トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る DV問題に関わるトピックスの目次へ
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ ボランティア問題に関するトピックスの目次へ
カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 06年5月15日 (10年11月3日 記述を追加)
タイトル 共依存
「あの人はワタシがついていないとダメになってしまう!」
ドメスティック・ヴァオレンスの状態に陥った夫婦の妻がよく言う言葉です。
『夫から暴力を振るわれるのに、どうして別れないの?』と聞かれて、そのように回答することが多いんですね。

それはそれでいいとして・・・
じゃあ、『アンタがついていると、夫はダメにならないの?』あるいは、『妻を殴っている状況なんだから、もう既に十分にダメでしょ?』そんな疑問が出てきますよね?

それに、『じゃあ、こんな関係をこのまま続けるの?』『夫婦関係の改善のために、アナタはいったい何をしているの?』
そのような疑問も出てくるでしょ?

殴られ続けていると、事態が自然と好転してくるものなの?
そんなわけないでしょ?

「あの人は、ワタシがついていないとダメになってしまう!」
「あの人には、このワタシが必要なんだ!」
なんて、他者に依存「される」・・・その関係自体に「依存する」ことを共依存といいます。

ちなみに、私個人は家族関係の本は読まない人間なので、言葉の定義は間違っているかもしれません。私は映画やオペラや小説などの「作品」から、と言うより何より現実そのものから家族の問題を抽出するタイプですからね。
まあ、言葉の定義の問題は別として「あの人は、このワタシがついていないとダメになってしまう!」なんて言葉は、様々な「作品」の中においてポピュラーな言葉でしょ?いや、作品の中だけではありませんが。

「あの人にはこのワタシが必要だ!」という言葉は言葉でいいとして、じゃあ、具体的にどう必要なの?どう役に立っているの?殴られる役ならボクシングのサンドバックで十分じゃないの?

あの人にはワタシが必要だから・・・だから、ワタシはここにいる。
そうやって自分を納得させるのはいいとして、こうなると、ダメダメ人間に対するお約束の疑問が出てくるんですね。
「で、アンタ自身は、結局はどうしたいの?」
ワタシ自身の希望は・・・「ワタシは殴られたくない。」・・・それは確かにもっともなことでしょう。
しかし、以前より書いていますが、ダメダメ人間の物言いには否定形が多い。殴られたくないという言葉は否定形ですよね?じゃあ、肯定形で言うと、具体的には何をしたいの?
海外旅行でも、ショッピングでも、豪華な食事でも何でもいいから、アナタ本人としては、一体全体何をしたいの?

まあ、こうなると、やっぱりダメダメ人間にお約束の答えはコレ。
「ただ、普通の生活がしたいだけよ!」
普通の生活はいいとして、「じゃあ、具体的にはどういう生活なの?」なんて聞かれても答えられないわけ。
というか、「ふつう」という言葉の意味は「特に変わったことがない」となり、意味的には否定形なんですね。結局は、「このようなことをやりたい。」というシンプルな肯定形では何も言えないし、何も考えていないわけ。

「自分が何をしたいのか?」わかっていないし、考えたくないので、とりあえず「あの人には、このワタシが必要だ!」と、自分の存在理由を他者に依存しているだけ。

そんな「自分で自分の希望がわかっていない」人間が選んだ結婚相手ってどんな人なの?
同類の人間に決まっているでしょ?
「オレはこのようなことをやりたい!」なんて具体的に言えるような人間が、そんな「自分の希望もわからない」人間と結婚するわけがありませんよね?

結局は、夫婦なんてどっちもどっちなんですね。しかし、自分の希望もわからないような人間同士が一緒にいてうまく行くわけもなく、「オマエと結婚して、オレの方が被害者だ!」『違うわ!アナタと結婚したワタシの側が被害者なのよ!』と被害者競争になり、結局は暴力沙汰に。
まあ、ダメダメ夫婦はそんなもの。
こんな状態で、いったい、どこが「あの人にはワタシが必要」なんだか?

このように、依存となると、依存される関係に依存する夫婦の例とか、まだ夫婦になっていない男女関係における依存のパターンが、一般の人にも理解しやすい関係といえるでしょう。まさに、事件になったりして、そんな関係性が明らかになることもある。それらは、基本的には個人と個人の結びつきの依存関係といえます。
しかし、個人ではなく集団になるケースもあります。
「あの人たちはワタシがついていないとダメになってしまう!」
「あの人たちには、このワタシが必要なんだ!」
あるいは、「あの人には、ワタシたちのサポートが必要なのよ!」なんて、「あの人」「ワタシ」から「あの人たち」「ワタシたち」と、複数形になると、別の様相を呈してきますよね?
それらの言葉って、ボランティア人間にお約束の言葉でしょ?

だからと言って、それらのボランティア人間がサポートしたからといって、事態がどれだけ好転したの?結果としてはどうなったの?
しかし、サポートをすることで、「あの人たちには、このワタシが必要なんだ!」という関係性を成立させ、自分の存在理由を、とりあえず説明できたわけ。他者から依存させることに、自分の存在理由を依存しているんですね。

そんなボランティアにしてみれば、事態が好転する方が恐怖でしょ?だって、自分の存在理由がなくなってしまうんですからね。これはボランティアだけでなく、ドメスティック・ヴァイオレンスの夫婦でも同じでしょ?夫が精神的に自立してマトモな人間になってしまったら、そんな「自分の希望がわからない」妻など不必要ですよ。でしょ?

「困っている相手を助けたい!」
「誰かを助けている時は、自分の心が休まる。」
そのような心情は、現在(06年)このメールマガジンにおいて集中的に取り上げていますバルザックの「谷間のゆり」にも出てきます。主人公であるアンリエットの夫の伯爵が病気になって、アンリエットとフェリックスが必死で看病するわけ。その必死の看病の時間が本人たちには「心が休まる」時間なんですね。そんな姿を見て医師が「看病している2人の方が重病だ!ただ、それを本人たちは全然わかってはいない!」と見破ってしまうわけ。

現実の世界でも、家族が病気になって看護をすることなったら、急に張り切ってしまう人っていますよね?それって、自分の存在理由が出来上がり、そして自分自身の問題から逃げることができたわけ。そんな「自分が役に立った」看病体験を周囲の人に喜んで語ることになる。
そんな語りを、実際に聞かされたこともある方もいらっしゃるのでは?

だから共依存にある人間は、相手をダメダメのままにしておきたいわけ。
まさに、看病していた時に感じた充実感や高揚感が忘れられなくなってしまう。
それこそ、ボランティアの連中は中途半端な援助はしても、自立に向けてのサポートはしないものでしょ?
このようなことは、ダメダメな夫婦やボランティアだったら、所詮は大人同士の問題。
しかし、このような発想は、当然のことながら、ダメダメな親が子供に依存する形で出てくることもある。

「あの子は、ワタシがいないとダメになってしまう!」
「あの子には、このワタシが必要なんだ!」
これらの言葉も実にポピュラーでしょ?
それはそれでいいとして、「じゃあ、一人の人間として、アンタ自身はいったいどうしたいの?」「親としては、どんな親になりたいの?」「どんな子供になってほしいの?」そんな疑問には答えられないわけ。

それに、子供から依存される関係に「依存」してしまっているので、子供が独り立ちしては困ってしまう。だって、子供が独り立ちしたら、「自分で自分の希望がわからない」ような親なんて用済みですよ。いるだけジャマ。

だから、どうしても、子供が独り立ちできないように育てるわけ。そもそもそんな共依存を起こしている親なんて、自分の子供以外の人間とはやり取りができる人ではない。どうしても自分の子供にすがりつかないといけない。
そうして、子供が持っていた自立への能力を摘み取り、「あの子はいつまでも経っても甘えん坊で・・・」とのダメ親のお約束の言葉になるわけ。
よくあったりするでしょ?そんなケース。

そんな状況では、親に依存する子供は、親に対して親としての役割なり居場所を作っているわけ。しかし、そんなことだから、子供が引き篭もりとかニートになってしまうのも当然でしょ?

相手から依存されるという関係は、当人にしてみれば、居場所となる。
まさに、自分の役割が簡単に手に入ったわけですからね。
そして、いったん居場所が出来れば、そこに安住しているだけ。
マトモな人にとっての居場所とは、自己実現に繋がるもの。
自分の目標を実現させるための戦いの場所なり、あるいは、その戦いで疲れた神経を休めるための休息のための場所となる。

しかし、ダメダメ人間にとっての居場所とは、むしろ自己否定に繋がるわけです。
とりあえず」の役割に安住し、そのかりそめの関係性を固定することで、それ以上自分で考えることから逃避するための大義名分としてしまう。自分では何も考えなくても済む場所・・・それがダメダメ人間にとっての居場所。
まさに「子供がいるから・・・」とか「あの人には、このワタシが・・・」という名目をスグに持ち出し、「自分はどうしたいのか?」について考えなくても済んでしまう。

依存されるという関係性は、自己逃避状態にうってつけの居場所を作るわけ。
自分で考えることから逃避し、恐怖しているがゆえに、そのような状態から出て行こうとする人間を妨害することになる。誰かが自分に依存しているという関係性を必死で保持しようとするわけ。だって、自分に依存しているものがいなくなることは、自分の役割が喪失してしまうことであり、「じゃあ、これから自分はどうするのか?」ということを、考えなくてはならないということでしょ?
抑圧的な人間は、そのような事態には恐怖を持っているわけ。

「結局は、自分はどうしたいのか?」
そんな疑問から逃げてばかりいる人間は、他者からの依存関係自体にすがらざるを得ないわけ。そうして、対象とする他者をますますダメにしてしまうんですね。
それこそ、ボランティアの連中は、スグに「アナタは何も悪くはないのよ!」と言い出し、「悪くはない」という被害者の立場なんだから、アナタ自身は何も考えなくてもいいというロジックを持ち出すものでしょ?
あるいは、安直な援助によって、「アナタは被害者なんだから、援助をもらう権利がある。」と餌付けする。

たとえ被害者であっても、色々と考えて、「どうやってこの状態から脱却していくか?」という点まで考えていけばいいわけですが、被害者さんは、自分たちでは何も考えないで、グチを言っていれば構ってもらえ、援助してもらえるという成功体験を得てしまうわけ。結局は、そんな居場所から抜けるという意欲もなくなってしまうし、誰かに依存するという習慣は維持されることになる。

そうやって、自分では何も考えないで誰かに依存するだけという自己否定的な居場所を温存し、その人へのサポートという大義名分で、自分の居場所も作ってしまう。
しかし、そんな居場所は、住人が何も考えていない場所でしょ?
そんな居場所は、人が人でなくなる場所とも言えるのでは?

共依存状態にある人は、言葉としては、「あの人は、このワタシがついていないとダメになってしまう。」と言いますが、現実的には、「あの人は、ワタシがいるからダメになった。」
そんなものでしょ?

(終了)
***************************************************
発信後記

せっかくですから、現在進行中の「谷間のゆり」に関係したお題にしてみました。
まあ、最近は、まさにダメダメ家庭の問題が頻発していて、それらについて考えてもよかったんですが・・・
どうせ、また起こりますしね。
 この共依存をテーマとしている最近のアニメを元に考えた文章として「09年4月17日 配信 とらドラ!」があります。
R.10/11/3