人に宛てて書いたなぁ・・・」と私が思ってしまった文章を取り上げましょう。 題材は、ドイツの詩人のライオネル・マリア・リルケの「若き詩人への手紙」。 詩人志望の若者フランツ・クサーファ・カプス君からの手紙に対して、リルケ(1875-1926)が出した返事の手紙を集めたものです。 リルケは「孤独の詩人」なんて言われたりすることもあります。まあ、図書館には彼の作品はいっぱいありますから、お時間がありましたら、読んでみてくださいな。彼の作品の「マルテの手記」とかは、お読みになった方もいらっしゃるかも?あるいは、彼の墓碑銘の詩は有名ですよね?例の「純粋な矛盾」ってヤツですよ。 重要なことは、リルケがいわば孤高の詩人であることと、そして、極めて芸術家意識が強い人であること。 その点は頭に入れておいてくださいな。 リルケの作品を引用した作品は映画とかマンガとか色々とありますが、往々にして、そんな作品は、「芸術家」という存在・・・その「あり方」自体がテーマとなっています。 そんな孤独な芸術家リルケに対して、手紙を書いたフランツ・クサーファ・カプス君。 彼は、当時は詩人志望なのはいいとして・・・結局は、3流ライターに落ちぶれることになります。 さて、この「若き詩人への手紙」では、リルケからの返事が収められております。 返事ということは、カプス君からの手紙も当然のこととして存在するはずです。しかし、そのカプス君からの手紙は収録されておりません。 しかし、リルケからの返事が収録されていることから、逆に、カプス君からの手紙の内容も推定できるんですね。 まあ、どのレヴェルまで、カプス君の手紙の内容が推定できるかは別として、皆さんも、一度、推定してみてはいかがでしょうか? リルケが、カプス君の手紙から何を読みとったのかについて、かなりの段階まで予想できると思います。 リルケからの返事の文章を読むと、似たようなことは、この私がメールマガジンで書いていたり、あるいは個人宛のメールで書いていたりする表現が多くある。だから、リルケが何を考えていたのかについて、私には実にわかりやすい。 収録されていないカプス君からの手紙ですが、リルケが「こりゃ、マズイよ〜」と思ったのは何でしょうか? それは、一言で言ってしまうと、「安直さ」と言えるでしょう。 カプス君は、 安直に、物事を見て、 安直に、考え、 安直に、自分自身に接し、 安直に、言葉にし、 安直に、作品に取り掛かり、 安直に、作品をまとめあげ、 安直に、理解者を求め、 安直に、他者からの評価に依存する。 それに対し、リルケは一貫して、 簡単に言葉にするな! 簡単に解決させるな! 自分の中で課題を寝かせなさい! どうしても言いたいことは、アナタにあるの? あるのなら覚悟を持ってやりなさい! 解決は自分自身にしかないんだよ! そんな感じで語っている。 そもそも文章作品にするのはいいとして、そのことを「どうしても言いたい」の?あるいは、「残したい」の? そんな思考からカプス君は逃げている。 逃げているから、言葉にも重みがない。 自分が書いている文章に重みがないから、他者の文章の中の言葉の重みもわからない。 リルケがどんな思考やバックボーンを元に作品や返事を書いているのかが、カプス君はわかっていない。だから、リルケからこんな言葉を言われてしまう。 『それからもう一言あなたに申し上げておくことがあるとすれば、それはこうです。あなたを慰めようとしているこの者(リルケ)が、あなたに時として快く思われるその単純な静かな言葉の元で苦労なく生きているとはお思いにならないように。この者の生活も苦労と悲しみに満ちていて、あなたよりずっと後れているものです。しかし、もしそうでなかったら、彼はそういう言葉を見つけることができなかったでしょう。』 リルケにしてみれば、「よりにもよって、このオレにこんなことを言わせるなよ!」と言うところでしょうね。こんな言葉はヘタをすれば安っぽい苦労自慢になってしまう。 相手が一般人なら、読解力がこの程度なのも別にいいけど、物書き志望なら、そんなことくらいは、「深読み」しろよ!と言いたいでしょう。 結局は、カプス君の読解力は、一般人レヴェル。よくまあ!それなのに物書き志望とは!! いったい何を書きたいのやら?文章を書く前に、まず『見ること』「読むこと」から始めなよ!と言いたいところ。 そもそも、どうしても言いたいことなら、他者からの評価なんて気にしないはずでしょ? しかし、どうしても言いたいことでは「ない」から、他者の評価を気にしたり、理解者を求めるようになってしまう。 そもそもカプス君がリルケに手紙を出したのは、「この人なら、自分の孤独な境遇を理解してくれるのでは?」という甘い期待があったわけ。 しかし、孤独というものは、「自分の内面への厳しい洞察」なのであって、「ボクちゃんは、一人だから寂しいよぉ〜」なんて安っぽいものではないわけ。 リルケとしては、カプス君に対して、 覚悟を持って、ことを始め、 忍耐を持って、ことを遂行する。 そんなアドヴァイスを送っているんですね。 これって何も文章作品を制作することについてだけの問題ではないでしょ? リルケとしては、このカプス君が、文章家として名を成すことにならなくても、そのような覚悟や忍耐の重要性が理解できるようになれば、今後、別の分野において役に立つ・・・そんな考えがあったのでしょうね。 何も文章家になれなくても、一人の尊厳ある人間になれれば、すばらしいこと。どんな分野においても尊厳ある人間になるためには、覚悟や忍耐は必要なものでしょ? しかし、カプス君は、情けないことに、一貫して、「安っぽい理解者」を求めている。 だからリルケも、一貫して同じことを書いている。 ダメダメ家庭の人間は、自分自身を理解してもらおうと、表現の世界に関心を持つことが多くあります。作品を制作して、自分の存在価値を認めてもらおうとするわけ。 しかし、「誰も自分のことをわかってくれない。」という思いが強すぎると、「誰か自分のことをわかってくれる人はいないかなぁ・・・」と理解者探しをするようになるんですね。 そうして、誰かを「この人だったら、自分のことをわかってくれる!」と認定して、その人に手紙なり、今だったらメールを送るわけ。 誰かに手紙を出すのもメールを出すのもいいわけですが、それ以上に重要なことは、自分自身の問題でしょ? 作品としての文章を書くのなら、「自分の使命は何なのか?」「どうしても書かなければならないことは何なのか?」そんな思考が重要なんですね。 しかし、自分自身から逃避してしまうと、理解者探しに明け暮れるばかり。 作品を制作することよりも、その作品が受け入れられることの方が重要になってしまう。 リルケは最初の返事で書いています。 「あなたは御自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前には他の人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。他の詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせられる・・・」(新潮文庫収録の高安国世氏の訳より) 上記のような行動を取っている人って、21世紀の日本にもいっぱいいるでしょ? 何も文章作品ばかりではなく、絵画とか映像作品のような分野でも、そんな人はいっぱいいるでしょ? リルケは、そんなのではダメだと言っているわけ。もっと内面に目を向けなさいと言っているわけです。 もちろん、リルケほどの芸術家であれば、カプス君が「ものになる」かどうかなんて、わかりきったこと。詩人としてものにならないだけでなく、一般人としても無理っぽい。 しかし、それがわかっていても、リルケは丁寧な文字と丁寧な文章で返事の手紙を書く。 どうして?見込みもないのに? それって、何よりリルケ本人の尊厳のためなんですね。 「結果が重要なのではない。自分自身が誠実にことに当たることが重要だ。」リルケには、そんな発想があるわけ。自分を安売りしないわけ。これって何も自分を高く売るということではありません。自分の尊厳に常に配慮する、そのことを重視しているわけ。 リルケにとっての「孤独」というものは、「一人の人間としての尊厳」につながっていくもの。周囲のレヴェルがどうのという問題ではないわけ。 逆に言うと、そんなリルケの高邁な態度に、カプス君は逃げ出してしまうことになる。 カプス君が求めているのは、所詮はグチに付き合ってくれる人だけ。傷を舐め合いたいだけ。 この手の「傷を舐め合いましょう!」なんて雰囲気のお便りは、私に対しても結構あったりします。私は、自分が高邁だなんて全然思ってはいませんが、まさにリルケのように返事をすると、アッサリと逃げられてしまう。 詩なり、あるいはメールマガジンの文章でも、文章作品を書くなんてことは、多くの人には関係ないでしょう。 しかし、何かを成し遂げるための課題は、いつも同じ。 そして、成し遂げられない人の行動スタイルも、どんな時代でも、どんな場所でも同じなんですね。 この「若き詩人への手紙」という文章は、「若く」も「詩人」でもない人でも、結構参考になるものです。ということで一度お読みになってみては?文庫本で70ページくらいなので、簡単に読めると思います。 ちなみに、収録されているリルケからの一連の手紙の最後の言葉は、下記のようなもの。 せっかくですから、その言葉を年末のご挨拶として使わせていただきましょう。 『私はあなたが・・・どこかの荒々しい現実の中で、孤独に、勇敢に生きておられることをお喜びするものです。きたるべき年が、あなたをその現実の中で助け、さらに強めてくれますように。』 (終了) *************************************************** 発信後記 今回が本年(2007年)最後の配信です。来年も元旦(火曜日)から平常どおり配信いたします。 年末の挨拶はリルケの言葉で代用しておりますので、ちょっと補足説明いたしましょう。 本文中でも書いていますが、リルケの言う「孤独」とは、他者との交わりを絶つということではなく、自己の尊厳を常に考えるという意味になります。あるいは、自分自身が精神的に自立した上で、他者との交わりを広げていく・・・そのような発想とも言えます。これは友情においても恋愛においても同じ考え。 傷を舐め合うことは友情でも恋愛でもないでしょ? あるいは、傷を舐めてくれることが、自分の理解者に必要な要素というわけではないでしょ? しかし、この私に対しても「ワタシって、こんなにかわいそうなのよ!」なんて、心の傷を臆面もなく差し出されることがありますが・・・ 「この傷と、これから、どうやって付き合っていけばいいのでしょうか?」という質問なら回答もしますが、傷口を差し出されただけではねぇ・・・ まあ、そんな時には、あっさりと塩を塗りこんでしまうのが、この私。 このメールマガジンはダメダメ家庭出身者にとっては、もっとも厳しい文章が並んでいると思っています。読むにあたっても、相当な覚悟や忍耐が必要・・・そんなものでしょ? 何も高邁なことを申し上げるつもりはありませんが、「傷の舐め合い」がどんな結果につながるのか?せめてそのことくらいは、考えた方がいいと思うんですよ。 では、よいお年を! |
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R.10/8/17 |