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カテゴリー ダメダメ土曜講座(表現と作品 編)
配信日 10年1月23日
タイトル 下から目線の上からの物言い
ちょっと前に、購読者さんからのお便りの中で「上からの物言い」についての話がありました。ちなみに、その「上からの物言い」という言葉をYahooの検索に掛けると私の文章が出てきます。

しかし、面白いもので、検索でヒットする他の文章は「上から目線の物言い」という形で「上からの目線」という言葉が付いているケースが多いようなんですね。
私が書いている「上からの物言い」は、上から目線という言葉が入っていません。

実は、「上からの物言い」をされる方は、むしろ「下から仰ぎ見る」目線なんですよ。
ダメダメ家庭の人間は、下から見ているので、「上からの物言い」になるわけです。
まあ、いつもながらの逆説的な物言いですねぇ・・・

私が書いた「上からの物言い」の文章の中には「値踏みされている意識」について触れております。
自信がなく、コンプレックスが強いダメダメ人間は、周囲の人間から値踏みされている意識を持つことになる。そんな意識があるから、周囲から自分が安く見られないように必死な状態となってしまう。だからこそ、周囲からの評価が気になる「自意識過剰」状態。
そして、序列意識が強いので、何とかして「上の序列」を獲得しようと焦ってしまう。だからどうしても、上の立場から、「仕切る」スタイルをとりたがる。

あるいは、やり取りをしていて、相手の側が思っていることを自由に言ったりすると、自分の「見たくない部分」「触れられたくない部分」を突く可能性があるので、やり取りを自分で仕切らなければいけないと切羽詰っている。
だからこそ「上からの物言い」をして、「自分こそが上の序列なんだ!」と主張し、「オマエよりも上の序列であるワタシに文句を言わず従え!」と要求することになる。
「上からの物言い」は、つまり、相手からの話を聞きたくないという心理とつながっているわけです。

本当に自信があるのなら、逆に言うと、相手の話を余裕を持って聞けるのでしょ?
つまり、上からの物言いをする人は、それだけ自信がなく、実質的には「下から仰ぎ見る」目線なんですね。
相手から「見おろされている」と感じているからこそ、「見くだされない」ように必死になるわけです。
だからこそ、「上からの物言い」をして、「自分こそが、見おろしている側なんだ!」と主張しようとするわけです。

さて、このメールマガジンでは、似て非なるものということで、ちょっと見には似ているけど、その内実は大きく違っている・・・そんな観点でダメダメな状況を説明したりしています。

今回の「上から目線」と一見似ているようで、実は違っているのが「俯瞰した視点」というもの。
大きな視野で、全体像を見渡して、その中の一部として相手を見ている・・・それが俯瞰した視点となります。
それに対して、いわゆる「上から目線」というのは、むしろ視野が狭く、相手のことを凝視している雰囲気でしょ?
つまり、それだけ視野が狭く余裕がないわけです。

その手の「俯瞰した視点」を持っていない人に限って、何かあると、スグに「上からの物言い」をして来るものなんですよ。あるいは、不自然なまでに「自分の方が上なんだ!」とアピールしてきたりするもの。
それこそ、メールマガジンの書き手に多いパターンだったら、「ワタシの文章は本になったぞ!」とスグに言い出したりする。こっちが聞いてもいないのに、そんなことを言ってくる。そんな物言いは、この私はもう3回もらっていますよ。
とは言っても、そのメールマガジンの書き手の書いた文章が、内容があるかというと、まあねぇ・・・
もちろん、商品性と作品性は違っていますから、そんな人の書いた文章は、売りやすい商品ということなんでしょうね。
それはそれで結構なこと。

しかし、「ワタシの文章は本になったぞ!」というアピールを私に対してするよりも、私宛のメールの文章を充実させた方がいいのでは?
しかし、中身がなく、ヘタクソな文章で、上からの物言いをする人に限って、そんな「ワタシはすごいんだ!」ということを必死にアピールしてくる。
購読者さんの中でも文章を読みなれておられる方もいらっしゃれば、そうでない方もいらっしゃるでしょう。しかし、読みなれておられる方は、このメールマガジンの文章が意外なほどレヴェルが高いことはお分かりになっておられるでしょ?
そして、そのようなことは、曲がりなりにも本を出版するくらいの人なら、もっとわかるんでしょうね。相手のレヴェルの高さがわかるからこそ、相手・・・つまりこの私から安く見られないように必死になってしまうんじゃないの?

たとえてみればこんな感じなのでは?
18世紀末のウィーンの音楽界で、一般の音楽愛好家はモーツァルトよりもサリエリを高く評価していました。しかし、サリエリ本人はモーツァルトの価値がわかるからこそ、モーツァルトに対して無理にでも上から目線の対応をとってしまう。しかし、まあ、モーツァルトにしてみれば、自分が作品を作って上演することに一番関心があって、サリエリがどうなろうと関心がない。

まさにサリエリはモーツァルトに上からの物言いをしたがり、モーツァルトは、俯瞰した視点の中でサリエリを捉えることになる。
それがサリエリにはますます気に障り、ますます上からの物言いをするようになる。
映画でも描かれていましたが、18世紀末のウィーンの音楽界は、こんな感じ。
別に、この私がモーツァルトと肩を並べていると申し上げているわけではないんですよ。
特に気にもしていない人から上からの物言いで絡まれると、ジャマくさいというだけです。
皆さんも、そんな思いをなさったことがあるのでは?

あるいは、このような無理に「上からの物言い」をしたがる人たちとなると、韓国とか北朝鮮の人たちがその典型ですよね?
自分に自信がないがゆえに、必死で「上からの物言い」をしてしまう。

あるいは、以前に「格に対するセンシビリティ」という文章を配信しております。
序列意識の強いダメダメ人間は、何でもかんでも序列で捉えてしまうので、逆に言うと、「格の違い」への反応がなくなってしまう。
その考え方を使うと、「上から目線」は序列の問題、「俯瞰した視線」は格の問題といえるでしょう。あるいは、この目線の問題を考えるにあたって「みくだす」「みおろす」「みわたす」その3つの言葉のニュアンスの違いに注意すると理解しやすいでしょう。「見渡して」いる人は、相手を「見くだして」は、いないもの。

見渡している人は、人を見下してみたりはしないもの。
だって、見渡してまず最初に見るのは、自分自身がやらなければならないことであって、その風景の中にいる個々の登場人物じゃあありませんよ。見渡している人は、まずもって自分の課題そのものを凝視する。特定の人物を凝視している段階で、その人は、世界を見渡している人ではないこともわかるんですよ。

上からの物言いをするのは、「自分はアイツより下なんだろうなぁ・・・」という無意識的な劣等感があり、それを「自分でも認めたくない」という心理が背景にあるわけです。
その自分の劣等感から目を背け、必死に自分を騙していても、いつまでもごまかしきれるものではなく・・・

上からの物言いをする人は、往々にして、結局は逆上するものでしょ?
上記の「ワタシの文章は本になった。」とのアピールをした人は、いずれもが、逆上いたしました。まあ、そんなことは、その前から予想できることではあるんですが・・・
コッチは俯瞰した視線を持っているんですからね。それくらいはわかりますよ。

上からの物言いをする人は、その内実は劣等感を持っている・・・しかし、その劣等感を見たくないがゆえに、必死で自分の側が上だと主張する。
だから、相手に対して自分の優位性をアピールするだけでなく、自分より下の存在を必死に探すことになる。
そんな発想を理解していると、ボランティアの連中の行動も理解しやすいでしょ?
ボランティアというと、序列と逆上のコンボが随所に見られますよね?

自分に自信がなく、値踏みされている意識があるがゆえに、やり取りの相手からちょっとでも「見渡した」視点を感じると、異常に警戒してしまう。その警戒が限界点を超えると、やっぱり逆上。
「下から見上げている対象に対して、上からの物言いをする。」そんなことは、論理的に無理があり、やっぱり長く続くわけもない。
上からの物言いと、逆上との関連性は、皆様も感じたことがあるでしょ?

その根本としてある、その人のコンプレックスに目を向ければ、そのつながりも理解しやすいわけです。

(終了)
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発信後記

コンプレックスがあると、無理に「上からの物言い」となってしまう例だと、それこそ最近お騒がせの、民主党の小沢さんがそのパターンなのでは?
あるいは、やっぱりお騒がせの大相撲の朝青龍さんもそのパターンなのでは?

小沢さんと朝青龍さんって、雰囲気が似ているでしょ?
スグに逆切れするところなんて、そっくり。
双方とも、実は気が小さいんでしょうね。そんな自分を見たくないものだから、無理にでも自分を大きく見せようとして、結局はずっこける。

分野が違っても、ダメダメ人間の行動のスタイルって、実に似ているものなんですよ。
R.10/12/31