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カテゴリー | 映像作品に描かれたダメダメ家庭 |
配信日 | 09年4月17日 |
取り上げた作品 | 「とらドラ!」アニメ作品です。 |
テーマ | 共依存 |
今回はちょっと前に放送が終了した、比較的新しいアニメ作品を取り上げましょう。 人から紹介されたので、見てみたら、実に面白かったんですね。 アニメ作品だと、レンタルショップにおいてあるので、入手性もいいわけです。 その作品は「とらドラ!」という作品。ただレンタルショップには、まだ全巻はそろってはいないと思います。 この作品は、カテゴリー的には高校を舞台にした青春ラヴコメ・・・となるんでしょう。 とは言え、そんなありきたりな作品なら、わざわざこのメールマガジンで取り上げる意味がない。このメールマガジンはダメダメ家庭についてのメールマガジンであって、アニメについてのメールマガジンではないんですからね。 この「とらドラ!」という作品は、商業的にはラヴコメとなっているのかもしれませんが、作品的には、むしろラヴではない・・・と言うか、ラヴになるまでの状況を描いている・・・そんな作品と言えます。 さて、ラヴコメのラヴとなると、英語でいうと「I love you」あるいは、もうちょっと軽い「 I like you 」という言葉があるわけですが、そんな言葉とはちょっと違った言葉として「I need you」という言葉がありますよね? 「 I like you 」が進むと、「I love you」になる。この流れは簡単に理解できるでしょう。 じゃあ、「I need you」はどんな流れから出てくるの? 「I love you」がもっともっと進むと「I need you」になる・・・「好きで好きでたまらないから、ワタシはアナタが必要だ!」そんな流れもないわけではないでしょうが、ちょっと違うもの。 じゃあ、「I need you」という気持ちはどんなものなの? 「I need you」という言葉を単純に日本語化すると「ワタシはアナタが必要です。」となるわけですが、それを分解すると、「ワタシはアナタから離れることができない!」・・・そうなるでしょ?「need」という英語が示すものは、好きという感情よりも、「離れることができない。」という状況に近いことはお分かりになりますよね? 「離れる」という言葉は、その意味において、ある種の否定的な意味を持っている。 だから「離れることができない。」という言葉は、二重否定的な言葉と言えます。 このメールマガジンにおいて、ダメダメ家庭を考える際には、二重否定と肯定の違いに注目する必要があると書いたりしていますが、「like」や「love」が、「一緒にいたい」という単純な肯定形の感情であるのに対し、「need」が、二重否定的な感情である・・・そんな視点で、その違いを理解できるわけです。 二重否定的だから、「need」はダメダメな領域で登場しやすい。そもそも「need」なんだから、ある種の入れ込みが起こっている。「オレのことを理解できるのはオマエだけ!」「オマエのことを理解できるのはオレだけ!」・・・「だからお互いが必要だ!」そんなシヴィアーな状況から無理に離れようとすると、ドメスティック・ヴァイオレンスやストーカー騒ぎが起こってしまう。まさに血を見るような大怪我が起きやすい。 さて、このアニメ作品「とらドラ!」では、高校2年の1年間を描いています。主要登場人物としては、逢坂さんという女の子と、そのお隣に住んでいる高須くんという男の子。その2人はクラスの中にそれぞれ好きな子がいるので、お互いの恋をお互いがサポートし合っていく・・・そんな話です。 ちなみに、男の子の高須くんは、シングルマザー環境。そして女の子の逢坂さんは、両親が離婚で、今はマンションで一人暮らし。 お互いの恋のサポートをする内に、その真摯な姿にやがて魅せられ・・・結局は、サポート対象の方に恋してしまう・・・そんなストーリーは、ラヴコメにおいては、実にポピュラーなもの。 しかし、この「とらドラ」では、そうは単純には行かない。 根底にあるのが「like」や「love」ではなく、「need」の状態のまま。 このメールマガジンでは、たびたび「共依存」という考えを取り上げております。相手から依存される関係性に依存してしまう心理のことです。自己逃避で抑圧的なダメダメ家庭の人間は、「自分としてはどうしたいのか?」ということを考えることから逃避して、「あの人がワタシを頼ってくれているから、必要としてくれるから、ワタシにも生きる価値があるし、ワタシもがんばらないと!」などと考えることになる。 逆に言うと、他者が「頼ってくれない」と、あるいは「必要としてくれない」と、自分ひとりの価値はない状態。だからこそ、いつまでも「自分を頼ってくれる」状況を維持しようとする。このような点は、まさにボランティアの連中などが、いつもやっていることでしょ?依存される状態に依存している状態なので、それだけ他者が必要になっている。もはや自分のアイデンティティとして他者が必要な状態。 お互いの恋をサポートし合うという状態でも、その根底に「like」があるのなら、その恋が実れば、サポートした側も喜ぶことができる。だって自分がサポートした人が、望んだ結果を達成したわけですからね。そもそも、それがサポートの目的だったわけでしょ? しかし、共依存状態だったら、つまり「need」が根底にある状態だったら、そうはいかない。サポートした人の恋が実ってしまったら、もうサポートは必要なくなってしまう。そうなると、自分は用済みとなってしまい、「離れなくてはならない」ことになる。 それくらいならまだしも、自分がサポートをしている対象の子の恋愛対象が、自分の友人だったのが自分自身に変更になっても困ってしまう。だって、そうなったらサポートできないじゃないの?自分への恋をどうやってサポートするの? 「like」が根底にあれば、サポートしている相手の恋愛対象が自分に向いたら、大喜びするだけ。 しかし、根底が「need」なんだから、相手の恋愛対象が、自分に向いたら、やっぱりサポート不要状態になってしまって、自分は不必要な存在になってしまう。 だから、恋愛対象が自分にならないように、恋愛サポートする対象に対して「ガンバレ!」「○○さんのことを、あきらめるな!」と励ますことになる。 自己逃避で抑圧的な人間は、「お互いが依存し合う」状態だと、心理的にラクなんですね。そのような状況だと、自分の役割が明確なので、いわば相手に対する立ち位置がわかりやすい。だから相手に対して気を使わなくてもいい。 気を使わないでやり取りできるから、相手のことを気に入っているけど、相手の恋心が自分自身に向かないように、注意しなくてはならない。 あるいは、相手から依存されるという関係性に依存している状態なので、相手やあるいは誰かがピンチになったら、異常なまでに感情が高揚する。自分が必要とされる状況になると異常に張り切ってしまう。それが自分自身にも気持ちいい。あるいは、お互いがピンチの状態を率先して作り出そうとする。それこそ「駆け落ちをする」なんて発想になってしまう。あるいは、「離れられない」という心理が根底にあるので、「離れそう」になると、感情が大きく動くことになる。 「need」という二重否定に留まっている内は、本当の「love」にはならない。 本当の「love」になるためには、「離れることができない」という二重否定状態を解きほぐす必要があるわけです。なんらかのリセットが必要なんですね。「need」状態から脱却して初めて「好き」と、言えるわけ。 共依存状態と恋愛状態の違い・・・その点がまさにこの「とらドラ!」という作品のテーマと言えるんでしょう。心理的に実に緻密だし、整合性が取れている。まあ、作者さんも相当の修羅場をくぐっているんだろうなぁ・・・アタマで考えただけでは、これだけの整合性は作れませんよ。 私くらいになると作品中の細かなエピソードの心理的な解説をすることもできますが、それは無粋というもの。皆さんも、実際にこの作品をごらんになると、重症の共依存状態を描いた例として参考になると思います。お互いがお互いに共依存して、それが進行していくわけです。 このメールマガジンで頻繁に触れておりますボランティアの連中なんですが、まさにこんな心理を基にしているわけです。 アニメを好きなオタクの人は、どっちかというと登場人物のキャラクターに関心を持ったりするらしいのですが、私としては作者さんが「見ているもの」「表現しようとしているもの」に関心を持ちます。 ただ、この作品には、この私にも興味深い登場人物がいたりします。 モデルをやっている川嶋亜美というクラスメート。モデルをやっているんだから、容姿端麗なことは言うまでもないこと。この川嶋さんが、いわばドラマにおける状況や心理の説明役も兼ねている。 人の心理が結構わかったりするので、「人を喜ばせるアイデアを出すのがうまい。」と言われたりする。しかし、「どうやったら人を喜ばせることができるか?」それがわかる人は、「どんなことを言うと、人は怒ったり困ったりするのか?」も分かっているもの。だから虫の居所が悪いと、ピンポイントで人の痛いところを突いてしまう。 状況が見えているので、「このまま行ったら、アンタたちは大怪我するよ!」とアドヴァイスしたりもするけど、言われた側にとっては、往々にしてそんな点は自分でも目をそらしていたり、認めたくない面だったりするので、『アンタはそんなことを言うけど、アンタは人の心が見えるのか!』と逆切れを食らったりする。 「ワタシってスゴイ!」とナルシスティックな自画自賛をしたと思えば、「ワタシはバカだから自分が嫌い!」自己否定したりと自己評価が両極端。 モデルをやるくらいの容姿端麗さはともかく、何かと目立って、かつ状況が見えている人って、たまにいたりするもの。まあ、海岸にある灯台のようなものかな? しかし、この手の人は、それこそ灯台のように、立場的というか序列的な感覚で上から見ているわけではないんですね。 視野が広かったり、別の視点で周囲や自分自身を見たりすることができるというだけ。 序列的な意味での上からの視点というよりも、時間的に俯瞰した視点とか、第三者的に自分自身を見たり、よく似た事例を引っ張り出してきたり・・・それができるというだけ。彼女自身も共依存状態だけど、それが自覚できているというだけなんですね。 だぶん、この作品の作者さんは、そんなキャラクターなんでしょう。 ホント・・・たまにいますよねぇ・・・こんなヤツ。 さて、この作品では最後にはハッピーエンドになります。「need」状態から脱却して、「like」状態に、やっと到達するわけ。 しかし、これはなかなか難しいこと。 現実的には、「need」が進行して、「入れ込み」「入れ込まれ」状態になり、血を見たりするもの。 じゃあ、どうしてハッピーエンドになれたの? この作品の設定としてはそうなっていても、現実的にはありえない条件として、以下のようなものがあります。 1. 親の被害者意識の低さ・・・男の子の母親は、シングルマザーであっても被害者意識はない。自分を捨てた男や実家による被害を子供に語ることはないわけ。あるいは、時代や政治のせいにしたりもしない。ペットもいるくらいなので、ある程度の精神的な余裕はある状態。あるいは、女の子の親も、当事者意識はなくても、被害者意識もあまりないわけ。 2. 実家がマトモ・・・男の子の母親は、実家から家出したわけですが、その実家そのものには、大きな問題はないようです。しかし、まあ、現実では、家出をする前に実家で色々と問題があり、それが積み重なるからこそ、家出という行動になるわけです。本来は実家にも多大な問題があるもの。 3. 学校がマトモ・・・主人公2人が通っている学校は、ずいぶん落ち着いている。生徒が金髪にしたくらいで大騒ぎなんだから、逆に言うと、トラブルがほとんどない状態。現実だったら、もっと色々と問題を抱えていますよ。だから不満を抱えた生徒による吹き溜まりができてしまったりするもの。しかし、この作品においては、全体的に問題がないので、ダメダメが集約しないで済んでいるわけ。授業もどっちかというとユルい授業なので、生徒もストレスが溜まらない。 4. 教員がマトモ・・・主人公のクラスの担任の女性教員は、生徒から「ちゃん付け」で呼ばれていて、迫力もない人なんですが、卒業式では泣くし、まあ、やさしい人といえるでしょう。やさしいだけでなく、大人として大切なことを生徒に言っている。それは各自の選択の重要さです。自分で考え、選択する・・・その重要さを生徒に伝えられる教員は、現実ではそうはいませんよ。 5. マトモな友人・・・主人公の2人のそれぞれの友人は、マトモな一般人。思春期なりの悩みはあったりしますが、それも一般人的なもの。しかし、現実ではダメダメ家庭の人間は、もともとの常識が違っているので、そんな一般人とは仲がいい友人同士にはなりにくいもの。 6. 耳の痛い友人・・・前述の川嶋さんというモデルをやっている友人は、主人公たちに「このまま行くと大怪我するよ!」と言ってくれるわけですが、そんな忠告が直接的に事態を改善することはなくても、少しずつ、人の認識に積み重なることになるわけ。少なくとも暴走を抑止する効果はあるわけです。 7. 経済的な問題・・・女の子の逢坂さんは、経済的には余裕がある状態。シングルマザー環境の男の子も、とりあえずは食べるに困っている状態ではない。母親も自分たちの経済状況を子供にグチることもない。もし、経済的に困窮していたら、その面からコケていきますよ。毎日、家でお金の話ばかりが出てくれば、子供としては精神的に切羽詰ってしまうでしょ? ダメダメ家庭としては、非常にレアな好条件が重なって、最後のハッピーエンドになったわけです。現実では、そんな好条件が重なるわけがありませんよ。こんなキャラクターが結びつくと、やっぱり血を見るのが通例。 あるいは、共依存集団であるボランティア活動どころか、対抗心が膨らんでクレーマー系の市民運動に身を投じるようになってしまう。 依存関係であるがゆえに、つまり「need」であるがゆえに、「離れることができず」、行くところまで行ってしまうことになる。そもそも、主人公の男の子は、家族の間すらも依存関係という観点から見ている。「必要とされるから、自分に価値があるんだ!」そう思っている。女の子からだけでなく、自分の家族からも必要とされたがっているわけ。逆に言うと、自分の価値を示さないといけないと切羽詰ってしまう。だからこそ、同類の気持ちがわかるし、惹かれたりする。 まあ、購読者の皆さんの中にも、身に覚えがある心理状況と言えるかも? ダメダメ家庭を考えるにあたって、ある種の学術的な視点もあるでしょうし、芸術的な視点もあるでしょう。このメールマガジンでは、芸術的な視点を中心に考えています。 今回の作品のテーマとなっている共依存の問題も、芸術的には色々と描かれているもの。 それこそ以前に取り上げたバルザックの「谷間のゆり」においても、夫の看病の際に異常に張り切ってしまう妻を見て、医者が「看病している妻の側が重病じゃないか!それを当人は自覚していない。」と嘆息するシーンがありました。 このような共依存症状はアダルトチルドレンには、ありがちなもの。それだけ自分自身から逃避しているわけです。それこそ「谷間のゆり」においては、主人公のアンリエットは「他人の幸福と言うことが、自分はもう幸福になれない人間にとって何よりの慰めなの。」などと宣言することによって、共依存の大義名分としてしまい、自己逃避するわけ。 それはそれでしょうがない面もあるわけですが、そんな人が自覚もしないままだと、どうしても同類が集まってしまうことになる。他者から依存される関係に依存する集団となると、まさにボランティアの連中。 そんなボランティアの連中が、共依存が深刻化して、ドメスティック・ヴァイオレンスやストーカーに陥った人たちを助けようとする。 だからこそ、事態が悪化することになってしまう。自分の共依存を治せない人が、どうして他人の共依存を治せるの? キリストが言うように、「盲人が盲人を道案内する」ようなもの。 一緒に穴に落ちるくらいならともかく、現実では血を見ることになってしまうものなんですよ。 本当の愛に到達するためには、依存関係から脱却しないといけない。 「離れられない」という依存関係を清算し、「離れていても見守っている」という心情なり確信が、愛というもの。 このまま行けば修羅場になってしまう状況は、何とかして解決しなくてはならない。しかし、愛の確信に至るためには、修羅場というか試練を経る必要もある・・・それも現実。 言葉で言うほど簡単なものじゃない。 そしてそんな視点は、学術的な視点ではなく、やっぱり芸術的な視点なんです。 私がこの「とらドラ!」における心理の流れがよくわかるように、この「とらドラ!」の作者さんだったら、私のメールマガジンの記述はよくわかるでしょう。まさか購読者ではないでしょうが、重なる記述も多いんですよ。 そういう意味では、相互理解ができているわけですが、それが相互依存に進んでしまっては、何もできなくなる。 相互理解というのは、依存関係の危険性への認識・・・そこまで含めての理解というものなんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 いつも書いていますが、私としては作品のジャンルには関心がありません。 このメールマガジンで取り上げる際には、入手性は考慮いたしますが。 映像作品となると、この私がいい作品と思えるような作品は、結局は、原作がいい作品となります。俳優とか、あるいは作品の出来ばえとかには関心がありません。 逆に言うと、私にとってのいい作品というものは、原作さえ読めればそれでいい・・・と、なってしまう。映像化や舞台化は、むしろ芸術的にはデメリットになってしまう。 アニメのような作品は、上演時間などの時間的な制約も少ないし、セリフ重視で、あまり過剰な表現をとらないという演出手法も取れる。だから、原作を崩さないで映像化することも可能。 いい原作が台無しになってしまう例で、意外にあったりするのは、オペラになる場合。 せっかくのいい台本なのに、作曲者がその台本のテーマを理解していないまま音楽をつけてしまって、「芸術的に」メチャクチャにしてしまうパターンもあったりするもの。 あるいは、音楽単体ではよくても、その音楽が台本の内容に即していないケースもあるわけ。 20世紀初頭のオペラで「エレクトラ」という作品があります。子供が母親を殺すというドラマティックなストーリーを持つ悲劇です。 台本はフーゴ・フォン・ホフマンスタール。作曲はリヒャルト・シュトラウス。 古代ギリシャを舞台にしながら、「芸術的な霊感を受けた者が、一般社会でどのように生きていけるのか?」そんな芸術家としての普遍的な問題意識をテーマにした台本なんですが、作曲者はその点を何も理解していない。もちろん、「問題意識を理解していない人(=作曲者)との共同作業の困難さ」そのものが、まさに原作のテーマと直結しているわけですが。 ちなみに、その点は、作曲者のシュトラウスだけでなく、現在のオペラ演奏家や解説者も何もわかっていない。芸術的な霊感を持つ者が直面する困難を理解できていない人であるがゆえに、演奏家や解説者に止まっているのも、わかるんですが。 その「エレクトラ」の冒頭の方で、ちょっとしたセリフがあります。 そのセリフとは、「わたしのこの苦しみから、甘い汁を吸おうとしたってだめだよ!」というもの。 以前にこのセリフを聞いた時には、私は上演中に声を上げて笑ってしまいましたよ。 作品上では、登場人物の間で毒づくセリフなんですが、創作者的には別。 このセリフは、原作者ホフマンスタールが、「作品の鑑賞者」に対して毒づいているわけ。 創作者は、まさに苦悩の中で作品を作るわけですが、その作品に視聴して「すばらしい!感動した!なきました!」などと言われたりすると、「何を甘いこと言ってやがるんだ!」と腹が立つわけ。 「テメーらを感動させるために、作品を作ったんじゃないんだぞ!」「わかってもいないのに、勝手に感動しているんじゃないよ!」彼としては、そう言いたいんでしょうね。 ちなみに、創作者は、一般の観客の方々を、何も侮蔑しているわけではないんですよ。羨望を込めて呪っているという感情の方が近いでしょう。だってどんなに努力しても一般人にはなれない・・・それが創作者というもの。そんな心情は無理に理解する必要はありませんよ。 ちなみに、そのオペラ化された「エレクトラ」に対し、ホフマンスタールの友人のカール・クラウスという人が「シュトラウス化される前の『エレクトラ』に大きな拍手をしました。」と言っていたそう。彼は、作品のテーマを理解していたんでしょうね。ただ、彼は後になって自殺してしまいますが。 芸術作品への理解が生きていく上で必要であるとは言えない、むしろ逆。 だから「適切な距離」を保ちながら参考にしていく・・・それが一般人にとっての健全な受容のスタイルなんでしょう。 ちなみにホフマンスタールの「エレクトラ」は、古代ギリシャの劇作家ソフォクレスの「エレクトラ」を元ネタにしています。その戯曲「エレクトラ」での主人公エレクトラは、母親を殺そうとするくらいのビリビリと激しい女性。それにちなんで、電気が「エレクトロ」と名づけられたわけです。芸術作品も、電気も、上手に使えばいいわけです。 |
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R.10/12/21 |