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カテゴリー ダメダメ家庭の顔
配信日 05年2月7日 (10年10月21日 記述を追加)
タイトル 意外と容姿端麗
ダメダメ家庭出身者の顔ということで、「ゆるんだ顔」とか、「人生に疲れた顔」などの顔を取り上げてきましたが、ダメダメ家庭出身者には、意外にも容姿端麗な人が多くいたりします。
勿論のこと、「容姿端麗な人は全員ダメダメ家庭の出身者だ。」とか言っているわけではありませんよ。
それにダメダメ家庭出身者の全員が、容姿端麗というわけでも、残念ながら、ありません。

現実的に見ると、容姿端麗の人の中でダメダメ家庭出身者の占める割合は、平均程度の容姿の人の中でダメダメ家庭出身者の占める割合よりも、かなり高い・・・そのように言えるでしょう。
逆の方向の容姿でも、同じことが言えるのでは?
容姿に問題がある人の中でダメダメ家庭出身者が占める割合は、平均程度の容姿の中でのダメダメ家庭出身者の比率よりも、高いと言えるのでは?

ダメダメ家庭出身者は、平均程度の容姿のパターンが少ないわけ。
ダメダメ家庭においては、「ふつう」という言葉を金科玉条としながら、容姿については、「ふつうならざる」パターンが多いわけです。ダメダメの出身者には尋常ならざる美形の人もいたりするわけ。

人間の容姿は、本人の努力の結果というわけにはいかない。基本的には親からの遺伝ですね。容姿端麗の人の親も、基本的には容姿端麗であることが推測できるでしょ?つまりダメダメ家庭を作る親は意外にも美人が多かったりするわけ。

しかし、これって、少し考えて見れば納得できる話。だって、「顔よりも会話の能力が重要」と思っている人たちが結婚すると会話に満ちたマトモ家庭を作り、「会話よりも顔が重要」と思っている人たちが結婚すると、会話不全のダメダメ家庭が出来てしまうのは論理的に見て当然のことでしょ?
「会話よりも顔が重要」と思っている人が選んだ相手の子供だから、子供も容姿は端麗になってしまうわけ。

子供にしてみれば、親の容姿など気にすることなど滅多にありませんが、周囲の人から「アナタのお母さんはキレイな人ねぇ・・・」などと言われたりするわけ。
しかし、子供にしてみれば、親の容姿よりも、親との会話でしょ?
親との会話がなかったら、子供って落ち着きませんよ。

ということで、会話に飢え、愛情に飢えた子供は、独特の表情をするようになる。そんな「愛を求める」表情もそれなりに魅力的だったりするわけ。だからますますキレイに見えたりする。
それに、親が守ってくれるという安心がないので、どうしても精神的に落ち着きが出てこない。そのように落ち着きのない日々を送って来たわけですから、歳を取ってもあまり所帯じみた雰囲気にならない。だから、ずっとキレイなままだったりするんですね。
どちらかと言うと情緒不安定気味なので、身体的に太ることもなく、身体のサイズも全然変わらなかったりするので、自身として年齢を意識することもなかったりする。昔の服がいつまで着れたりするので、気分も若いまま。

「舞踏会の手帖」という映画があります。なんと1937年の大昔の映画。その主人公の女性もずっと若い雰囲気のまま。「恋を知らずに結婚して、そのままに来た。」せいで、いつまでも若い顔なんですね。昔の友人から「いつまでも若いねぇ・・・」と言われちゃうわけ。
そのような例ばかりでなくても、たとえ子供を持っていても、「何とかして子供を守らないといけない。」と思っているわけではないので、親の雰囲気が出てこないわけ。ただ、子供と一緒にいるだけ。親子というよりも友達感覚なんですね。

実際に若い時には、水準以上に若い顔をしていても「若く見えてうらやましいわ!」と、周囲から言われるくらいで済んでしまいますが、さすがに歳を取ってくるとそうは行かない。友人たちと撮った写真を見ても、一人だけ場違いに若い顔した人間が写っている。それが自分なんだからシャレにならない。街を歩いて、ふとショーウィンドを見たりすると、「あっ!目立つ人が写っているわ!」とビックリすることに。しかし、ガラスをよく見ると、それが自分だったりするわけ。

本人は特に自分の容姿は気にしていなくても、人から色々と言われたりすることになる。「人間は顔だけじゃないのよ!」とか・・・そう言われても、本人が自分の容姿について考えていないのでキョトンとするだけ。まあ、それくらい目立っていたりするんですね。

芸能界で生きるのならいいでしょうが、カタギの世界ではちょっとねぇ・・・
しかし、本人の努力で「老け顔」になることも出来ないし・・・「若い顔」や「容姿端麗」も、「親の因果が子に報い」の一種と言えるわけ。

ウディ・アレン監督の映画「セレブレティ」でも、ケネス・ブラナー演じる主人公の男性が、「あ〜あ、オレはいつまでも老け顔になれない!」ってグチっていました。ダメダメ家庭出身者がいつまでも若い顔というのは、意外にありがちな話なんですね。

何かとハンディキャップの多いダメダメ家庭出身者にとって、容姿端麗だったら、数少ないメリットとなるわけですが、ことは単純には行かない。この手の容姿端麗なケースだと、当人自身が「自分はダメダメ家庭出身者だ。」と自覚しにくいという問題点があります。
そもそも容姿のせいで、周囲の人もそれなりにチヤホヤしてくれるので、孤独とか孤立を感じなくても済むわけ。あるいは、依頼の方法が的確ではなくても、幸か不幸か自分の意向が通りやすい。
中途半端に受け入れてくれるので、自分の問題点に気がつきにくいわけ。
その人の周囲では軽いおしゃべりは絶えることはないわけですが、逆に言うと、シリアスな会話とか相談をしてきていないわけ。その場の雰囲気に合わせるだけになってしまい、ますます自分の問題点が見えない。

そんな人が家庭を持ったらどうなってしまうの?
軽いおしゃべりをこなすことができるからと言って、本当の意味でのコミュニケーション能力があるわけではない。そんな人は子供との会話なんてできませんよ。

しかし、そんな家庭は、外見的には、美男美女の両親に、かわいい外見の子供ということで、「絵に描いたような」美しい家庭に見えてしまう。
しかし、その家族の間には相互理解はないわけ。
家庭内でお互いのことを知らないだけでなく、自身のこともわかっていない。
ただ、「うまく行っている家族」というシーンの登場人物をこなしているだけ。

そのようなシーンは「舞踏会の手帖」とか「セレブレティ」のような映画作品だけでなく、実際にも結構あったりする事例です。
例えば、結婚相手の選択に際し「会話よりも容姿が重要」と思うような人の代表例は、苦労してたたき上げて一代で財を成した人です。往々にしてあまり学歴がなかったりする。

散々苦労してきたので、心が頑なになっている。
それまで競争してきた苦労知らずのボンボンに見せ付けてやりたいので、「容姿端麗で、いい家柄の高学歴」の女性と結婚したがるんですね。
周囲の人に見せ付けてやりたいわけ。

だから、男性の方は結婚相手の選択に際し、「会話よりも容姿」を重視してしまう。
そのような男性と結婚する女性も会話能力がないわけです。会話能力があったら、そんな意固地な男性と結婚はしないでしょ?勿論、そんなたたき上げの男性と会話が弾んで結婚するケースもあるでしょう。しかし、現実には、会話もなしに結婚するようなケースが多かったりするわけ。そうなると結婚後にいざ会話しようとしても「苦労しながらたたき上げてきた」夫と、「苦労しらずで、高学歴の」妻という、ギャップもあるわけ。どうしてもかみ合わないわけです。

この手の夫は往々にして、コンプレックスを持っているので、妻とやり取りがかみ合わなくなった時は、逆上して命令口調になったりする。そうなると、妻は「フンっ!やっぱり育ちが悪いわね!」

こうなると、夫はますます家庭を顧みなくなってしまい・・・と、スパイラル的にダメダメになってしまう。そうなると妻は自分の子供を相手にグチの花を咲かせることになる。
そして「あ〜あ、やっぱり、あんな人と結婚するんじゃなかった!」、「結婚する前に、周囲の人も、『あの人とはやめておけ!』って言っていたっけ・・・」

また、父親たる夫の方も、苦労しながらたたき上げてきたので、命令は出来るけど、「人の話は聞けない人間」。だから妻だけでなく子供としても会話のしようがないわけ。
多分、田中角栄氏の家庭はこんな感じなのでは?
真紀子さんも若い頃は、それなりに整った容姿をしていますからね。

そんな家庭の子供は眉目秀麗な父母から、端麗な容姿は受け継ぐことができるでしょうが、会話の訓練はできないわけです。
そして、そんな人がどんな人と結婚するの?そして、できた子供とどんなやり取りをするの?
ダメダメって、そうやって連鎖していくものなんですね。

(終了)
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発信後記

申し上げますが、私は37年の映画をリアルタイムで見たわけではありませんよ。
いくらなんでもね。
この「舞踏会の手帖」の監督ジュリアン・デュヴィヴィエさんは、ダメダメ家庭に関した映画を沢山作っている人です。
彼の別の作品をそのうちに、取り上げる予定です。
R.10/10/21